立待の月
以前、ブログに掲載した作品です。
月には兎が居るもンだ。
そう云って、男はへらへらと笑った。彼は今、玄関の段の所に座って煙管をふかしている。どうもこの光景は何時か何処かで見たような気がする。何故そう云うのかと訊ねたところ、彼は、お前は浪漫と云う物を知らないのか、と鼻先で笑っただけで私の問いには一言も答えなかった。
なァに、付いて来りゃァ今に判るさ。
少し膨れっ面をした私を他所に男はよいこらしょ、と腰を浮かすと、尻をぽんと叩いて立ち上がった。そして、じゃァ、と云って引き戸を開けて外に出る。彼の着物は白地に藍の枯草模様で、丁度尻の部分は真白く、薄く皺が寄っていた。私は彼の背中を追って家の外へ出ることにした。
ホラ、見てみろ。
外は何時の間にか暗くなっていて、檸檬の様に黄色い立待の月がぼんやりと辺りを照らしている。男は得意気に月を指差した。私は其れに釣られて月を見上げる。私の記憶の内では月は確か、海だとかそう云った物で凸凹している筈であった。それなのに、男の指差した月には何処にも影は無い。まるでビードロの珠の様に、只只つるりとしているだけである。私は唖然とした。
私が立ち止まって月を見上げている間、男は何も云わずに草叢の中をずかずかと踏み入って行く。彼に目を戻したとき、着物の模様が月明かりの中で厭にくっきりと目に映った。
兎は居るか、兎は居ぬか。
男は草叢の中程まで来て、唐突に歌い出した。彼の白くぼう、と光る着物が目に痛い。男の尻の部分の皺は、何時の間にか消えていた。
兎は居るか、兎は居ぬか。
男は歌いながら歩き続ける。私はシャツの袖を捲りズボンの裾を折って、其れを追いかける。暫くそうしているうちに、男はいきなり此方をくるりと振り返り、何か変わったことは無いか、と訊いて来た。無い、と答えると男はそうか、とだけ云って、また同じ様に歩き出した。
兎は居るか、兎は居ぬか。
男はなおも歌い続ける。歩き続ける。彼の着物の尻の部分には何時の間にか新たな皺が寄っていた。何故か無性に気になってじっと目を凝らすと、皺だと思っていた其れは着物の模様だと云うことが判った。しかし、何と無く合点がいかない。確か、彼の尻は真白だった筈だ。
何か変わったことは無ェか。
男はもう一度振り返る。私は勿論、あった、と大声で叫んだ。そうか、と男は呟き、此方へ引き返して来る。男は此方に身体を向けているから、尻の模様は見えない。
兎は居たか、兎は居たか。
男はさっき迄とは違う歌を口ずさんでいる。彼が家の前まで戻って来た時、私は変な違和感を覚えた。彼の着物が違うのである。夜闇をそのまま映した様な濃い藍の着物を着て、さっき迄着ていた白の其れを小脇に抱えている。
兎は何処ぞ、兎は此処ぞ。
男は白の着物を徐に広げる。夜風にさらされて、其れは月を隠す様にふわりと靡く。私は着物の後ろの身頃を見ようと覗き込んだ。ところが、着物は元通り真白く輝いている。新たな模様など何処にも無い。私はがっかりした。しかし…
どうだ、居たろう。
男の口許が弧を描く。うっすらと欠けた立待の月はさっき迄と相も変わらず輝いている。只一つ違うのは、其の顔が凸凹していることぐらいである。
其れを見て私は、成程、月に兎は居るものだ、と思った。そして、此の男が兎を捕まえたのだ、とも思った。
立待、居待、寝待。