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気乗りしなかった歓迎会も何とか無事に終わり、その後は割と平穏に過ごせていると思う。
仕事も慣れてしまえばあっという間、ここへ通うのも後1ヶ月くらいだ。その後はこの人たちと関わりを持たずに穏やかに暮らしたい。
波乱万丈なのは前世でお腹いっぱい、今世はささやかな幸せに満ちた人生を送りたいんです。
旦那にするならウチの会社の課長みたいな人がいいな。いつもニコニコしてて、お茶を注いであげると「ありがとう」と素朴で優しい笑顔を見せてくれる45才妻子もち。
もちろん、不倫なんてそんな平穏から外れることはしませんよ。それに課長の魅力は不倫のフの字も関係なさそうな所ですから。
「前から思ってましたけど、山田さんって綺麗な字を書きますね」
不意に頭上からイイ声が降ってきて、思考も指も止まる。
そう最近の悩みというか問題は、成田さんが何だか妙に馴れ馴れしいこと。
馴れ馴れしいとかおまえが言っていいと思っているのか、という批判は覚悟の上です。だけど、そうとしか言いようがないので仕方ない。
今だってすぐ傍に彼の体温を感じる程の距離なのだ。驚いた拍子にパッと斜め上を見上げたりなんかした日には、漫画なら見開きで背後にキラキラか薔薇が舞っているかのような状況だと予想。
「……ありがとうございます。昔習字を習っていたおかげですかね」
止めていた指を動かしながら当たり障りのない返事をすると、更に距離が近付いたのか、ふわりと少し甘めの香りが漂った。
「へえ、いつ頃習ってたんですか?」
思ったよりも傍で聞こえた声は、まるで耳に直接囁かれたようで背筋にぞくりと震えが走る。
ちょっと離れて下さいよ。どうしようかと思った時、「成田くん!」と鈴が鳴るような声が彼を呼んだ。
「……何?」
近くにあった熱が離れていくのを感じて心底ホッとする。
雪野さん、グッジョブ。例え可憐な声に棘が生えまくっていても、私は心からありがとうと言いたい。
「成田のこと苦手?」
さあ心安らかに仕事に取り掛かろうとしたら、今度は部下2から話し掛けられた。
「いえ、別にそんなことはありませんよ?」
仲井さんを見ることなく答えた私は仕事に集中することにする。
もう話し掛けるな、と言わんばかりにペンを動かしているのに仲井さんは気にしない様子。
部下2は空気を読めないのか。出世しないぞ、と言ってやりたい。
「普通なら、成田から挨拶してもらうだけで真っ赤になるのに」
赤くなるどころか嫌そうですみません。
この時の私は少しイライラしていたんだと思う。そういや生理前か、と後から考えれば納得もするけど、つい衝動的に言い返してしまったのだ。
「だから、誰もが喜ぶとでも? 安直ですね」
しかも鼻で笑いながら言ってしまった。隣にいた仲井さんが驚いて固まっているのを感じて、ようやく失敗したことに気付く始末。
あー、大人しく地味で面白みのない山田さん像が……と、一瞬だけ悔やんですぐに切り替える。
言ってしまったものは仕方ない。部下2だし、何とかなるだろう。
今世では大分ずぶとくなりました。どうにもならないことをいちいち気にしていちゃ生きていけないんです。
部下2との会話はもう気にしないことにして仕事を続けると、「すみません」と謝罪の言葉を告げられた。
「世界は広い。成田に魅力を感じない女性だっているってことを知りました」
突然何を言い出したんだ。今度こそペンを止めて部下2に目を向ければ、そこには和風なイケメンがやたら切れ長の瞳をキラキラさせていた。
一体何があった? 元王子に好きな子を取られでもしましたか?
目が合うとなぜか手を差し出される。本当なぜだ? この手を取るべきか悩んでいたら、また救いの神の声が。
「仲井くんもちょっと来てくれるー?」
「あ、雪野さんが呼んでますよ。私、ちょっとお手洗いに……」
急いで席を立ちトイレに向かう私の背に、鋭い視線が刺さったのは言うまでもないだろう。
雪野さん、私は悪くない、と心から言いたい。