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一応タオルで拭いたとはいえ、濡れた髪と服で電車に乗るのもなぁ。懐はかなり寒くなるけどタクシーにするか、とお財布と相談していたところで、背後から「ミリちゃん!」と聞き覚えのあり過ぎる声が聞こえてきた。
気付かない振りをしてもいいだろうか。いや、いいに決まっている。
止まりかけた足を前へと進めて、不自然じゃない程度にその場を去ろうとしたのに、もちろんそんなのお構いなしの奴の足音がタタタッと軽快に追いかけてきた。
「ミリちゃんってば!」
余裕で追いつき、歩きながらこちらを覗き込んできたのは想像通りの綺麗な顔。
「その呼び方、いい加減止めませんか? 今屋さん」
「だって、呼び捨ては成田が絶対ダメだって言うし。じゃあ、あだ名とかにする? ミリリンとかミリっぺとか……」
「そのままで結構です」
何、その恐ろしい呼び方は。思わず立ち止まって慌てて止めさせる。
ちゃんと伝えておかないと、こいつは絶対呼ぶ。鳥肌が立った腕を摩りながら呼び名の許可を出せば、今屋さんは嬉しそうににっこりと笑った。
「分かった。ミリちゃんって呼ぶのはオレだけね?」
素直なところは可愛いんだけどね、おバカな犬みたいで。
緩いパーマがかかったふわふわの髪と、人懐っこそうな垂れ目がちの目のせいで余計にそう見える。
「で、今日はどうしたんですか?」
「こんな濡れた髪でそんなこと聞いちゃう?」
図体のデカい男が首を傾げない。妙に似合うのが腹立たしいので言いませんけどね。
「いつもいつも思うんですけど。あなた方は私の状況をどうやって把握しているんですか?」
土曜の午後、色々必要なものを買い揃えた後で喫茶店に行ったのだ。予定通りの行動じゃないはずなのに、どうしてこのタイミングで現れるんだろう? 今日だけじゃない。何か困った事があった時は必ずなのだ。
「そりゃあの人たちは凄いからね。でも、ミリちゃんに冷たいのはマイナス評価だけど」
「……今屋さんも成田さんに似てきましたね」
マイナス評価されたあの人たちとは、所謂私のボディーガードの人たちな訳で。つまりは彼らは護衛対象に不満はありつつも、しっかりと仕事をしてくれているという事だ。
なのに、さっきの今屋さんの顔と言ったら。
一丁前に、笑顔で目だけ笑ってない怖い顔をしている。
「ええ、止めてよ。成田に似てるとか。オレ、あそこまで鬼じゃないし」
「鬼、って」
あの王子様な成田さんからは想像つかない言葉に思わず笑ってしまう。すると、なぜか今屋さんも「へへっ」と嬉しそうに笑った。
「ミリちゃんの笑顔、久々見た気がする」
「……あら、高いですよ。鬼の王子様からのお仕置き、せいぜい頑張って下さい」
本当、平気な顔で恥ずかしいこと言うところも似ている。あんな顔して仲井さんもさらりと言ってくるし。
「え! ちょっと、成田には秘密にしておいてくれるよね?」
慌てる今屋さんを放って歩き出せば、それを見越していたかのように前方から部下2が現れた。
「今屋、遅いぞ」
「だって、ミリちゃんが苛めるし」
「……成田が首を長くして待っているのを忘れるな」
いつもより低い声で告げられた仲井さんの言葉に、今屋さんは分かりやすくビクッと震えた。
「という訳で、ミリちゃん。文句は後で好きなだけ成田に言っていいから、とりあえず一緒に来てね」
「お断りします」
何が「という訳」だ。私にはまったく関係ない、と即行で断れば、「ごめんね」という気持ちのこもっていない謝罪とともに、いきなり体がふわりと持ち上げられる。
「えっ…….、ちょ、今屋さん! 下ろして下さい!」
「危ないからじっとしててね」
私を軽々と横抱きにした奴は、いつものように人の話は聞かず、仲井さんと一緒に歩き出す。
「おまえ、知らないからな……」
「妬かない妬かない。たまにはこれくらいの役得がないとやってられないし」
「ぶつぶつ言ってないで、さっさと下ろして下さい。でないと、二度とご飯作ってあげませんよ」
伝家の宝刀、『ご飯作ってあげないよ』攻撃。
なぜだか知らないけど、今屋さんは私が作る料理を相当気に入ってくれているらしい。御飯時にやってきては当然のように一緒に食べて、その度成田さんからきついお仕置きを受けている、という情報を仲井さんが教えてくれた。
「ええ! ひどい、そんな!」
信じられないとばかりに目を見開いて、あっという間に私を下ろしてくれる。仲井さんは呆れた顔で溜息吐いているけど、私は割と今屋さんのそういうところは好ましいと思ってますよ。
なんか欲望に忠実で、尻尾が見えそうなところが特に。
「ミリさん、色々思うとこらはあると思うけど、ひとまず付き合ってくれ。一緒に来ないなら、今夜成田が夜這いに行くと賭けてもいいぞ?」
「仲井の読みは結構当たるよ? ミリちゃん」
すぐに立ち直って無駄なドヤ顔を見せる今屋さんに思わず溜息。
夜這、は御免被りたい。なら、行くしかないかな……
「疲れてるなら、今度はオレが抱えてやろうか?」
低音の魅力的な声が不意に耳元で囁く。驚きのあまり耳を押さえながら後退れば、仲井さんは軽く吹き出しながら「可愛い」と呟いた。
……前々から思ってはいたけど、仲井さんの目はおかしい。眼科に行け、と言っても、オレの視力はマサイ族並だとか訳わからない事言うし。
多分この3人には前世フィルターが掛かっているんだろう、と残念な言動については諦めた。後はせめて、私はスルーするのでせめて人前では止めてくれるように願うしかない。
「夜這は嫌なので、仕方ないので行きます。自分の足で」
私の言葉に笑った2人と共に、今夜の安眠の為に私は歩き出した。