03
あなたのことは知っていましたよ、とマルが言った。
「アノイは、ずっとあなたを見ていましたからね」
「……僕を?」
「気づきませんでしたか」
くすりと笑ったマルは、レムニスが確認し終えた書類を一枚ずつ確認しながら、その腕に抱えていく。
「いつ頃からか、それは憶えていませんが……アノイはあなたを見ていました」
「……そう、だったのですか」
見ているのは自分ばかりだと思っていたのに、そうではなかったらしい。それを教えてくれたマルに、レムニスは少しだけ気恥ずかしさを感じた。
「あなたも、ですよね」
「はい?」
「あなたも、アノイを見ていましたよね」
どきりとする。アノイが気づいていなかったそれを、アノイの弟子たるマルが気づいていたとは驚きだ。いや、アノイがレムニスをずっと見ていたと、それを知っているマルなら、レムニスのこともわかったに違いない。
「素晴らしい、観察眼ですね」
「アノイは親みたいなものですから」
そばにいることが当たり前で、師が見つめているものに気づくのだって当たり前で、その変化に気づかないわけがない。マルはそう言い含め、微笑を浮かべた。
「よかったです」
「よかった?」
「アノイはもう寂しくない」
ホッとした、とマルは言った。
「これからはずっと、あなたがアノイのそばにいてくれる」
その表情が、あまりにも遠く感じて、レムニスは眉をひそめた。
「きみは?」
「はい?」
「きみは、アノイさまの子でしょう。今となっては、僕の子でもあります。きみも、アノイさまと僕のそばに、いてくれるでしょう」
書類を確認していたマルが、そっと静かに顔を上げる。不思議なものを見るような目をしていて、なぜそんな顔をしているのかわからなくてレムニスは首を傾げた。
「そばにいてくれないのですか?」
問うと、マルから表情が消えた。
「わたしはアノイになにも返せない」
「……返せない?」
「だから、祈るしかない。願うしかない。わたしは、アノイに幸せになって欲しい」
「それは……」
それはレムニスも願うことだった。
望むことだった。望まれることだった。
「マル、レム、陛下が今日は終わりでいいと……、どうした?」
女王陛下に呼ばれていたアノイが戻ってきて、少しだけ微妙になっていた空気が崩された。レムニスがハッとしたときには、マルは再び微笑を浮かべ、アノイに抱きつかれていた。
今日は、マルがどこかにまたふらりと行ってしまう前に、三人で過ごそうということになっていた。だからアノイは、レムニスとマルと自身と、それぞれが早く仕事を切り上げられるよう、女王陛下のもとに行っていた。
「これを師団長に渡してくる。居室に行けばいいか?」
「レムの邸。陛下からもらった」
「場所は?」
「テリアル通りを入った奥にある住宅地。オルバの木が目印だ。わかるか?」
「オルバの木……珍しい木を植えたな。育ちにくいだろう」
「マルみたいで可愛い」
「かわ……そういうことではないが。まあ、わかった。オルバの木を捜して歩けば、辿り着けるな」
「待ってる」
「ああ」
書類を抱えたマルが、なにごともなかったかのように、レムニスたちに背を向けて部屋を出ていく。
少々、いや多少、レムニスは複雑になった。
「アノイさま」
「ん?」
「彼は……いつから、あなたのもとに?」
「三つか、四つだったと思うが……それがどうした?」
マルが立ち去ってもの寂しくなったのか、アノイはレムニスにその矛先を向け、抱きついてきた。見上げてくるアノイのその姿にいとしさを感じながら、レムニスは複雑な想いを口にする。
「あなたになにも返せないと言うのです。親のようなものだと言いながら」
あの無表情はなんだろう。まるで感情を押し殺したような、それともどこかに置き忘れたかのような、表現しがたいものを感じた。
そばにいてくれるでしょう、と問うたときの、あの不思議そうな表情も気になる。当たり前のようにそれを考えていなかったと、もしかしたらそういうことかもしれない。
「マルは……あれは少し、複雑な生い立ちがあるから」
「ご母堂が先王の妹君であること以外に、なにかあるのですか?」
「護法の大魔導師」
「え?」
「知らないか?」
知らないのかと言うアノイに、いやまさか、とレムニスは首を横に振る。
「数年前に亡くなられた先代の守護者さまでしょう? あのお方が、どうかしましたか?」
「マルの父親だ」
「……、え?」
「それはやはり知らないか」
そのことは知らなくて当然だな、と苦笑したアノイは、仕方のないことだ、とも言った。
「誰も知らなくていいと、マルは言ったからな……だから、ほとんど知られていない」
「……彼が、大魔導師さまの御子であると、知らないでいたのは僕だけではないと?」
「ほとんど、知らない。マルが、そう仕向けたから」
少し驚いたが、驚くのも無理はないらしい。レムニスは危うく失礼をするところだったと思ったのだが、その事実を知らないのはレムニスばかりではなく、多くの人がそうだという。
「隠しておられる、のですか?」
その出生を、その生い立ちを、マルは隠して生きているのだろうか。
「隠す……いや、違う。マルがなにを考えて、それを伏せているのかは、わたしにはわからない」
隠しているのではなく、伏せている。それは、訊かれても黙っている、或いは訊かれないから黙っている、ということだろう。
「なぜそんなことを……?」
父親の偉大さは誉れに思うことだろうに、とレムニスは首を傾げたが、アノイは眉間に皺を寄せた。
「確かに護法の魔導師は、有能だった。その研究は素晴らしいもので、今この国を支えている。そういった事実は認める。だが……」
「……アノイさま?」
「壊れた魔導師は、壊れたままだった」
「壊れた、魔導師?」
「護法の魔導師は壊れていた」
なにかの比喩だろうかと思ったが、アノイの渋面は比喩を使っているようには思えない。
「マルはそれをよく理解している。だから、黙っているのだと思う」
ふいっと、アノイは顔を背けた。それは不機嫌なときのアノイの癖だ。
「壊れた、というのはよくわかりませんが……アノイさま、もしや大魔導師さまがお嫌いなのですか?」
「好きではない。が、嫌いというわけでもない。護法の魔導師の悲しみはわかる」
「悲しみ……」
「魔導師は悲しい生きものだ。けれど……幸せな生きものだと思う」
甘えるように擦り寄ってきたアノイに、ぶわりとどうしようもないいとしさが込み上げる。この可愛さになら殺されてもいい、なんて思うほどに、それは強烈な感情だった。
「マルも、わたしにみたいに、幸せになれたらいいのに……」
「……アノイさまは今幸せですか?」
「うん。レムが……いるから」
アノイに幸せになって欲しい。そう言ったマルの言葉を思い出し、それを口にしてくれたアノイにレムニスは頬を緩ませる。レムニスが今感じているこの気持ちを、なんとしてでもマルに伝え、願っているのはマルばかりではないのだと言ってやりたくなった。