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「──へえ、これが……」
葉をほとんど落としきってもなお、天を衝くようにそびえる荘厳な大樹に思わず言葉を失う。
幹の太さは大人が十人腕を伸ばしても囲みきれないほど。乾いた樹皮には別の植物の枯れた蔓が巻きつき、まるで囚われたまま息絶えた生き物の骸ようにすら見える。
「よくこんなものまで知っていたな」
「巷では有名ですから」
隣から胡乱な視線を寄越すエリマスを軽く流しながら、少年を振り返る。
「こんな季節に来てしまったのが勿体ないくらい。夏には葉をつけて、もっと素晴らしい景色が見られるんでしょうね」
しかし彼は小さく首を振った。
「オレが生まれる前から、もうずっと葉はつけてないんだって」
「……畑も随分長く不作だと村長さんがおっしゃってたわ」
折れそうなほどにその細い手首に、約束だった対価──貴族令嬢演出のためにイミテーションのブレスレットをかける。重かったのだろう、ずるりと落としかけたところで少年は慌てて握り直し、そしてそっと目を伏せた。
「だから、……みんな村から出て行っちゃった」
残酷なほどに、全てが物語通りで。
乾いた風が吹き抜ける。大樹は息をひそめたように、揺れることもない。
「でも去年までは、村のみんなも元気だったんだけど」
「去年まで?」
「うん」
例の奇病、ラミアの母親の命を奪うことになったあの病が流行り出したのはいつからだったか。
(しまった、大前提過ぎてさすがに覚えてない)
取り繕った表情が崩れていないか、内心で冷や汗が伝う。
「村を明るくしてくれる、優しいひとがいたんだ」
「? その方に何かあったの」
「……死んじゃった。今年の、春に」
どくりと、心臓が跳ねる。
誰の話か分かっていないはずなのに、血が逆流するような感覚。
「そ、れは……惜しい方を亡くしたのね」
視界の端のエリマスには、まだ気づかれていない。
「どんな方だったの」
この村の現状を憂うより、少年の不遇を憐れむより、私が今何を考え危惧しているのか。
「お姉さんと丁度同じくらいだったかも」
偶然だ。あり得ない。
「女性?」
「うん」
「その方は……きちんと弔われたの?」
「みんなでお墓作ったから……」
少年は吸い込まれるように歩き出す。数歩進んだ先は、大樹の裏側。
大きな石を削ったような、急ごしらえだったことが分かる墓石。
歪に刻まれた文字を前に、目が滑る。
<陽の下で穏やかに眠れ ラミア>
──あり得ない。
「亡くなった、原因は……?」
口の中が乾く。
爪先から温度が消えていく。
「すごい大雨が降って、ラミア姉、一晩中いろんな家回って、助けに行って」
「ええ」
「おばあさんが一人、大怪我してて、だから医者を呼びに行って、そしたら」
震える声に、はっと我に返る。
子供の目に、大粒の涙が今にも零れそうに溜まっていることに気づいた。
「…………ごめんなさい、嫌なことを思い出させて」
膝をついて手を取り、細い肩を抱き寄せる。
それはまるで自分の動揺を誤魔化すためのようで、胸が痛む。
あり得ない。
春にはすでにラミアが死んでいた?
そんなはずはない。
同姓同名の可能性だってある。
「私の友人にも、同じ名前の方がいて……思わず彼女と重ねてしまったの」
「そうなの? 珍しい名前だって言ってたよ。うちの村にも一人だけだったし」
あのラミアであるはずがない。
「……その方のご家族は今はどうされているのかしら」
私はどこまでも小賢しく、そしてもう後戻りできないほどに、淀んでいる。
「──大丈夫か」
揺れる馬車の窓からぼうっと夕陽が水平線に落ちるのを眺めていた。エリマスは私に声をかけるのにも幾分か迷ったのだろう、分かりやすく怪訝な顔をしている。
「申し訳ございません。今更、疲れがどっと出てしまったようで……大変失礼しました」
あの後、子供の厚意に誘われ、私たちはラミアの実母の元を訪ねた。
いつか紙面で見たままの家の形、周りの景色、そして母親自身の容貌、彼女から語られるラミアの話。
全てがあの彼女と一致していた。
途中から自分がどんな返事をしていたのか、どうやって馬車に乗り込んだかも記憶が曖昧だ。
何もお叱りがないということは、おそらく無礼は働かずに済んだのだろう。どっと何かが肩に圧し掛かるようで、瞼が重い。
(全く頭が回らない……)
私が聖冠の神子を騙るよりも前に、本物はこの世を去っていた。
つまり物語が始まるよりも、一年近く前に。
行方不明の可能性も考えたが、山で滑落したラミアの遺体は発見され、正規の手順で弔われていた。
全てを聞き終えた私はまるで罪滅ぼしのように彼女の母親には金目になるものを押し付け、医者にかかるよう伝え──そして逃げるようにその場を去った。
私はまだこの世界を、誰かに作られた都合のいい物語だと信じていたかったのに。
仮にラミアが、聖冠の神子が本当にもういないのだとしたら、この先に何が描かれることになるのか見当もつかない。
最悪のifだ。
しかしこの段階で知れたことを前向きに捉えるしかない。
ラミアではない誰かが聖冠の神子になる可能性だってゼロじゃない。
冥王の復活が前倒しになったことも何か影響しているのかもしれない。
事実、私はアレクトに干渉したことで彼の闇堕ちを阻止している。
すでにここは、私の知る世界から大幅に逸れている。
受け入れるしかない。
王城に戻ったらまず何をすべきだろうか。
いや、それよりも実家に戻ってアレクトに会うべきか。可能なら彼は監視の意味も含めて近くに置いておきたい。エリマスに頼むか? いなくなったティシポネの行方を探れば冥王の現状が分かるだろうし、いやそれよりも──
「顔色が悪い。早めに宿に、」
「……エリマス様は先に王城に戻って頂けませんか」
一瞬の間を置いて、すっと彼の目が細められる。
「行き先は当然お伝えします。実家、アルカヌム伯爵家に立ち寄りたく」
さすがに突然公爵当主を連れて行くわけにはいかない。
引いてくれ、と願いを込めて視線を交わした。
「何故急に」
「ふと家族の顔を見たくなりました。せっかくの休みですし」
「殊勝なことだな」
「いや、殊勝というか──」
言いかけた言葉は、馬車が大きく揺れて急停止した衝撃にかき消された。咄嗟に踏ん張り、無様に転がるのは免れたが、舌打ちしたエリマスは容赦なく外を覗き込む。
「一体何が、」
「お、王家の伝令鷹が……空に!」
つられて外を見ると、御者が指さす先、夕空を大きな翼が旋回していた。まるで金粉を撒くように、鷹の軌跡からは形容しがたいほど美しい光の粒が零れ落ちている。
馬車を降りたエリマスを目がけて、鷹は一直線に降下した。野生のそれより一回り大きい。唖然とする私の前で、エリマスは慣れた様子で鷹が咥えていた封書を受け取る。
「初めて見ました……伝令鷹……」
鷹には鳩のような帰巣性がない。本来伝書鳩まがいのことはできないのだけれど、それを使役できるのが王族の力。
エリマスは眉を顰めながら封書を躊躇なく開き、そしてしばらく文字を目で追うと深く溜息を吐いた。
「悪いが先ほどの話はなしだ」
「え」
「至急王城に戻る必要がある、特に君が」
「え?」
振り返ったエリマスは僅かに躊躇し、けれど一段声を低くしてこう続けた。
「……聖冠の神子が現れたそうだ」
すでにアドラストス猊下の謁見は、済んだ後だと。
◆ ◆ ◆
アドラストス猊下はグラナトゥム王国の教会組織のトップであり、その次席が大司祭となっている。聖冠の神子を名乗るのであれば彼らの承認がなくてはならない。
逆に言えば彼らに認められさえすれば、私のような紛い物が聖冠の神子だと通ってしまう。
そういうわけで私は王城に戻るまでの道中で二度嘔吐した。
精神と頭が完全に追いついていないせいである。
「…………本当に大丈夫か」
馬車の中で戻さなかっただけ褒めてほしい。王城に着くと慌ただしく神子もどきの正装に着替えさせられ、しかし私はきっと神子らしからぬ表情と顔色だったに違いない。
準備が良すぎるだろう、何もかも。
(よりによってラミア死亡を知ったこのタイミングで……?)
ほとんど単身で聖殿に送り込まれそうになった私に、やや強引に言い訳をしてついてきてくれたエリマスも、おそらく私が逃げるか、あるいは聖冠の神子に手を上げるとでも思っているのかもしれない。
聖殿までの道のりはそう長くないのに、まるで処刑場にでも送られるような心地だった。
「君は聖冠の神子を見れば本物だと分かるのか?」
「や、どうでしょう……見たことないので」
準備をする時間もなかった。視界がちかちかと瞬いて、頭がぼうっとする。仮に本当に聖冠の神子が出現したなら、やはり偽物はさくっと逃亡するしかない。
しかし今度こそアルカヌム家を逃がさなければ。
どうやって?
外回廊から覗く空は、まるで黒く塗りつぶされたように暗い雲に覆われていた。月の灯りすら落ちてこない。普段は溜息が出るほど美しい星空が広がっているのに、これも何かの予兆だろうか。
聖殿の堂の扉が重々しく開かれる。
「──聖冠の神子、ノーナ・アルカヌム様のご到着です」
正面にはアドラストス猊下。
高位の聖職者のみが纏える法衣に身を包み、そして入場した私には視線を寄越さない。
一方で、その足元──彼の前に、ひとりの少女が跪いていた。
頭から深いヴェールを被り、髪も横顔も伺えそうにない。そしてその周囲を囲むように、神官たちが静かに控えている。まるで私が初めてこの場に訪れた時と同じように。
喉がひくりと痙攣する。動揺を隠すように、猊下を前に深く頭を下げた。
「お休みのところ突然の呼び出しとなり申し訳ない」
「とんでもないことでございます、猊下」
その視線が、私と少女の間をゆっくりと往復する。
やりとりを合図にしたように、大司祭が腰を上げた。
「こちらにいるのが──此度、聖冠の神子を名乗る者です」
神官たちがざわりと衣擦れの音を立てる。
少女がヴェールを取りながら、ゆっくりと顔を上げた。
艶のある黒髪に、茶褐色の瞳。
右目下の泣き黒子。
あどけなくも整った、横顔。
「……、」
悲鳴を上げなかった自分を、ただ褒めたかった。
(……どうして)
──あの村で弔われたはずの、貴女がいるの。
「改めまして、ラミア・ヴェスペルと申します。恐れながら聖冠の神子の力を賜り……王国のため、王家のために尽力したく馳せ参じました」
愛らしく、それでいて凛としたよく通る声だった。
「ラミア殿はヴェスペル男爵家のご息女で、ある日突然力に目覚めたとのことです。……すでにアドラストス猊下により、その力はお確かめ頂いた後です」
大司祭の言葉を合図に、その場のほとんど全員の視線がこちらに及ぶ。
それらに敵意はない。むしろ私の予言通りになったことに対する、高揚に近いものだった。
「ノーナ・アルカヌム伯爵令嬢。この者を前にして違和はないか」
「……私には、特に」
震えた声は誤魔化せただろうか。
「今回の神子は聖なる加護の力をまだ行使していない。今後の処遇及び聖冠の神子としての職務については追って通達を──」
それからのことは、あまり覚えていない。
ラミアと目を合わせないように聖殿を出て、何度かエリマスに声をかけられたことは覚えている。ただ何と答えたかは分からない。
あれだけ待ちに待った本物の聖冠の神子を前に、私は足が竦んで何もできなかった。
彼女は気づいただろうか。
私が偽物であることに。化け物であることに。
なら逃げるなら今晩のうちだ。
逃げる? どこに?
王国を出るならエリマスに伝えなければ、彼との契約違反になる。
せめてアルカヌム家だけでも逃がさなければ。
こんなことなら、もっと早くアレクトに真実を話しておけば。
いや、そうじゃない。
「あれは、誰……」
剥ぐように神子の衣装を脱ぎ捨て、侍女たちの制止を振り切って自室にひとり飛び込んだ。
王城の一角、ただの伯爵令嬢に与えられるには大層な、まさに聖冠の神子という賓客のために誂えられた部屋。
扉を閉めると世界と遮断されたようで──ようやく頭が冷えてくる。
ヴェスペル男爵家なんて聞いたこともない。原作にも出てこなかったはずだ。
(でも、)
自ら聖冠の神子を名乗る彼女こそが本当のラミアで、村で亡くなった少女は全くの別人と理解すればいい。
世界が少しずつ変わっているのなら、ラミアの身の上が変わっていることだって受け入れられる。
寝台に倒れこみ、思考を巡らせる。
こうしている場合じゃないことは分かっているのに、身体が鉛のように重く動かない。
約束通りエリマスはラミアと婚約を結ぶだろう。
しかし実際、ああしてラミア本人が現れてしまえば、王家の意向が変わってオルフェンと結ばせる可能性もなくはない。
エリマスには私の力を付与している。
最悪、彼の恋が叶わなくとも、命を落とすことはないだろう。
ならば私はまずは護衛役から離脱して、いや、けれどエリマスとの契約がある以上──
「ノーナ」
控えめに扉が叩かれる。その声の主が誰かなんて確認する必要もない。
「はい」
「体調が悪そうだと聞いたが」
「ええ、ですから今日は早く休ませて頂こうと思いまして」
顔を見る余裕はなかった。相手が公爵であろうと失礼にあたろうと、今はそれどころではない。
「だが、」
「それよりも聖冠の神子──ヴェスペル男爵令嬢の方に行かれた方がよろしいかと」
本心だ。思ったよりも自分の声に感情は乗っていない。
「……それについても君と話がしたい」
「私は何も存じ上げませんよ」
むしろ教えてほしいくらいなのだから。
「今日は侍女も連れていない、だから部屋に入るつもりはない……君が許すなら、聖苑の庭で待っている」
足音と共に気配が遠ざかっていく。
聖苑の庭、それは王城の中でも高位聖職者と王族の血縁しか立ち入りが許されていない場所だ。聖冠の神子も当然前者に含まれる。
エリマスと不毛な会話をしている暇などないのに。
(……いっそ逃亡の許しでも乞うか?)
溶けるようにだらりと身体を寝台から下ろし、飾り気のない部屋着を隠すように外套を羽織った。




