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ようこそおいでくださりました。
楽しんでいただけたら幸いです。
その人は上でもなく下でもなく、中位の貴族で文官だった。
対してアノイは、上位貴族の出身であるうえに、最高位の魔導師だった。
身分の差は、たぶん大きい。
立場の違いも、たぶん大きい。
だから接点なんてなかった。
アノイが一方的に見かけていただけで。
「レムニス」
アノイは、その人の名を呼んでいる声に、歩いていた足を止めてちらりと振り返る。この日もその人、レムニスは文官の官服を着崩すことなくきっちりと身にまとい、たくさんの書類を腕に抱えていた。
「これなんだが……知らないか?」
「ああ、それなら室長の書棚で見かけました。まだあると思います」
レムニスを呼び止めたのは同じ文官で、業務連絡らしい短い会話を終わらせると、互いに仕事を労ってすぐに別れる。
「レムニス……」
つい目が、レムニスのその姿を追ってしまうのは、レムニスが気になるようになってからのことだ。けれども、だからといって、アノイがレムニスに声をかけることはない。アノイはなんとなくレムニスが気になるだけで、声をかけようとしたことは一度だってないのだ。
だが、この日は違った。
「……アノイさま?」
うっかりレムニスの名を口にしてしまったせいで、その声が本人に届いてしまったらしい。レムニスがアノイに気づき、軽く頭を下げた。
「おられるとは気づかずに失礼しました。お帰りなさいませ、アノイさま」
「……ただいま」
わたしの名を憶えていたのか、と少し驚いた。そんな顔はしなかったけれども、胸がどきどきした。
「ご無事でなによりです。陛下への報告はお済みですか?」
「いや……これから行くところ」
「そうですか。では途中までご一緒しましょう。僕も戻るところでしたので」
一緒に、と誘われて、ほんの少しだけ、鼓動が早くなる。いつも一方的に見かけているだけだった身としては、声をかけられただけでも吃驚する事態だ。
「行きましょう、アノイさま」
「…………」
「アノイさま?」
「わたしの、名前……」
「お名前が、なにか?」
「いや……」
なんでもない、とアノイは首を左右に振り、レムニスの隣に並んで歩く。
レムニスはアノイより背が高く、アノイが見上げなければならないほどの長身だ。ほっそりと縦に長いな、と隣を歩くと思う。風に流れる金茶の髪はわりとさっぱりと切り揃えられているが、目許を隠すかのように前髪は少し長い。たまに煩わしそうに前髪をかき上げているのを見かけたが、見るたび切ればいいのにと思ったものだ。
「今回は随分と長く城を離れておられましたね」
話しかけられて、俯きがちだった顔が上がる。
やっぱり前髪が邪魔そうだ、とその横顔に対して思ったが、レムニスの前髪が長いのには理由があるらしいと聞いたことがある。間近でレムニスを見て、その理由がわかった。
「傷……」
レムニスの右目の下に、薄っすらと傷痕が見えた。
「はい?」
「……、なんでもない」
アノイを振り向いたレムニスに、慌てて視線を床に落とした。
傷跡があるから、レムニスは前髪を長くしているのかもしれない。
「……アノイさま、お加減がよろしくないのですか?」
「? なぜ?」
「いえ。長く城を離れておいででしたし、陛下への報告がお済みでないのなら、ご帰還されたばかりでしょう。お疲れなのではと」
「ああ……さっき、帰ってきた。休もうかと思ったけど、やること終わらせてからのほうが、ゆっくりできるなと思って」
「では、ゆっくりお休みできるよう、早く陛下の御許へ参りましょう。よろしければ報告書は僕が作成いたしますが……いかがなさいますか?」
「……いいのか?」
文官たるレムニスが報告書をまとめてくれるなら、それほど楽なことはない。書類を作成するのは嫌いではないが、疲れている身としては早く休みたいのだ。
「僕が聞いても平気な報告であれば、かまいません」
「レイビ山脈の土砂災害を鎮めてきただけだ。問題はない」
「でしたら、少しお時間をください。補佐室へ行きましょう」
こちらです、と促されて、アノイは国王陛下への報告の前に、その書類を作成してもらうべく、レムニスについて行く。
レムニスは、このユシュベル王国の王、女王ユゥリア陛下に仕える宰相の補佐を務めるひとりなので、案内されたのは女王陛下の執務室の手前にある宰相補佐室、数人の文官がそれぞれの机で仕事をする部屋だ。
「どうぞこちらへ。手狭ですがお許しください」
狭いと言うわりには広い室内へ通されると、レムニスと同じように宰相を補佐する文官たちの視線が、アノイへと集まった。ちょっと引いたが、レムニスが気にした様子もなく部屋を横切るので、視線を振り切るようにレムニスを追いかける。
「そちらにおかけください。今お茶を用意します」
レムニスの机は奥にあるようで、そこだけ書類が山となって積み上げられている。報告書の作成をしてくれるというが、仕事の邪魔をしてしまったかもしれない。
「……宰相補佐どの、やっぱり自分で」
「レムニス、と」
「ん?」
「或いはレムと、そう呼んでください。お茶をどうぞ、アノイさま」
差し出された茶器をアノイが受け取ると、レムニスは机の椅子に座り、机の上を少し片づけた。
「お座りください、アノイさま」
「……ありがとう」
「いいえ」
ふっと微笑んだレムニスに、いいのだろうかと迷いながらも、アノイは近くの椅子に腰かける。
「レイビ山脈へ行っておられたのですね。大変でしたでしょう」
「そんなには……規模が大きかっただけで」
「アノイさまおひとりで?」
「動ける魔導師がわたしだけだったから」
「そうでしたか……現状被害はどれほどでしたか?」
ぽつり、ぽつり、とレムニスの問いかけに答えながら、アノイは淹れてもらったお茶にほっとする。寒い時期には身体が温まるお茶だ。うっかり気を抜いたら眠ってしまいそうになる。
「……だいぶお疲れですね」
「それほどでは、ないけれど……遠かったから」
アノイが派遣されていたレイビ山脈は、国の南端だ。この時期はまだ温かくて過ごし易かったが、如何せん王都レンベルからは遠く、移動距離が長かった。滞在していた日数の半分くらいは移動時間にも使ったほどだ。
「報告書は僕のほうから宰相閣下を通して陛下に提出します。今日はもうお休みください、アノイさま」
その提案に、報告書もあるし口頭での報告はあとでもいいかと、アノイは頷く。
それからいくつかの問答をして、レムニスに報告書を作成してもらった頃には、アノイは眠気にゆらゆらと身体を揺らしていた。
「ここで少し休まれたほうがよさそうですね」
「いや……だいじょうぶ」
「心配です。どこかで倒れられていそうで。こちらへどうぞ」
この眠気なら廊下でも眠れる、と思っていたら、それを心配したレムニスに窓際にある長椅子へと促された。ちょうどレムニスの机がある後ろにあった長椅子だ。
「疲れに効くお茶だったのですが、効果があり過ぎたようですね」
そのようだ。レムニスが淹れてくれたお茶の効果で、疲れた身体は限界を超えたらしい。こんなに疲れていたなんて、自分でも驚きだ。
「報告書をまとめていますので、アノイさまは休まれていてください」
どうぞ、と柔らかな長椅子に促されると、もう足が立たない。というより頭を支えていられない。アノイは魔導師団棟の自室へ戻ることを断念して、少し休ませてもらうことにした。
「一眠り、だけ……」
「わかりました」
ちゃんと起こしますから、というレムニスの言葉を聞いてから、アノイは瞼を閉じると身を丸めた。眠くてどうしようもなくなっていた身体は、あっというまにそれを欲し、アノイの意識を奪う。紙の上を筆が走る音、紙を捲る音、アノイを気遣った小さな声での会話、それらはとても心地の良い子守唄だった。
見かけるだけで、気になっていただけのレムニスと対峙したのは、その日が初めてのことだった。
楽しんでいただければ幸いです。
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