02
「そういえばアノイさま、ご実家のほうへお顔を出されていないそうですね」
話しかけられて、ハッと顔を上げる。もう目の前に宰相補佐室があって、レムニスがその扉を開けたところだった。先ほど覗いたときのように誰もない部屋に入ると、定位置となった窓際の長椅子に促されて座る。
「帰るのはもっぱら師団棟だそうですが、ご実家へは帰られないのですか?」
「……知らないのか?」
「はい?」
問うたアノイに、レムニスは首を傾げた。
あの話を知らないわけがないのに、と思うと、なんだか気分が落ちてくる。
知らないほうがおかしい。けれども、知らないでいて欲しい。
それは矛盾した思いだったけれども、アノイがこうしてレムニスのところへ通っている以上、あの話がレムニスに届くのは時間の問題だ。
「わたしの家族は、随分と昔に死んだ」
もう顔も思い出せない家族のことを、誰かに話すのは久しぶりのような気がする。女王陛下に、お友だちになりましょう、と誘われたとき以来ではないだろうか。
「亡くなられて……?」
「顔も思い出せない」
「ですが……ご老体とはいえヒュンゲル公爵はご存命で」
ああ、本当に知らないんだな、と思った。
もしかしたら、アノイのそれらを知らないから、アノイをそばに置いていてくれたのかもしれない。
この話をしたら、レムニスはもうアノイをそばに置いてくれないだろうか。
「今の公爵は、わたしの兄の、子孫だよ」
「お孫さん……?」
子孫だ、とアノイは嗤う。
「わたしは、どうも人より、命が狂っているみたいだから」
己れの手のひらを、じっと見つめる。
この手のひらが成長をやめ、老いることも忘れたのは、いつだっただろう。それを不気味がられ、城の奥深くにある地下牢に幽閉されていたところを、その当時まだ幼かった女王陛下とその父である先王が、外に出してくれた。先王が言うには、そんな魔導師が地下牢に幽閉されているなんてことは、先々王が崩御するまで明らかにされていなかったとか。そもそも、アノイの存在は抹消されていたとか。
命が狂った魔導師。
そんな魔導師がいるとは、誰も、知らなかったとか。
アノイ自身、そんな魔導師は自分以外に、知らない。幽閉されときですら、自分の手のひらがこれ以上大きくならないことに、疑問を持たなかったくらいだ。
時代が変わったのだ、と言われて出た外は、随分と様変わりしていて驚いた。
「あれから、少し、大きくはなったけれど……」
外に出たばかりの頃より、この手のひらが大きくなった気はしている。それでも、それ以上の変化はない。周りの人間が成長し、老いていく姿ばかり、見てきた。
だから、いつの頃からか、憶えておくこともやめてしまった。
自分ばかりが取り残されるのなら、憶えておくのはばからしい。考えることすら、ばからしい。無意味なことは、やめてしまったほうがいい。
どうせアノイは、ひとり、取り残される。
「僕より歳上でいらっしゃるらしいとは、聞いていましたが……」
こぼれたレムニスの言葉は、そこに嫌なものなど含まれていなくて、アノイは不思議に思いながら顔を上げた。
「随分と歳上であられたのですね、アノイさま」
差しだされたお茶は、初めてここで飲んだお茶だった。
「……気持ち悪くないのか」
「はい? なぜですか?」
今の話を聞いて、平然としているレムニスに、アノイは僅かに目を見開く。あの豪胆な女王陛下ですら、アノイの狂った命には驚いていたのに、レムニスにはその様子もない。
「わたしは、もう百年以上も、この姿のままなんだぞ」
「……それがなぜ、気持ち悪いと?」
「人は百年の寿命だ。百年が、限界だ。それなのに、わたしは、それ以上の時間をこのままで……」
バケモノと、罵られたことがある。それは地下牢にいた頃で、誰が言ったものかはわからない。けれども自分はバケモノで、だから幽閉されているのだと、アノイは思っていた。外に出られた今でも、友だちだと言ってくれる女王陛下の存在がなければ、黙って幽閉され続けることを望んだだろう。
アノイは、自分がバケモノだと、わかっている。
魔導師と呼ばれていても、でき損ないのわたしは人間ですらないのだと、思っている。
「以前、本で読んだことがあります」
レムニスが、自分にも淹れたお茶を机に置いて、書棚に手を伸ばした。たくさんの本が並ぶそこから古びた一冊を取り出すと、ぱらり、ぱらりとゆっくり頁を捲る。
「翼種族に限らず、力を持って産まれた魔導師は、ごく稀に、その命に力が使われることがある。そういう魔導師は、己れの命を力の糧にするそうです。そして、その魔導師は一様に、媒体に練成陣を使うと」
杖を持ち歩いておられますよね、と問われた。
「アノイさまは、地面に練成陣を描くとか」
アノイが揮う力の使い方を、レムニスは知っていた。
「魔力ではなく、生命力をお使いになるから、どんなことでも大抵のことがおできになる。しかしそれは……身体に大きな負担がくる」
違いますか、と問うてくるレムニスの双眸は、窓から差し込んでいる光りに反射して、金色に見える。金茶の髪も、光りに反射すると眩しいくらいの光彩を帯びる。
「アノイさまにとって、媒体となる練成陣は、命そのものですよね」
媒体にするものは、力を引きだすためのものではあるが、大抵は呪具の役割の部分が大きい。たとえば負荷を軽減するもの、負荷そのものを背負わせるためのもの、そういったことに使われるのが一般的な呪具だ。
けれども、アノイは違う。
練成陣という媒体、それは命という力を乗せるもの。本来は負荷を背負わせるためものをそう使うことによって、アノイの魔導師としての力は成立する。
では負荷はどこに向かうか、答えは一つだ。
レムニスが言うように、生命力を使った負荷は、己れの身にくる。
「どこが、狂った命なのでしょう」
僕にはわかりません、とレムニスは言った。
「アノイさまは、ご自身の命を使って、力をお使いになる……どこが狂っているというのですか?」
なにがおかしいのだ、どこが気持ち悪いのだ、と。
レムニスは、不思議そうにしている。
その、姿に。
なにも言えなかった。
どこか、ほっとしていた。
そうか、と安堵していた。
女王陛下の言葉を思い出す。
『いつか、あなたをわかってくれる人が、現われるわよ』
彼女の言うとおりだったなと、思った。その言葉を信じたかったから、自分は生き続けていたのだ。
レムニスが気になったのも、レムニスに逢いたくなるのも、レムニスのそばにいたくなるのも、きっとレムニスならわかってくれると、思っていたからだ。
この、お人よしで、優しい人を。
長い生の中で、アノイは、見つけた。
いや、見つけるために、アノイは産まれた。
「レム……」
ゆるりと持ち上げた手のひらは、レムニスより小さい。けれども、経た年月は長い。
それでも。
「はい、アノイさま」
そろりと触れた手のひらを、レムニスは躊躇いもなく握ってくれる。
「わたし……泣きたい」
握ってくれた手のひらに力を込めて言ったら、レムニスはきょとんとして、それから笑みを深めた。
「ええ、いいですよ」
レムニスは本を書棚に戻し、アノイが持っていた茶器を取り上げて、それを机に置いた。そうしてすぐ、アノイに両腕を伸ばしてくる。
「どうぞ、思い切り泣いてください」
脇の下から掬われて、軽々と抱き上げられる。そのぬくもりがあまりにも優しくて、温かくて、アノイは擦るようにレムニスの肩に顔を懐かせた。
「レム……レム」
「はい、アノイさま」
背を撫ぜてくるレムニスの手のひらに、アノイは涙した。