二話目
少し、肌寒い朝を迎えた。
あんな事を目撃したというのに、夢も見ることなく熟睡するとはな。どうせなら、これが夢ならよかったんだが、どうやら現実らしい。
「本当に異世界へ転移しちまったってか。はっ……笑えねぇな」
安全な場所で主人公に感情移入し、好きなだけ無双できるからこそ、異世界転移やチートという要素が受けテンプレにまでなったのだ。実際に放り出されるとキツい。知識も武器もないし、どうしろってんだ。
うだうだ考えたって駄目だな。まずは飯にしよう。
川に魚はいないようだし、ひしの実と獣除けの実を食っておくか。消化しちまえば、こっちのも……なんっ、なんだ、こりゃ。
うまい。昨夜はまずかった獣除けの実が、とてつもなくうまい。肉厚の実を咀嚼するたびにあふれ出る果汁。そして、あたり一面に漂う芳醇な香り……これは、まさに桃だ。
シャツの袖をまくる時間も惜しい。どうせ魔法できれいにできるしな。
豪勢な朝食をいただくこと、数分。意地汚く指をなめていると、疑問がわいた。
「見た目はりんごっぽいのに、変な植物だな。しかし匂いはあきらかに違う。昨日かじった実がハズレだったのか?」
メモ帳も筆記用具もないから、言葉に出して情報を整理することにするか。さて。疑わしいなら、調べるのが一番だ。まぁ、聞けるような人もいねぇしな。
さっそくスティールで桃をいくつか落とし、改めて検分する。
やはり匂いはしない。なめた感じは昨日も今日も変化なし。
待ち受けるは地獄か極楽か。いざ、実食。
「……ドブの味がする」
食ったことはねぇが、きっとこんな味なんだろうな。いっそ吐けば楽になれるが、朝食を無駄にはできねぇ。川の水で腐臭を薄めて胃に流し込んだ。まぁ、そう上手くことが運ぶわきゃねぇよな……。
つまり、収穫してすぐが、この味ってことなのかね。
んで、時間が経つと旨くなる……と。かじってまずかったら、次からは見向きもしないだろうしな。これも生きるための知恵ってわけか。
それにしてもベタベタする。桃でテンション上がってはしゃぎすぎた。
ステータスを表示し、魔法の一覧を眺める。おぉ、あった。
『衛生』
入浴せず寝た翌日にありがちな不快感が、きれいさっぱり消失する。服も身体も一度でリフレッシュできるのはいいな。かすかにせっけんの香りもする。
さて、と。いつまでも、ここにいたってしょうがねぇな。行くか。
入念にストレッチをして、最後に靴ひもを締め直す。気合いは充分だ。
そうだ。桃がどれくらいで熟すのか、考察のためにいくつか確保しておこう。この先、食料を手に入れられるとは限らねぇからな。
カッターシャツを風呂敷代わりに、桃を包めるだけくるむ。川沿いに移動してれば、人のいるところにはたどり着けるだろう。
来た道を振り返る。名前も知らない村は、もう見えなかった。
——あれから、かなりの距離を走破した。
太陽の位置と腹のすき具合からして、今は昼だろうか。風にのって舞う桜は、とてもきれいだ。
そう、この世界には桜がある。村の人は日本語をしゃべってたし、ステータス画面の文字も日本語だ。神さまが日本ひいきなのかね。まぁ、意志疎通で苦労せずにすむなら、それに越したことはねぇな。
それにしても腹がへった。試しに桜の花びらを食ってみたが、思いっきり草の味だった。桃は生ゴミのような味へと変化している。ドブよりマシかね。
ひしの実は見つからねぇし、日暮れまでに飯にありつけるか微妙になってきたぞ。ん、あれは人……じゃねぇな。
「よくわからんデザインの石像だな。こんな美女なのに三面六臂かよ」
慈しむように、哀れむように微笑む石像は、それぞれ道の先を見すえている。道祖神とか、地蔵的な物なのかもしれない。三叉路には、石像の他に看板も設置されていた。
ドゥイナッカ村へは北西に四百キロメートル。
ズァイトッカイ村へは南に六百キロメートル。
ナンクァヘーンニャ山へは東北東へ六百キロメートル、ね。
なんだろう、このふざけた地名は。言葉を変に発音したような……とにかくセンスがない。しかも、隣接した村は大都会と田舎。俺が村の住人なら、命名したやつの頭をはたくところだ。
二日間、だいたい六十キロで何時間走っても村はなかった。つまり、ズァイトッカイというのが、あの村なのだろう。ちょうど川も次の村……ドゥイナッカへ続いてるし、水さえあれば空腹はごまかせるだろう。休憩がてら、少し食べ物の味に近づいた桃をかじっていたときだった。
草原の一角が、ふいに揺れた。獣だろうか。
音は徐々に大きくなり、そして——。
目の前に火の玉が現れた。
こんな物体、俺のもといた世界には無かった。
一歩下がれば、二歩詰められる。三度ほどそれを繰り返すと、泣くような、甘えるような感情が火の玉から伝わってくる。
シンパシーというやつか。無遠慮に近いてくる姿は、まるで幼児のようだ。桃をガン見してやがる。
「……これが欲しいのか?」
無害なのか、まだ判断はできない。
油断させる寸法かもしれねぇからな。
手にしていた桃を、そっと地面に転がす。
嬉しそうに、文字通り桃に重なった。……なにをしてるんだ。
しばらくすると、炎が少し強くなった。不健康そうな青い体色に、暖色が混じったようにも見える。桃から離れ、ねだるように俺の胸にすり寄ってきた。燃えるかと身構えたが、杞憂に終わった。
ダメだ。殺すにしても逃げるにしても、完璧にタイミングを逃した。もうひとつ、桃を転がすと重なる。……食事ってことなんだろうか。
桃の外見におかしなところはねぇし、瑞々しく甘い香りも——待て。
これは、熟している。さっきまで、無臭だったのに。まさか。
一口かじる。やっぱり、今朝食べた物と同じ状態だ。なんで。
こいつのおかげだというのか。よく見れば、かわいい気もする。
丸っこい目に、ギザギザした口。球の直径は五センチくらいだろうか。
丸い身体の上部に、オマケていどの炎が揺らめいている。全体的に汚れている気もするな。腹が膨れたのか、俺の肩でウトウトしている。よく落ちねぇもんだ。
「……俺にも利益はあるし、連れて行くか」
……なんで口があるのに食わねぇんだとか、疑問はつきないが生活基盤の安定が先決だ。何事もなければ、日暮れ前には村に着けるだろう。住み込みのバイトがあるといいんだが。
狼の件も伝えないと、近隣が全滅しかねない。……村人は、どれくらい生き延びただろうか。後ろを振り返ると、はるか彼方の空に、赤い煙が上がっていた。
狼煙というやつだろう。俺のように、逃げ延びた人がいたのかもしれない。
いつか、あの狼に立ち向かわなければいけないのだろうか。
剣や弓では、効果が薄かった。素人の俺が、ズァイトッカイの村人以上に上達する可能性は限りなく低いだろう。技術は、一朝一夕に身につくものじゃねぇからな。
だとしたら魔法が有効なのかもしれない。どうにかして、生活魔法以外も扱えるようにならねぇと。だが、俺に殺せるのだろうか。
鬱々と思考の海に沈んでいると、ふいに肩が暖かくなった。火の玉が心配そうに、俺を見上げている。安心させるような、優しい感情が流れ込んできて、少し楽になった。そっと指先でなでると、くすぐったそうに火が揺れる。
「……ありがとよ。さて、行くか」
ぴょこぴょこと、跳ねる火の玉は嬉しそうだ。
桃の包みを抱えなおし、俺は北西へと駆け出した。
2015/11/26加筆修正