03
なにを犠牲にしたところで、アノイにはもう、犠牲にするもなどなく。あるとしたら、それはレムニスの存在だけだった。だから、レムニスを犠牲になど考えられるわけもない。レムニスになにかあったらと考えるだけで、身体が急速に冷えていく。息ができなくなる。思考が停止する。
レムニスだけは、なにがあっても失えない。
「おれはべつに、あなたをどうこうしようとは、思ってはいません」
「見ればわかる」
「ご理解ありがとうございます」
「おまえを理解する気はない」
「手痛いお言葉ですね」
アノイを見下ろしてくる瞳には、ただただ冷たいものしか含まれておらず、それ以外の感情は見つけられない。悪意もなければ好意もない、といったところだ。だから、最初の言葉は本当なのだろうと思う。
ミクニはアノイになにかするつもりで待ち伏せていたわけでは、ないだろう。ただ、言いたいことがあるだけだ。
「なんの用だ」
「長話するつもりはありませんから、率直に、お訊ねします。……なぜレムニスなのですか」
ミクニがわざわざアノイを待ち伏せるなど、理由はそれくらいだろうと思っていた。だから問われても、アノイは淡々と、ミクニを見上げる。
「わたしには必要だから」
「なにもレムニスでなくとも、あなたは上位貴族で、最高位の魔導師なんですから、ほかにも選びようがあるでしょう」
「レムがいい」
「どうしても?」
「どうしても」
はあ、とミクニはため息をついた。アノイの頑固さに呆れているというよりも、それは途方に暮れている。
「本当に、どうして、レムニスなんでしょうね……下位にも等しい中位貴族の、それも次男坊……あなたとは到底釣り合わないというのに」
「問題はそこ?」
「ええ。おれは父のようにあなたを捉える気はありませんからね。むしろそのことは、わたしにとってはどうでもいいことです」
ミクニの考えは、アノイの予想とは違っていた。それは意外であり、しかし納得できる。ミクニはあのセイランの息子で、そしてレムニスの兄だ。
「……意外そうな顔ですね」
「わたしが長命であること……命の狂った魔導師であることを、気味悪いと思わないのか」
「羨ましいとは思いますよ。その命の長さはね。ですが……」
アノイをじっと見下ろしてくる双眸が、うっすらと、感情を滲ませる。
「人はいずれ死を迎えるものです」
「……不死を否定する?」
「あなたからは死の気配がします」
ハッと、アノイは目を見開いた。
「死ぬのでしょう、あなたは」
「……なぜ、そう言う」
「レムニスを巻き込ませたくないからですよ。これでもおれは弟が可愛いのでね。そんな残酷で悲しい未来に、喜んで弟を送り出せるほど、非道な兄ではありませんよ」
死ぬのだろう、と問うてくるミクニの瞳には、確信があった。それはアノイが抱えている不安を、よりいっそう強いものへと煽るほど、確固たる自信だ。
「わたしが死を迎えるから、レムニスを連れていくなと……そういうことか」
「それもあります。だから言うんですよ。釣り合わない、とね」
ふう、とため息にも近い息をつくと、ミクニは邪魔そうに前髪をかき上げる。その仕草は、レムニスの兄というだけあって、レムニスのそれに似ていた。
「あなた、死ぬでしょう」
「……確信めいたように、言うんだな」
「不死を否定しますので」
「わたしがいつ死を迎えるか、わかるというのか」
「さあ? それはわかりませんよ。ですが、確実に、あなたはレムニスより早く、この世界から消えるでしょう?」
「百歳ほど歳上だからな」
「レムニスを狂わせないで欲しいんですよ」
ぐっと、アノイは言葉を呑み込む。
レムニスを狂わせる。
それは覚悟のうえだったはずなのに、こうして言われると、とても重い。
「兄として、家族として、弟の幸せを祈るのは当然でしょう。ですからおれは、レムニスとあなたは釣り合わないと、そう言うんです」
ミクニの手が、なにかを探すように己れの袂に入る。目的のものを見つけたのか、それともそこになかったのか、僅かばかり眉をひそめるとその手は袂から出てきて、空を握った。
「話はそれだけです。考えてみてください。では、また」
今回だけで話を終わらせるつもりはないのか、それとも袂にあるはずのものがないことに気がついてそれを取りに行くだけなのか、「また」と言ったミクニはアノイに背を向けた。遠ざかっていくその背を、アノイは唇を噛みしめて見送った。
「言われなくても、ずっと、考えている……それでもわたしは……」
ぎゅっと、拳を握る。
命のことを考えなかったことは、今まで一度だってない。いつ死を迎えるのか、むしろそればかりを考えていたと思う。レムニスに出逢うまではとくに、この長い生の終わりばかりを考え、待つことに諦めを感じていた。
レムニスに出逢ってからこちら、どうだろう。
長い生から解き放たれたい。
けれど、死にたくはない。
みんなアノイを置いていなくなったのに、アノイだけが消えることを許されなくて、それが当たり前だったけれども。
「……臆病になったものだ」
今はこんなにも、長い生にしがみついている。
生きたい。死にたくない。
もっと、ずっと長く、レムニスのそばにいたい。
「怖い……なんて、もうずっと忘れていた気がする」
ふと笑みがこぼれる。
自分が、今まさに人間らしいと、思った。
「レム……レム、わたしも人間だった」
空を見上げれば、今日は多い雲が、ぼやけて見える。涙と、それ以外のものが、アノイの世界を滲ませていた。
紫煙を燻らせながら、ミクニは空を見上げ、そしてアノイに視線を落とす。
この兄弟は背が高い、とつくづく思う。座ってくれないとアノイは首が疲れてしまう。
「座ってくれないか」
「なぜ?」
「首が疲れる」
レムニスなら、そこのところをちゃんと理解していて、アノイを先に座らせてから自分も座る。そうして目線を合わせ、にっこり微笑むのだ。アノイさまは可愛らしいですね、と。
「おれを理解しないと言ったあなたに、なぜおれが合わせる必要があるんですか」
ミクニには、レムニスのような優しさは求められない。アノイを気遣う気持ちなど、これっぽっちも持ち合わせていないのだ。今も、アノイに向ける双眸には温かい感情などないし、咥えている紙煙草は無遠慮にアノイのほうへと紫煙が流れている。
「火を消せ。ここは禁煙だ」
「そんな規則はあってないようなものですよ」
「陛下に言いつけるぞ」
「下段庭園で煙草を吸っている文官がいる、と? 無駄ですよ。王公閣下がどこでも煙草を吸っているんですから」
確かに、とため息がこぼれる。女王陛下の夫たる王公、つまり堅氷の魔導師カヤは、どこででも紙煙草を吸う。それでも、人の迷惑にはならないようにしているのがカヤだ。ミクニのように、人がいるところで紙煙草に火をつける、なんてことはしない。
「堅氷は人に迷惑をかけない」
「あなたは人ではないでしょう」
それは侮辱とも取れる言葉だったが、ミクニはそういうつもりで言ったわけではない。
「おれの休憩を邪魔する風なんですから」
「どうしてわたしが通る道で休憩している」
「おれの職場はそこなんです」
ちらりとミクニが視線を向けた先には、第三書庫室がある。火器厳禁の、古い資料が溜め込まれている場所だ。そしてそこは、レムニスが部屋を与えられている宿舎の手前にあり、アノイが必ず通る道に沿っていた。
「邪魔をしているのは、どっちだ」
「ああ、おれかもしれませんね」
この男は、と思う。
レムニスとその仕草は似ているのに、優しさがなく、酷薄な印象が強い。侮蔑や嫌悪のようなものをアノイに向けることはないが、ひどく冷たい目を寄こす。この口から「弟が可愛い」と出るなんて、誰が信じられるだろう。
「兄さん!」
と、慣れ親しんだ声が、警戒を含ませてアノイではなくミクニを呼ぶ。とたんにミクニは紙煙草の火を消し、吸いがらを携帯しているらしい灰皿に捨てると、声にもアノイにも背を向けて職場に戻っていった。
「アノイさま……っ」
漸く己れを呼んでくれたことにほっとし、アノイは淡い笑みを浮かべてレムニスを出迎える。
「探していた」
「すみません、仕事が長引いてしまって」
「いい」
緩く首を左右に振り、近くにきたレムニスの腕にそっと手のひらを置く。すぐにレムニスの手のひらが重なった。
「兄となにを……?」
「なにも」
「本当ですか? このところ、よく見かけるのですが……本当になにも?」
「ここは禁煙だと、言っていただけだ」
「ああ、兄は紙煙草を吸いますからね。ほかには?」
「それだけだ」
今日は本当にそれだけだ。その前は、確かレムニスの性格について話した。その前も、レムニスのことを話した。ミクニとは、最初に話した日から、レムニスのことしか話題にしていない。
「いやなこと、言われませんでしたか?」
「なにも」
「いやだと思うことです。本当に言われなかったのですか?」
身を屈め、アノイに視線を合わせて心配そうに見つめてくる双眸に、アノイは微笑む。
「ミクニはよくわからない。だが、悪いやつじゃない」
アノイが、この数日で知ったことは、ミクニが悪い人間ではないことくらいだ。なにを考えているかまではわからないが、レムニスを心配する兄であることは、確かだった。なにせ、アノイを逢って話すことは、レムニスのことばかりだ。
「……嫉妬しそうですよ」
「なぜ?」
「僕より、兄を信じているようで」
気に喰わない、とレムニスが、珍しくいやそうな顔をした。
「ミクニは……レムの兄さんだから」
「それなら、隠しごとはしないでください。なにか言われているでしょう、アノイさま」
隠しているつもりはないのだが、言わないでいるには、レムニスには不服なようだ。
「……レムのことしか、話してない」
「僕のこと?」
「レムはお人好しだから、それにつけ込むなとか」
「言われているじゃないですか、アノイさま」
「つけ込んでなにが悪いと、返した」
「……言い返したのですか」
言われっぱなしではない。それに、確かにアノイはレムニスから求婚されて婚姻を結んだが、それはアノイが望んだことでもある。アノイからレムニスに求婚したと言ったほうが正しいだろう。だから、言われたら言い返すくらいの気持ちは、当然持ち合わせている。アノイがレムニスを求める想いは、レムニスのそれより、強いのだ。
「わたしのほうが、レムを強く、求めている。それは事実だ」
「だから言い返したと? 僕の心につけ込んでいると?」
「本当のことだ」
握っていた手を離して腕を広げ、ぎゅっと、抱きつく。当たり前のように、レムニスは腕をまわしてくれる。
「アノイさま、なん度も言うようですが、僕のほうからアノイさまに求婚したのですよ? あなたのほうが僕より強いなんて……そんなことないですよ」
「わたしのほうが強い」
「だとしても、つけ込む、なんて……アノイさまだから僕は喜んでこの胸を差し出しますのに」
「……うん」
知っている、とアノイはレムニスに抱きつく腕に力を込める。レムニスは一度だって、アノイの手を拒絶したことがない。するつもりがない。いつだって、アノイが望むようにその身を差し出してくる。ときには強引に、アノイの身を攫う。
「アノイさま」
「ん?」
「あなたは僕の、生涯の妻です。あなた以外、考えられません。それは理解して、諦めてください」
言いながら、レムニスはアノイをひょいと、抱き上げた。アノイのほうが歳上なのに、それはまるで子どもを扱うかのように、軽々だった。
「諦めて、僕の妻でいてください」
「……どういう意味?」
「なにを言われても、すべて、僕のせいだと思ってください。僕があなたを、欲したのです」
真摯な双眸が、アノイの心に浸透してくる。アノイの心を見透かして、包み込む。
それはいつかの閉ざされた扉。
「僕はあなたが、とてもいとしいのです」
誰も振り返らなかった。誰も見ようとしなかった。誰も想ってくれなかった。
閉ざされた扉は、諦めてもなお、再び開くことはなく。
「諦めて、僕に囚われてください」
もうどうしようもなくて、ぼんやりしていた先に、その扉は開かれた。
「愛しているのです、アノイさま」
開かれた扉のさらに先には、欲しくてたまらなかったものがあった。
それがレムニス。
「わたしも……レムだけ」
一度開いてしまった扉が、閉じることはもうない。
この扉が閉ざされるときがあるとしたら、それはレムニスが、アノイを必要としなくなったときだ。
それまでは。
この願いを、この想いを、貫き通す。
「愛しています……アノイ」
「……うん」
胸に顔を埋めてくるレムニスを、アノイは幸せな想いで、抱きしめた。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
『それはいつかの閉ざされた扉。』はこれにて終幕となります。