旅立ちは計画的に! 実行の夜
月の無い夜。見慣れた自分の部屋が、どこか知らない部屋のような気がして少し寂しくなる。
次にこの部屋に戻ってくるのは何年後になるのだろうか。
朝、大好きな家族たちがこの事実を知った時、どんな反応をするのだろう。
…それに、と机の上の便せんにそっと手を触れる。
私は、結局彼のことをどう思っているのだろう。
今頃、明日の約束を…きっと心から楽しみにしているに違いない許嫁のことを考えると、 微かに胸が痛むような気がする。
けれど、もう後戻りはできない。
今夜を逃してしまえば、次の新月の前にはもう、私は彼と結婚しているのだから。
全ては、間違いだったのだ。『運命の赤い糸』も、何もかも。
誰もが眠りにつく、丑三つ時。計画通りにバルコニーから庭へ、こっそりと出る。
美しい星空はよく見えないけれど、代わりに私の部屋から一年を通して様々な花が見えるように造られた美しい前庭。
ふわりと優しく吹く夜風に乗って、甘い香りが漂う。
その香りに、心癒されると同時に、切なさを覚えて苦しくなる。
魔力が無いおかげで、私の自室はこの国では異例の1階にある。もし、魔力があったら箒寄せを造るため、他の家族同様部屋は3階だったに違いない。
だからこそ、逃げ出す今、苦労もなく部屋を出ることが出来たのだが、…もっとも、魔力があれば、こんな風に家を飛び出すこともなかったのかもしれない。
魔道大国フェルトリーリエ王国の、名門中の名門、グラディウス家の3女として生まれながら、私はどうしてか魔力無しの状態で生まれた。この世界に生きるもの全てが大なり小なり必ず魔力を持っているというのに。
(それなのに、魔力無しの私の許嫁、ルイ様は世界で一番魔力を有してるとか…笑っちゃう)
途端に、苦いものが胸にこみ上げてくる。
本当に、何から何まで不釣り合いな許嫁なのだ。
今まで幾度となく浴びせられた言葉の棘を思い出し、自嘲する。
(そう、これが正しいことなんだから。…もっと早くこうするべきだった)
私は、何も悪くないはずなのに。好きで許嫁になった訳でも、魔力無しになった訳でもないのに。
(でも、嘆きたい訳じゃない。どうして?と、悲嘆にくれたい訳じゃない!私には、私の進む道がある)
持てない物を望むのも、戸惑い、振り回されるのも、何もかも止めて、私は自分の道を進むのだ。
悩んで、たくさん悩んで決めた自分の答えを胸に、改めて決意する。
そうこうしているうちに、誰にも見とがめられることなく、簡単に屋敷の門へとたどり着いてしまった。
(兄様、姉様…ごめんなさい。私の嘘を、信じてくれたのね)
普段なら庭を見回っている家族の使い魔に出会うこともなかった。
チリリ、と罪悪感が胸を焦がす。だが、後悔はない。むしろ、どこかすっきりとした、ああこれは、きっと。
自由なのだ。喜びと、ほんの少しの恐怖と。
目の前には、堅牢な、高さのある石造りの門。王家と同じくらい古い歴史を持つグラディウス家を長年見守ってきた頼れる門だ。
優美な透かし彫りのなされた扉は、一見すると防御力に欠けるが、魔術的な防御においては最高の物となっている。
門の前には、大貴族の邸宅らしく、2人の門番が立っていた。
だが、そんなことはまるで問題ではない。あらかじめ用意しておいた投げ縄を使い、私は門番達の死角にあたる場所からあっさりと屋敷を出た。
まあ、それもこれも、全ては私が魔力無しだからこそできる芸当なのである。
普通ならば、屋敷に幾重にも張り巡らされた結界が作動するはずだが、死人と同じ魔力無しには全く反応しない。
王都でも王城の次に厳重な警備といわれているグラディウス家自慢の五重結界も、まるで意味をなさないのだ。
あとは、このまま王都を出て国境を抜けてしまえば、おいそれと捕まるようなことはないはずだ。
愛用の大剣を握りしめながら、ふと一度だけ未練がましく振り返れば、私の住んでいたグラディウス家の屋敷のほど近く、月の無い夜にさえ輝きを放つ白亜の王城が目に入る。
(…私は、王妃なんかにはなれない。なりたくもない)
ずっと、そのことを自覚した日から考えてきた。
けれど、この国で絶対的な重さを持つ『運命の赤い糸』を無視して、婚約を破棄することなど到底できない。
ただ逃げ出すことも、公爵令嬢という身分が許してはくれない。
(だから、私は…)
しかし、唯一。身分も何もかも関係なしに、なることが許される職業がある。
この世界ではルチル教会から認められさえすれば、誰でも勇者になることができるのだ。
勇者となれば、元の身分もしがらみも、何もかもが無かったことにされる。
幸い、魔力が無いせいなのかどうかわからないが、力だけは異様にある。
魔法は使えないが、剣技の腕はそこそこいい、というかフェルトリーリエでは間違いなく上位に入るはず!
(まあ、公爵令嬢が剣技が得意っていうのもどうかと思うけれど)
私がいなくなったことは、早くても明日の昼近くまではばれないはずだ。
心の中で小さくさようなら、と告げ、王都の中心街へと向かう。
切ることのできなかった長い髪をなびかせて。