02
声をかけられた。
「花は好き?」
問いに、アノイはこくりと頷く。
「変わらないから」
「変わらない?」
「いつの時代も、花は、変わらない」
「……そうなの?」
赤や白、黄や橙、さまざまな色の花たちがレムニスの実家の庭に咲いていて、それはアノイの心を穏やかにしてくれた。
「ねえあなた、どうしてひとりで、ここにいるの?」
「レムが捕まっているから」
「レムニス?」
「ミクニはよくわからない」
「あら……だめねえ、ミクニったら」
「あなたは誰?」
花壇の前に屈んでいたアノイの隣に、日傘を差した貴夫人は礼装の裾が汚れるのもかまわずに、並んで屈んだ。
「わたしはセイラン。リクスン・オルシアの妻で、ミクニとレムニスの母よ」
「……レムの?」
「そう。こんにちは、初めまして、レムニスのお嫁さん?」
少しだけ、吃驚した。それは昨日の、リクスンの状態を見ていたからだ。
リクスンはアノイを目の前にして、レムニスを殴って怒鳴りつけた。アノイのことを、外聞もかまわず「バケモノ」と罵った。アノイとレムニスのことを認める気がないというのは、一目瞭然だった。
「お名前を教えてくれるかしら、魔導師さん?」
ふふ、と微笑むセイランは、レムニスの微笑みと似ていた。
「……アノイ」
「アノイさん?」
「楽土の魔導師アノイ。今はそう、呼ばれている」
「今は? では、昔は?」
「忘れた。誰も呼ばなかったから」
「そう……アノイさんでいいのね?」
「アノイでいい」
アノイを、アノイ、と呼ぶ人は、今も昔も少ない。そもそも、自分がいつからアノイと呼ばれるようになったのか、アノイ自身憶えていなかった。産まれたときからアノイだったのか、それとも牢から出られたときからアノイなのか、定かではない。
「ヒュンゲル公爵の血縁にあると聞いたけれど」
「兄の子孫だ」
「なら、あなたにとっても孫ね」
「子孫だ」
「同じことよ」
ふふ、とまた笑ったセイランは、色とりどりの花たちの中から、白い花を一輪摘み取って、それをアノイの髪に差した。
「可愛いわね」
そう言って、また笑う。
「……わたしに声をかけて、話をして……そんなふうにして、いいのか」
「あら、どうして?」
「わたしは……知っているのだろう?」
「レムニスのお嫁さん?」
「いいのか」
案じるように訊いてしまったのは、セイランがあまりにも無警戒で、無邪気だったから。昨日のリクスンの状態から考えると、セイランの態度はあまりにも、気が抜ける。
「わたしは知っているのよ」
「……知っている?」
「あの子が……レムニスが、恋に落ちた瞬間」
そう言って、セイランは花たちに手を伸ばした。優しく触れるそれは、まさに愛でていると言っていい。
「だめだわ、と……思ったのを憶えているの」
「だめ?」
「あの子、頑固だから。これはもうだめね、と思ったの」
「なにが、だめ?」
「わたしたちがなにを言っても、この子はきっと、その人を手に入れるだろう……って、そう思ったのよ」
あなたのことよ、と言われた。
「わたし?」
「無理だと、言えたらよかったのだけれど……あの子、あなたの近くへ行くためにものすごく勉強して、わたしたちの想像を遥かに超えて、一介の文官から宰相補佐にまでなったのよ。無理よ、なんて……言えなかったわ」
セイランは、そう言いながら笑っていた。
アノイは、笑えなかった。
「わたしは、命が狂っているから……」
セイランは、なにも知らないふりをしながら、実のところを知っていると思う。だから、無理だと思ったに違いない。アノイの命は、狂っているのだ。
「違うわよ」
「え……?」
「無理だと言いたかったのは、あなたの地位。だってあなた、公爵家に血を連ねるでしょう? そのうえ陛下づきの最高位魔導師だもの。同じ貴族でも子爵のオルシア家では、釣り合わないわ」
「……そんなこと」
関係ない、だろう。
そう思ったのは、しかし、アノイだけだった。
「陛下が許可をくださったからよかったものの……もしなかったら、さすがにどうしようもなかったわ。どうやってあなたと夫婦にできるか、わたしにはわからないもの」
できることが限られているから、難しかった。できないことのほうが多くて、とても困った。
セイランはそう言った。
「いい、のか……わたしで」
「あら、どうして?」
「わたしは……命が」
「それはいいのよ。あの子が自分で選んだことだもの。わたしにはとやかく言う資格なんてないのよ。母親だもの」
見守るだけよ、と言うセイランは、やはり無邪気に笑った。
「ただ……そうね、ミクニや夫は、どうしてもわたしのようには思えないみたいだけれど」
困ったように眉間に皺を寄せたセイランは、ここからでも見える室内を見やって苦笑した。
「宰相補佐にまで登り詰めた、それがどうしても、手放せないのね」
「……レムはずっと宰相補佐だ」
「そうね。けれど、それは良縁をもたらす材料にもなるのよ。その繋がりが欲しいのね、あの人たちは」
「……わたしは、魔導師だから」
リクスンやミクニには、認められない存在なのだろう。いくら貴族で魔導師であっても、アノイにはそこに、命の狂った、という名称がつく。それは彼らにとって、好ましくないものだ。
「だから忘れないで欲しいの、アノイ」
「……なにを」
「あなたは、これからはわたしの子よ」
忘れないで、とセイランはアノイの頬を、そっと撫でてきた。
それはアノイが長らく忘れていた、母のぬくもりで。
長く得られなかった、家族のぬくもりで。
「こんな、年寄りでも……そう、言ってくれるのか」
「可愛らしい娘を得られて、わたしは幸せよ」
唇を噛みしめて、俯いた。
レムニスの母は、確かに、レムニスを産み育てた人だ。
やっぱり自分は、レムニスに出逢うために生き永らえた。この人が育てたレムニスに、自分は出逢うために産まれた。
嬉しかった。
「アノイさま。帰り…………、母さん」
「久しぶりね、レムニス。今ちょっと、アノイとお話をしていたの。可愛らしいお嫁さんね」
「……そう言ってくれるのは、母さんだけですよ」
「あら、そうなの? じゃあ、わたしたちだけの可愛いアノイね」
ねえ、と微笑んだセイランに促されて、手を取って立ち上がる。
セイランはアノイほど華奢な人で、並んで立つとアノイのほうが少し大きいくらいだ。レムニスの背の高さは、どうやら父譲りらしい。だがその中身は、セイランのようだ。
「また来てちょうだいね、アノイ。あの人たちはいいの。わたしのところにきてちょうだい」
「……いいのか?」
「そればっかりね。いいのよ、アノイ。わたしは幸せ者だもの」
幸せよ、と言ったセイランに嘘はなく、その眩しさにアノイは目を細めた。こんなに温かい人だから、レムニスもそう育ったのだろう。
「ありがとう、セイラン」
アノイはセイランの手のひらを、両手で包みこんでぎゅっと握った。