01 佐々木と熊田と尾上
明治になって、まだ十年も経っていないころのことである。
山々に囲まれた盆地には、春が遅く、夏が短かった。
雪がなくなると、それまで黒く濡れていた野に草が立ち、田の畦にも柔らかな緑が戻った。
沢は雪解けの水を集め、手を浸せば骨まで冷えた。
朝には山の裾から白い靄が湧いた。
靄は田を這い、家々の下を流れ、馬屋の屋根だけを残して辺りを呑み込んだ。
ときには道向こうの家さえ見えなくなった。
日が高くなるにつれて、それがほどけてゆく。
そうすると、昨夜までどこにもなかったような山々が、青く幾重にも現れた。
谷を渡ってくる風には、水と土と若葉、それにときどき馬の匂いが混じっていた。
人の住むところから少し離れれば、もう山であった。
山はどこから始まるとも知れなかった。
田の向こうの雑木林も山であり、薪を拾う斜面も山であり、その先の栗や栃の木が重なるところも山であった。
沢沿いの細道を上ってゆくうち、いつしか人の鎌の入らない草が増え、大木の根が岩を抱き、昼でも谷底の暗いところへ出た。
そこまで行けば、泥に残るのは人の足跡より、鹿や狐や熊の跡のほうが多かった。
村の者は山なしには暮らせなかった。
薪を取り、炭を焼き、木の実を拾い、草を刈った。
家を繕う木も、馬に食わせる草も、冬の炉を絶やさぬ薪も山から得た。
獣を追う者もいた。
けれども、山は人のものではなかった。
昔から、そういうことになっていた。
どこの沢までは入ってよい。
あの峰を越えてはならぬ。
日が暮れてから山の中で名を呼ばれても返事をするな。
見知らぬ女が一人で歩いていても、後を追うな。
誰が決めたのか尋ねても、知っている者はいなかった。
理由を聞けば、年寄りはそれぞれ違う話をした。
昔そこで人が消えたという者もあれば、理由を知ってから守るようなものではない、と言う者もいた。
御一新があり、殿様の世が終わった。
城下では役所の名が変わった。
村でも家ごとに住んでいる者を書き上げ直すのだという話があり、鉄砲を持つ者には、それを届け出よという触れが回った。
代々使ってきた鉄砲であっても、もはや持っているだけで済むものではないらしかった。
それを聞いた年寄りが、
「山の獣にも、お上の決まりを読ませるのか」
と言って笑ったことがある。
別の老人は笑わなかった。
「人の世が変わっただけだ。山には関わりのねえことだ」
そう言った。
村に佐々木という若い男がいた。
二十をいくらか過ぎたばかりで、小柄だった。
山仕事の男たちが並ぶと、その中に一人だけ弟が混じっているように見えることがあった。
このあたりでは、狩りをする者を鉄砲打ちと呼んだ。
佐々木も鉄砲を持っていた。
もっとも、それだけで食っていたわけではない。
田をやり、薪を割り、山から木を下ろし、獣を追う時季になれば鉄砲を持って山へ入った。
鉄砲打ちといっても、村ではたいていそんなものだった。
佐々木は山へ入ると、歩き方が変わった。
家の近くではぼんやり道の真ん中を歩くくせに、山では足元をよく見た。
泥の端がわずかに崩れている。
草が一本だけ折れている。
木肌に短い毛が残っている。
そんなものを見つけると、急に黙った。
熊田が先へ行こうとすると、
「待て」
と言ってしゃがみ込んだ。
そうしてしばらく地面を見たあと、
「こっちじゃない」
などと言った。
どうして分かると聞かれても、
「何となく」
としか答えなかった。
村では、気立ての悪い男とは思われていなかった。
ある冬、独り暮らしの婆さまの家の薪棚が空になりかけたことがあった。
佐々木は頼まれもしないのに、夕方になると薪を何束か担いでいった。
婆さまに礼を言われると、
「余ったから」
と言った。
余るほど薪のある家ではなかった。
そういうところがあった。
そのくせ褒められるのは苦手だった。
とくに若い女から何か言われると、なぜか耳の後ろを掻いた。
子供たちはそれを知っていて、佐々木を見つけるとわざと、
「男前だなあ」
などと囃した。
佐々木は困った顔をして追い払った。
熊田は、それを見るのが好きだった。
熊田は大きな男だった。
背も高かったが、横にも厚みがあった。
腕が太く、首も太い。
顔から手の甲まで毛が濃かった。
暑い日に胸元を開けて歩けば、そこにも黒い毛が見えた。
姓まで熊田なので、
「山で熊に会っても、親類だと言えば見逃してもらえるべ」
とよくからかわれた。
熊田は、
「向こうが雌ならな」
などと返した。
力はあった。
重いものを見ると、頼まれてもいないのに持ちたがった。
二人で運べば済むものを一人で担ぎ、途中で苦しくなっても意地になって下ろさない。
家へ帰ってから腰が痛いと騒ぐので、誰も感心しなかった。
山でも似たようなところがあった。
佐々木が獣の跡を見ているあいだに、
「こっちだ」
と言って一人で藪へ入る。
しばらくすると、髪や肩に枯れ枝をつけて戻ってくる。
「違った」
と言う。
ところが、ときには本当に獲物のいるところへ出てしまう。
佐々木は、熊田には山の獣と同じような勘があるのだと言った。
尾上は、
「獣に失礼だ」
と言った。
三人目の尾上は、二人より少し年上だった。
三十には届いていなかったが、若い者の中では、なぜか相談を持ち込まれることが多かった。
細身で、目の細い男だった。
黙っていると何を考えているのか分からない。
人から何か尋ねられると、すぐには答えず、いったん相手の顔を見る癖があった。
その間が長いので、熊田などは、
「早く言え」
と腹を立てた。
すると尾上は、たいてい余計なことを言った。
ある日、佐々木が村の娘に道で呼び止められた。
それを見た尾上が、
「今の家へ婿に入れ」
と言った。
「何でだ」
「あの家の飯はうまいらしいぞ」
「娘は関係ねえのか」
「お前には飯のほうが大事だろう」
佐々木は笑った。
それでも、その日の昼ごろまで、佐々木はときどき耳の後ろを掻いていた。
尾上は昔の話をよく覚えていた。
どの沢は大雨のあと急に水が出るとか、どの斜面は見た目より土が浅いとか、そういう役に立つ話も知っていた。
役に立つのか分からない話も、同じように覚えていた。
山で誰かに呼ばれた話。
夜更けに馬屋で知らない声を聞いた話。
谷向こうの家の先祖が、山から来た女を嫁にしたという話。
熊田は、そういうものを聞くと鼻で笑った。
「おら、一度も見たことねえぞ」
ある晩、尾上は囲炉裏の炭を箸で寄せながら言った。
「見たことがねえなら、いねえのと同じか」
「いねえものは見えねえべ」
「お前、自分の後頭を見たことあるか」
熊田はしばらく黙った。
「何だそりゃ」
「見たことがねえなら、お前には後頭がねえことになる」
佐々木が吹き出した。
熊田は尾上の膝を蹴った。
尾上は酒をこぼし、
「ほら、馬鹿に理屈を教えるとこれだ」
と言った。
熊田がもう一度蹴った。
そんなことをしているうち、三人で山へ入ることが増えた。
誰が何をするとは決めていなかった。
佐々木がふいに足を止めれば、ほかの二人もいつの間にか止まった。
獲物が重ければ、熊田が真っ先に手をかけた。
帰るころになって空の色が悪ければ、尾上が何も言わず別の道へ入った。
そうしているうちに、三人でいるのが当たり前になった。
田仕事が一段落した晩には、誰かの家の囲炉裏端で酒を飲んだ。
焼いた川魚の皮が焦げ、濁り酒の椀が回った。
佐々木は二、三杯で顔が赤くなった。
熊田は飲んでも顔色が変わらなかった。
尾上は自分ではあまり飲まず、熊田が酔ってきたころに余計なことを言った。
「明日、お前に頼みがあるそうだ」
「誰から」
「戸長から」
熊田が椀を置いた。
「何をだ」
「石臼を山の上まで運んでほしいと」
「何で石臼を山へ持ってく」
「知らん。お前なら喜んで担ぐと思ったんでねえか」
佐々木が酒を吹いた。
熊田はしばらく尾上を睨んでいたが、
「嘘だな」
と言った。
「今ごろ分かったか」
尾上は、もったいない、と言って佐々木の濡れた膝を拭いた。
三人は幼馴染というわけでもなかった。
家も違った。
血のつながりもなかった。
同じ山の下で育ち、同じ道を歩き、同じように大人になった。
それだけだった。
それでも、いつからか一人欠けていると妙に具合が悪くなった。
二人で歩いていれば、
「もう一人はどうした」
と村の者に聞かれた。
そうすると二人のほうも、そこで初めて一人いないことに気づいたような顔をすることがあった。
その年の夏は、雨が多かった。
何日も降り続いた雨がようやく上がると、山は妙に鮮やかになった。
葉という葉が水を含んで黒緑に光り、沢は白い泡を立てて流れた。
倒木には苔が厚く膨らみ、湿った土から茸がいくつも頭を出していた。
朝になると、山と山の隙間を乳のような霧が流れた。
霧の中では、近くの木さえ遠く見えた。
ときには十歩ほど先を歩いている人間の姿が薄くなり、声だけが妙に近く残ることがあった。
だが日が差せば、何事もなかったように消えた。
木々の隙間には青い空が戻り、鳥が鳴き始めた。
鳥は多かった。
名を知るものもいれば、知らぬものもいた。
谷の向こうから一度だけ声を寄越すもの。
人の頭の上を忙しく渡ってゆくもの。
姿を見せぬまま、長く尾を引く声で鳴くもの。
佐々木は鳥をあまり撃たなかった。
食うためなら撃った。
けれど腹にも銭にもならぬ鳥なら、鉄砲を下ろしたまま眺めていた。
ある日、熊田が言った。
「お前、鉄砲打ちに向いてねえな」
佐々木は枝の上を見ながら、
「食うぶんだけありゃいい」
と言った。
小さな鳥が一羽、葉の陰から出た。
一つ隣の枝へ移った。
また一つ移った。
尾上もそれを見ていた。
「そのくらいでいい」
と言った。
「何がだ」
熊田が尋ねた。
尾上は答えなかった。
鳥は三度枝を移り、そこで見えなくなった。
声もしなかった。
三人はしばらく同じところを見上げていた。
やがて熊田が先に歩き出し、佐々木もそのあとを追った。
夏の山は美しかった。
雨のあとの晴れた日などは、山がこちらへ何も隠していないように見えた。
木も、沢も、鳥も、獣の通る道さえ、陽の下にあった。
あまりに美しいので、ときおり人は、自分が何を恐れていたのかを忘れた。
それが山のいちばん恐ろしいところなのだと、年寄りたちは言った。




