10、困惑
天璃はエメラルドグリーンの波間を、ぼんやりと見つめていた。
突然、後ろから足を押さえられ、焦り振り向く。
「すいません。お待たせしました」
長い髪を風に攫われないように、手で押さえた節子だった。手に繋がれた男の子が、天璃の顔を不安げに見上げる。
菅に連れて行かれてから、家庭的な料理が気に入った天璃は、ちょくちょく節子が働く店へ通っていた。
予定を切り上げ、急遽東京に戻ることになった天璃を、菅たちが開いてくれた送別会の帰り道、ふらりと立ち寄る。
カウンターの一番奥の席。
珍しく日本酒を煽る天璃を見て、節子が声を掛ける。
なんとなく、疲れてしまっていた。
わずか二週間余りだったが、何とも言えない疲労感がある。
その理由の一つが、菅の存在だった。
何かにつけて二人きりになりたがられ、正直困っていたのである。それに輪をかけて、吉田の期待が大きすぎて、どうにも身動きが取れない状態だった。
菅の横暴ぶりは、赴任して三日目で目の当たりにしていた。
食堂に向かう階段脇から聞こえてくる声に、天璃は足を止める。
最初、何を話しているのか分からなかったが、だんだん、彼女が伝票の打ち間違いをしたらしいということが分かって来た。
少し言い方がきついように思えたが、ミスはミス。仕方がないかと思いつつ、その場から離れようと思ったのだが、驚きで思わず振り返ってしまう。
観賞植物の影、菅は腕を組み、事務の子は明らかに泣いている姿が見え隠れしていた。
「あんたなんか事務する資格ない。掃除婦で充分」
「そんなことできません」
「はぁ? 誰のせいで私が恥をかいたと思うの? あんたのせいで笑われたのよ。いくらお宅が苦しいからって、一桁も多く請求されてもねぇって。あん時の私の気持ち、あなたに分かる? ふざけないでよ。クビにしないだけでもありがたいと思って」
「でも……」
「口答えですか? 随分偉いこと。だったら一億の契約でもとっていらっしゃいよ。あんたに出来る? 出来ないわよね? 私はそういう仕事を今、しているの。分ったらさっさと掃除しなさい。いい、隅々までピカピカにするのよ。手を抜こうと思ってもそうはさせないわ。10分おきにチェックするから、そのつもりでいなさい。何よその目。出来ないって思っているんでしょ。ご心配なく、私がわざわざ出向かなくても、あの子達が働いてくれますから」
天井に設置されたカメラを指さし、振り返った時、やっとそこに天璃が立っていることに気が付いた菅は、一瞬ハッとはしたが、すぐに気をとり直しつかつかと近づいて来て、何もなかった様に、お腹、空きましたね。今日のお昼は何ですか。などと、普通の会話をしてきたのだった。
唖然となっている天璃の腕を取り、ごく自然に振り返り、しっかりやって頂戴ね。とさっきまでの口調とはまるで違う、穏やかな笑みを交えての言葉だった。
その翌日、その事務員は辞めたと、吉田がこっそり教えてくれた。
そして、天璃が派遣されるきっかけになった男性社員にも、似たようなことをしていたと、告げたのだ。
何とかならないものかと相談されたのだが、そもそも女性が苦手なうえ、菅はどちらかというと、避けたいタイプなのだ。
その苦境から解放され、少し気が緩んでいたのであろう。
話しかけてきた節子に、いつもよりお喋りになっていた。戻る前に、観光巡りをしようかと考えていることを、つい漏らしてしまう。
下関に出張が決まり、それを聞いた瑠璃が、是非恋愛のお守りを買ってきて欲しいと強請った。ライブとかで行くのだが、自分で買いに行くのが恥ずかしいと言うのだ。そんな話をする天璃に、節子が食いつく。
「恋愛のお守り? 縁結びじゃなくて?」
「そーやろう。おれも言ったんやけど、よかとって妹は言い張るんばいね」
「そうなんだ。だけどいいな。私、まだ、観光らしい観光って、こっちへ来てからしたことないんですよね。ああいいな。あれなんでしたっけ。ほら映画のロケ地とかでよく使われるきれいな海。灯台とかあって」
「角島?」
「ああそれそれ。長い橋、渡って行くんですよね」
散々羨ましがられ、周囲の人たちも話に加わり、話の流れがだんだん怪しくなって行く。
ほとんど天璃の意思に関係なく、あっさり約束が取り交わされてしまっていた。
ただただ苦笑である。
店を出てすぐ、後で誤解を招くことを嫌った天璃は、経緯報告的なメールを送っていた。
恋人の美希に送るのは分かるが、そこに瑠璃にまで送ってしまう自分が情けなかった。
美希はどこまでも大人の対応をしてくれる。感情をむき出しにする瑠璃とはまるで違っていた。有難いと思う反面、申し訳なさが込み上げてくる。
「本当に、良かったのかしら?」
アパートまで迎えに来た天璃を見て、恐縮する節子に言葉少なく笑ってみせる。
話では、女手一つで幼い息子、颯大を育ていると聞く。人当たりが良く、働き者に見える、彼女の頼みを断る理由が見つからなかった。颯大も喜ぶと聞けばなおさらのこと。それに、天璃は子供と接するのが嫌ではなかった。
人当たりの良さは、子供にも通ずるものがあるらしく、一時間もしない内に、颯大は天璃に懐き、肩車をせがむほどになっていた。
久しぶりにこんな喜ぶ颯大の笑顔を見たと、帰り道、車中で節子は腕の中で寝入ってしまっている息子の頭を撫でながら話す。
アパートについても、颯大は目を覚まさずにいた。
重そうに抱える節子に変わり、天璃が部屋まで運んで行くのは自然の流れ。そこに特別な感情など一つもない。
こじんまりとした部屋だった。
窓に掛けられてあった洗濯物のを慌てて隠し、節子が笑う。
部屋を出て行こうとする天璃の背に、節子が抱き付く。
思いがけない衝撃に、天璃は気が動転しまう。
「篠原さん?」
振り向きざまに、節子は天璃に唇をくっつけて来る。
なだれ込むように押し倒された天璃に、節子が抱いてと請う。
必死で節子を押し退けた天璃は、大急ぎで階段を下り車へと逃げ込む。
頭の中が真っ白になっていた。
節子が背後で、何かを叫んでいた気がするがしかし、驚きの方が大きすぎて、何も耳には入っていなかった。
福岡へ向かう道中、天璃の携帯が鳴る。
見知らぬ番号に顔を顰め出た天璃の顔が、みるみる青ざめる。
方向転換させた車中、なぜだと疑問符が天璃の頭の中を幾度も駆け巡る。心臓が早鐘のように鳴り響く。緊張のあまり、吐き気までしてきていた。
うす暗い廊下を足早にやって来た天璃を見つけた颯大が、足にしがみ付いて来る。
「乳井室、天璃さんですか? わたくし、山口県警の桐田という者です」
警察手帳を見せられ、天璃は恐縮する。
事情が呑み込めずにいた。
緊急搬送された連絡を受け、駆け付けたのだが、50がらみのくたびれた顔をした刑事が、まったりと絡みつく目つきで天璃を見る。
母親の事態に怯えきった颯大を抱え上げた天璃は、桐田に促されるまま、ソファーへと場所を移す。
節子の悲鳴が響いたのは、午後8時過ぎ。隣人が気が付き、通報。駆け付けてきた警官によって、胸を刺された節子を発見。幸い、傷は浅く、命に別状はない。と言う話らしい。
桐田の説明を聞いている間中、颯大は天璃の腕を強く握り、仕切に顔を胸に押し当てて来ていた。
「篠原さんとは?」
「行きつけの小料理屋、『隠れ家』で会う店員と客です。特別なものは有りません」
「本当にそれだけですか?」
「どういう意味ですか?」
胸にしがみついている颯大に目をやり、桐田はにこやかな笑みで言う。
「お子さん、随分と懐かれていますが」
笑みとは裏腹の鋭い目つきで見る桐田に、否定すべく言葉を一応連ねたが、去って行く後ろ姿を見やりながら、その半分も信じて貰えていないことを、天璃は痛感させらてしまっていた。
ホテルのベッドの上、颯大の小さな寝息を聞きながら、天璃はため息を漏らす。
まだ4歳になったばかりだと、節子は話していた。
日中は保育園に預け、ビル清掃がある日は、隠れ家の二階で預かってもらっていると言っていたが、本当のところは分からない。それほど浅い付き合いの彼女の事件に、なぜ自分が巻き込まれてしまったのか、全く見当がつかずにいた。
しかし……。
指しゃぶりをし、天璃のシャツの裾をギュッと掴んで寝ている颯大を見やりながら、不憫に思えて仕方がないのだ。
それは一緒に出掛けている時にも感じていたことだった。
その理由が少し、垣間見れた気がする。
これは想像でしかない。
だが天璃には確信があった。
ふと頭を過る想像を追い払うように、天璃は颯大を自分の胸に引き寄せ眠りに就く。
天璃は目を閉じながら、思い出していた。
幼い瑠璃がベッドに潜りこんできて、当たり前のように自分の腕を枕代わりに寝息を立てる。
あのあどけない寝顔と颯大が重なる。
愛おしくて、愛おしくて、誰にも渡したくないと思った。
妹を思いやるそれとは違う感情が、自分にはある。
そう思うだけで、天璃は胸を押し潰されそうだった。
瑠璃が懐けば懐くほど、どんどん膨らんでいく思い。
抱きしめていたい衝動が止められなくなる自分が恐くて、天璃は瑠璃の下から逃げ出した。
朝、目が覚めると、天璃の目に薄らと涙が残っていた。




