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第一話 道程


帰ったらきっと汗だくは免れないな。

 博多駅から家までの道のりを一人思って呟いた。徒歩三十分は掛かる距離である。ちょうど今、筑紫口からタクシーで友達を見送ったところだ。

七月の下旬であり、辺りは十二時を十分ほど過ぎた夜中の時間帯で、多少昼間より涼しいとはいえ熱帯夜特有の絡みつくような湿気にシャツはすでに汗ばんでいて所々に楕円形の汗染みを呈している。

 右手に持っている缶コーヒーはもう表面に弱久しく水滴を露にしていて、しかし中身は半分以上残っているため、なかば投げやりに温くなった液体を無理やり飲み干した。手に直に伝わる温度も、開けた瞬間の口の中に広がる冷たい爽快感もすでに喪しており、缶から伝わる水滴が僕の手を潤いはしたが、なぜか気だるいふいんきが後に残るのみで、しかも中途半端に水分を補給したせいで間を置かずに粘つく汗が玉のように首筋に浮かんだ。

それを雑に左手の甲で拭うと博多駅の筑紫口から館内出口に向かって僕はだらだらと歩き始めた。

徒歩三十分。僕はそれを呪文ように控えめに呟くと持っている缶をゴミ箱に音を立てずに、そっと放り込んだ。ちょうど近くに浮浪者がダンボールで囲いを作って寝ていたからだ。僕は曖昧に開き気味だった口を閉じて上唇と下唇を軽く内側に巻き込み淡々とした表情を意識しながら横目で浮浪者を窺った。

 僕の進行方向の博多口から筑紫口までは一直線につながっており入り口出口ともドアは開放されていて、そこから気まぐれに控えめな風が通り抜ける程度である。ふと辺りを首を傾げて一瞥するとあちこちに建物の柱に添ってダンボールで囲いを立て通行人の視線を遮るように浮浪者の方々が横たわっている。多少の風があるとはいえ蒸し暑い駅館内である。どんな気分なのだろうか。

 僕はゴミ箱近くの死んだように横たわる浮浪者に視線を戻した。中年とも高齢者ともどちらとも判断がつかない。男であるのはわかるが角度によってはおばちゃんのようにも見える。焦点の合わないぼやけた色彩の紺色の帽子を目深に被って右手を腕枕にして膝をくの字に曲げている。

 じっと見やると胸の辺りが微弱に、しかし安定した呼吸運動を控えめに動作しているのが見て取れる。遠慮なしに凝視していると薄汚れたシャツとズボンの間から覗き出ている薄茶気味に変色しかけた腹が少し大きく膨らんだのがわかった。どうやら僕の存在に気づいているようだ。呼吸が微妙に乱れている。腹で呼吸をするのは明らかに意識してするものだから覚醒はしている、あるいは僕の姿を薄目で確認しているかもしれない。

浮浪者の男は寝ていて、僕は立っているわけだから見下ろす形になる。その浮浪者の生き方の経緯がどうであれ自意識を喪していないのなら傷心しているかもしれない。

 つまり自分に置き換えて考えると、じろじろ無遠慮に見下されるように傍観、俯瞰されると自意識の核心に触れる問題なわけで、僕なら間違いなく内心ひどく傷つくか行き場のない怒りの感情に支配される。しかもその感情をぶつける相手も物もない状態だからより一層心の内部に蓄積されるのではないか。しかもそれは毎日、日々の事であるはずだからそういった生産的ではない感情は断層のように積もっていき圧縮され岩のように凝り固まり、ついには立ち上がれないほどに精神を閉ざしていくだろう。僕はその自覚がある。

 そっと、その場を離れることにした。

なぜか僕は自分は少なくともモラリストでは無いと思った。

 説明は難しいが自分がその境遇に落ちてしまうのはいたく自尊心を傷つけるものだと確信できるが、少なくともその境地に陥った人々を間違いなく非難する気はしないからだ。道徳的な立場でものを言えば家も職も家族も無い境遇に堕ちることはモラルに反する位置にある気がするが、非道徳的な立場にいるとすればそれはわりかし普通の事柄なのだ。それが普通であるとすれば世の人間達は皆在るべき場所に静かにたたずんでいる事になる。僕はなぜか自分の本質として挙げるべき部分に「人間とはいいものだなぁ」というモラリストとしての概念が完全に抜け落ちている、はっきりとした自覚がある。人間を敵か味方に区分する心理が働くと僕は否応無しにそれに従う悪癖がある。人に対して、敵であると自認するに至ると根底から否定的素振りを垣間見せる時がある。しかし味方であるだろうと認識に至ると迎合に近いあるいは味方でいてほしいな、と心の隅で小さく思うと、それにそって心理的にも肉体的にも自分は動くのである。つまり僕は残酷なほどに小心振りな場面を自分に見せて勝手に落ち込むのであるが、否定的にも肯定的にもどう捉えようとしても、とどのつまりこれが自分なのであると最近に至って判ってきた。

 しかし非道徳的とはどういう意味のもとに成り立つ言葉なのだろう。

 意味の核心には微妙に触れている感はあるが核心を論理づけて構築させるはっきりとしたものがぼやけて曖昧なまま、ふと自分が浮浪者に基準を当てて世の中を決め付けている事に気き、そして我に返った。

 携帯を取り出し時間を見た。友達を送り出して五分ぐらいしか経っていない。これからどうしようか・・。

 僕はなぜか早く帰りたいと思った。帰って布団で寝たい。冷房機器を存分に効かして気持ちよく熟睡したい。多分博多駅をねぐらにしている浮浪者を見て何かを感じたからだろうか。少なくとも僕には帰る家が在る。とは言うものの、もはや交通機関は無い。タクシーはあるが純粋に金がもったいないと思った。歩いて帰ろう。

 なぜか、とぼとぼとした足取りで駅館内を抜け表通りに出た。夜のもたらす暗闇が辺り一面に重く立ち込めている。湿気と熱を含んだ微かな風を頬に受けながら横断歩道手前、赤信号で歩を止めた。

 そこらを歩いている人影は無く、ただ外灯の明かりだけが足元をしんしんと照らしている。好ましい静けさだ。車すら通らないので僕は信号を無視して通りを渡った。

 じわりと絡みつく暑さだが時間帯的に街特有の喧騒が無いぶん、感性が研ぎすまされるような、心臓がトクンと波打つような、不思議な感覚を覚える。

歩いてみるのもいいもんだ。そう思った。距離を歩く事で得られる知的興奮はなかなか日常では得ることはできない。もちろん歩く環境、場所も左右する。

 いつもは街の騒音けたましい博多駅周辺も最後の終電も過ぎた時刻で、夜中であるから耳に心地よい静けさが残るのみで、徒歩による足への振動で脳味噌に刺激が伝わり血行でま良くなるのか、とにかく一人で歩く夜の散歩は僕にとって知的興奮を久しく呼び起こすものとなるのだ。

 歩く、歩く、歩く。

 夜の街道を、ただ、ただ、歩く。

 脳味噌の中をいつもとは違う知的光景が開く。

 それはただの言葉の羅列が馬鹿の一つ覚えのごとく溢れ出してくるだけの事ではあるが、それでも自分の基準を微かに越えた興奮状態が少しでも続くのは単純に気持ちが良い。この知的に満ちた感情と興奮がいつまでも続けばいいのにと思う。だが気持ちがそのまま持続しえないのは分かりきっている事だから、僕はそれも単純に受け入れる事しか出来ないと認識するしかない。一時的なものであり、その瞬間だけ僕は自分がある普遍的位置まで上昇しそこから僕という存在を俯瞰し分析し、なにか別の自分を手に入れた感を覚え、自分が自分であると確立し、その瞬間に小さく酔いしれる。

 その小さな酔いは、さざ波のように引いていき、やがて心の奥底に消えていく。

 いな、消えるのではない。

 隠れるだけだ。隠れて虎視眈々と目を光らして浮上するのを待ちわびる。僕にはその姿が見える。その存在を感じる。だから実体の無い観念というべき象徴的なものを日々追いかけるだけ。そして、この手につかもうと足掻く。思いは僕の手から砂のようにこぼれ落ち、残るのは意味の成さない言葉の羅列だけである。だが意味など今の僕にはまさに、意味がない。必要なのは言葉の持つ本質である。言葉の意味、知識など現状の僕には必要ない。その意味の裏側に奥ゆかしく潜む感情を知りたいだけだ。理屈ではなく感情だ。理性のもつ理知、それらを可能な限り取りさらい、後に残る感情、それが真実ではないだろうか。それらは妙にごつごつしていて荒々しくて、そして徹底して繊細で密なるものだ。知の持つパンにバターを塗ったような軽薄なべとつくものはいらない。パンでいえばその本質は小麦である。小麦を練って発酵させ焼いたものが食パンである。

 つまり吹けば飛ぶような在るだけでは役に立たない小麦でも食するまでに手を加えてパンに至るその過程よりも僕はやはりある原始的とも言える小麦なら小麦で核心にのみ興味を抱くのだ。

 ・・言葉の羅列が過ぎた。脳の中で句読点すらない幼稚な駄文が渦巻いている。小麦を核心だなどと戯言を口ずさむ我が身の低レベルさには苦笑を隠しえない。決して卑下している訳ではない。低いのだ。己の性能の悪さにはほとほと嫌気がさす。自覚しているほどに現実は残酷だ。自分を知るのは、そう、残酷な事なのだ。知らずに生きるのが人生は案外と楽しいのかも知れない。

 しかし・・最近の僕は言葉に限らず全ての物の裏側に隠れている本質、真理を知りたくなってきたのは事実だ。僕の人間的な性能を総動員しても、すべてを知り得る事はできないのであろうが、少なくとも考える事はできる。考える事で過去に比べて今の僕を容量のふちまで精神的性能を上げることができるのではないか、しかし僕の場合、限界はすこぶる浅いからそんな模索的なことを別の目で観ていくと他からは変に映るのかもしれない。第三者からは変わって見えるかもしれない。実際、最近は会社の連中から少々冷めた視線で見られているような気がする。僕に人の目を気にするというくだらない羞恥心が残っているとすればバランスを保ち軌道を修正しようと試みるが、現在の僕はそんな気があるような、ないような微妙な時期である。つまり僕の場合考え込むことで人から見たら暗く覇気のない人間に写るかもしれない。考えること、思索することでエネルギーをそこに費やすのだから、社会生活を営むうえで単純な人と人とのコミニケーションを図る余裕の幅が一般的に狭くなる。いや哲学的思考にはまり込もうものなら、普通の生活すらも危ぶまれる状況に極端に追い込まれるだろう。なぜなら僕の知りうる認識に至る哲学は研究をモチーフにその世界に前提として堕ちるのはそこに自分の持てるエネルギーを限りなく注ぎ込むだけで済むかもしれないが、極端に走れば「非」社会性になり乞食、あるいは自殺にまで至るだろう。

 実際に哲学的思考、懐疑精神を持ち得た太宰治、三島由紀夫らは寿命を待たずして自決した。なぜなら彼らはこの世の全てはくだらない、と達観していたからだ。(実際には生まれた時から知っていたのかも知れない)

 達観に至るまで彼らは脳を酷使しこの世を批判的、懐疑精神でものを観る癖が出来上がってしまってるため、現実と妥協する術を喪失した、つまり、何かを得るためには何かを捨てる失うという、徹底的に冷徹な人間でありたかったのではないか。ただそれが自分の命だったわけだ。

 そういった作家としてあるいは文学者としての彼らの破綻的側面はおよそ僕には真似できるものではない。

 なぜなら自分の手で自分の「死」を早めるのは後世に残る人々にとっておそらく「意味」のある行動として彼らは最後の手段として「死」を肯定的にとらえて断行したと、僕は思うからだ。それは文学的にも最後に自分の「死」を見せつけて花のように絢爛に咲いたと思えば次の瞬間には繊細に散って逝く。つまり彼らはナルシスト、しかも究極の自意識過剰者として後の世に伝説として語られることを前提に。である。そこに僕は彼らの最高に位置したであろう「死」というものに対して、あるいは「文学に殉ずること」に対して、疑問を隠しえない焦点の定まらぬ思考が錯乱するのである。

 「死」というものに自らを収束させる事に議を唱えている訳じゃない。問題は「死」に対して意味を持たせる事の本質に策略的な要素を含んでいる事実が解せないのだ。なぜ与える側の人間でありながら、ただ与えられる人々に対して人間の尊厳に深く関わる「死」をなかばパフォーマンス的表現にまで堕とすのか。あまりにも単純で、そして結果的に道化である。

 太宰は「恥の多い人生でした」と語り、

 三島は割腹という、後に新聞やテレビなど大々的にメディアに宣伝されるであろう事実を知りながら。

 自害、自決、死んだのである。

 決して茶化しているのでも何でもなく、文学家、あるいは芸術家と称する人間を馬鹿にしているわけでもなく、・・ないのだが、何かを表現する、無から有を作りえる人間でありながら、与えられる人々には格好をつけた「死」を提供する放漫な遣り口は、無から有を作るという僕のなかにも潜む感性が、親近憎悪的な抵抗感をもよおすのだ。そして・・

 ・・・瞼がぴくぴくと痙攣しだした。目頭におもむろに手をやり揉み解す。眉間に程好い指圧による刺激が、心地よい。

 時間を見た。携帯を開き確認する。

なにやら僕は途方も無く歩き、考えていたような気がしたのだが、実際は十五分強ぐらいしか経ってない。途端、虚脱した。ふくらはぎに強圧的な倦怠が宿る錯覚を覚えた。

 僕はどこか座れる場所はないかと辺りを一瞥した。

 苦笑した。辺りを見まわすではなく、一瞥、である。偉そうだ。すこぶる今の僕は偉そうで自意識過剰である。誰もいないのだ。辺りは人っ子ひとりいない。人口密度の高い博多駅周辺、人工的に作られた道路と歩道と街灯。であるのに人間がいない。

 人工的な景色だから人がいないのも神秘性がある、などと青臭い言葉を吐きながら僕はそっとふくらはぎを揉んだ。揉んで俯いた。深く頭を垂れた。恥ずかしいのは僕だ。何が「無から有を作るという僕のなかにも潜む感性」だ。何が「近親憎悪的な抵抗」だ。放漫は自分で僕は自己愛の塊じゃないか。自己保身にもいい加減にしないと大人になれないぜ。僕はそう思ってぺロッと舌を出した。

 僕はやおら立ち上がり、帰るべき住処を目指した。家に帰れば休めるし寝れるからだ。人間にはやはり自分の居場所が必要だ。

 だから僕は日々をそれなりに頑張るというか、こなすというか日常を淡々とでも生きているのかもしれない。今のところ盛り上がりに欠ける毎日であるが幸せというのは案外そんなものかもしれない。ふ、と思った。

 自分の世界観の狭さに呆然とする自分がいます。

 あまりにも狭義的な自己愛を突出させる自我に愕然とする自分がいます。しかし小説のモチーフになるとしたら、それは自己表現において作品になり得る、そう思いました。

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