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 果たして、ただの人間にどこまでやれるだろうか。


 立ててきた仮説がぐらりと傾く。

 一方で、万一の場合はエリマスではなく私でも対応できる──その点では吉報と言えた。


 私の手を取ろうとしたレミジオが、はっと身を引く。

 その表情は、人間らしく揺れている。

 

「ごめん、私のことも怖いだろうと思って」

「……いえ、こちらこそこんなことに巻き込んで、申し訳ございません」


 ある意味、今一番怖い相手なのは間違いない。

 しかしこれが演技だとしたら、騙そうとした私が言うのも何だけれど──それこそ化け物だ。


「当然誰かに言うつもりもない。私に相談したこともエリマス様には言わなくていいし、勝手に殿下を問い詰めることもしない……でもいずれにせよ、エリマス様には事情を話した方がいいと思う。君を責めるような人じゃない」


 まさに、万事休す。







「……人間だったな」

「人間でした……」


 エリマスの部屋に戻り、がっくりと項垂れる。

 今はまさに、ただの人間ではない二人が、顔を突き合わせて落ち込んでいる奇怪な状況だ。

 遠目に隠れていたエリマスにも、鋏の出現は目視で確認できたという。


 あれからひたすら演技を続け、レミジオ本人に宥められながらなんとか逃げ切ったものの──胸の奥は、当然穏やかではない。


「……レミジオさんの疑いが晴れた訳ではありませんし」


 むしろマテルの聞き取り調査の資料が消えている時点で、証拠隠滅の線は濃厚だ。


「あのまま殿下の護衛を任せて大丈夫なんですか?」

「むしろ君の嘘のお陰で少なくとも今晩私が殿下の護衛を変わろうとすれば、レミジオには穿(うが)った目で見られるだろうな」


 思わず天を仰いだ。不覚だ、そこまで考えていなかった。

 目には目を、歯には歯をと、レミジオがマテルを騙した罪になぞらえて動揺を誘うつもりだったけれど──このままでは、私がただ倫理観がない最悪人間になってしまう。

 

「……でも、あれが演技だとしたら本当に恐ろしいです」

「演技じゃない可能性の方が高い」

「え」

「君に対して悪意があるわけじゃないなら、本心から同情していてもおかしくはない」


 しかしあんな嘘を吐いてしまった以上、このままで放っておくわけにもいかない。

 確信めいたことは明言していないけれど、レミジオは最悪のシナリオを想像したに違いない。それを誘導したのは私だ。


「もしこれで殿下への憎悪とか、悪感情が増していたら……」

「……憎悪か」


 エリマスは、痕の残る私の手首を取る。

 治さなくていいのかと再三聞かれたけれど、方針が定まるまでは残しておかなければならない。


「本当に憎悪なら、いくらでも殿下を殺める隙も実力もある」

「……確かに」


 そこまで手練れかつ周囲からの信頼が厚ければ、首を取ることもできるだろう。

 加えて、生身の人間でありながら、人ならざる謎の力まで行使できるなら尚更。


「かといって、殿下になり替わろうとしているわけではないんですよね……」


 分からない。

 分からないまま、喉奥はじわじわと重くなる。


「やはり今晩のうちに、強引にお二人を拘束するか……レミジオさんはまだしも、団長の方はまだ分かりませんね」


 もし無実なら、拘束することで重要な戦力を削ぎ落すことになる。


「……いや、君のおかげで私も冷静になった。おそらく今夜何か動くつもりは先方にもないだろう。城内がこれだけ警戒されているところで派手に立ち回るとは思えない」


 防具を外しながら、エリマスは深く溜息を吐いた。


「ですが」

「拘束したとしても、君の言う通り確かに物的証拠がない。下手に警戒されれば次はない」


 夜風が、窓を叩く。

 レミジオの心底気に掛けるような声と表情が頭に浮かび、思わず溜息が漏れた。


──のだけれど。


「…………それはそうと」

「? はい?」


 光のない目が、こちらをじっと射抜いている。


「緊急事態だからと思って特に追及しないでおいたが……何だ、縛れだの噛めだの、一介の貴族令嬢が咄嗟に思いつくか?」

「えっ、いや、」

「まさかそういう──」

「ど、読書の、読書の範囲の知識ですよ!?」

「一体どんな本を……いや、いい、君は良い諜報官になれる」


 上着を乱雑に投げ、タイを緩めながら長椅子に腰を下ろす。

 その動きに妙な苛立ちが滲んでいるのを察して、私は一歩後ずさった。


「私も着替えに、」

「まだ話は終わってない」

「いやしかしこんな時間ですし、私ももう、緊張の連続で」

「殿下に何もされてないとか言ったな?」


 じり、と逃げようとした手を、もう一度掴まれる。

 その力の強さに、息が詰まった。


「え?」

「私は殿下から君にうっかりキスしたと丁寧なご報告を賜った。……で? もう一度聞こう。"何もされていない"と?」


 あの王太子、やりかねないとは思っていたけれど。

 まさか本人の口から聞かされていたとは。


「い、いやいやいやいや、さ、だ、あの状況でその程度のことはもう水に流すレベルというか」

「どの状況の、どの程度のことだ」

「というか、知ってらっしゃったならそう仰っていただければ」

「その程度なら君から言うかと思ったら見事に隠したな」

「だって完全に殿下の悪戯というか悪意というか、それどころじゃなかったですし」


 確かに、戻ってきた時のあの詰問に妙な間があった。


「そうです、今はそれどころじゃな──」

 

 強引に引っ張られて、隣に着席させられる。

 長椅子は軋み、私と同時に悲鳴を上げた。


「こっちは身内を疑わざるを得ない状況でじりじりしている最中に殿下から訳の分からない申告を受けて君からは嘘を吐かれて、挙句縛れだの噛めだのどこで覚えたのか分からない知識を披露されて、」

「エリマス様。後から怒るのやめましょう、その時おっしゃってください」

「…………」


 敢えて強気にぐい、とエリマスの胸を押して、即座に失敗したと思った。


「じゃあ私だって言いますけど──日中偶然メンテ様とお会いしたんです。城内で本当に偶然」

「……何を、」

「エリマス様のことまだ忘れられないって、お辛そうでした。他のご縁談も進まないほど」


 顔を見れば負けそうで、背もたれの刺繍に視線を逃がす。


「あのお歳の良家のご令嬢が忘れられないほどです、周囲に隠す必要もないですし、さぞ素晴らしいエスコートをしてデートをなさって贈り物をして、時に熱い夜をお過ごしになられたんでしょう、あの方が忘れられないのも当然です、さて本当に酷いのはどっちですか?」


 エリマスが何か言おうと小さく息を吸った気配がして、被せるように言葉を続ける。


「私はエリマス様と違って、貴方が過去に何人、誰と何をしてようが全く気になりません。お互い子供ではないんですからその辺りは割り切って──いや、待ってください。私たち今こんな話をしている場合ですか?」


 ふっと頭の中の熱が冷める。

 自分でも驚くほど急に。


「それより、明日以降について真剣に考えましょう。まずは今回のお二方への疑念を殿下にご説明すべきかどうか、」


 言いながら顔を上げると、背もたれに肘をついたエリマスの表情は、死んでいた。


「……まだ君はオルトシア侯爵令嬢の話を?」

「その話は今しがた終わりましたよ」

「以前言った通り私は正式に断りを入れて、」

「いえ、なのでもう良いです。落ち着いて下さい。別にお二人の今の仲を疑っている訳ではないですし、一方的に責められたことに一矢報いようと嫌味を言いたかっただけなので」


 言いながら、自分の声が妙に乾いているのが分かった。

 一方のエリマスはといえば、目には見えないけれど、心の青筋が立っているのだろう。

 私が興ざめすればするほど、彼の何かが沸騰しかかっているのは手に取るようにわかる。


 しかし分かった上で無視をする。

 何故なら今、それどころではないからだ。


 エリマスはすっと息を吸い、そして止め、堪えるように浅く吐き出していく。

 この世界にまだアンガーマネジメントの概念はないはずなのに、自然と会得しているとは末恐ろしい。


「……ノーナ」

「はい」

「私は今、この十年近く背中を預けてきた身内二人の裏切りを疑っていて、君が思っている以上に気が動転しているし、冷静じゃない」

「……はい」

「おそらく私よりも君の方が精神的に遥かにタフだし、君は意地を張っている訳ではなく、もう良いというなら本当にもう良いんだろうが」

「……」

「もう少し手心を加えてほしい」


 静かにそう言われると、無理やり鎮めていた何かが、しおしおと萎えていく。

 エリマスにとられた私の手は、その滑らかな頬へと導かれた。

 温度のある皮膚と、触れた唇の端。

 その瞬間、知らないうちに全身に力が入っていたことに気付く。


「今は君と口論したくない」

「……、申し訳ございません」

「いや、私が悪かった。謝らなくていい」


 伏せた目を縁取る長い睫毛が、薄い頬に影を落とす。

 私の方が、ずっと長く生きているのに。


「君が城外にまだ婚約の事実を隠していたいという気持ちも、その判断の正しさも私は理解しているし……むしろ尊敬している」

「……それは、」

「本当はそんなものを背負わせず、一日も早く婚約式をして、誰の目にも触れないように邸に囲い込みたい。防刃着ではなく毎日ドレスを着せて、君の鋏も、庭先の鼠の駆除でしか使う場面がないように」


 取り繕うとしたことさえ見抜かれたように柔らかく手の甲を包まれる。

 もう片方の手は躊躇なく腰に回り、息が詰まった。

 触れられたところから、じわりと熱が広がる。


「なんて言いながら、今の私には誰より君が心強い」

「……」

「ある意味本当に、敵に回したくない」


『つまるところ君は、……敵に回すと最悪の生き物ということか』


 かつての冷ややかな声が脳裏に蘇り、今との温度差に眩暈がした。


「その上で」


 僅かに崩れた前髪の間から、じろりとセレストブルーが覗く。


「証明のしようがないがオルトシア侯爵令嬢とは一切そんな関係を持ったことはない。二人で密室にいたことは一秒たりともないし、婚約者"候補"であってそれ以上でもそれ以下でもないし、そんな無責任なことはしない」


 濁したままで終わらないのは、彼の良いところなのか、あるいは。


「大体君と彼女は人間的に真逆だろう、君の言葉を借りるなら好みじゃない」

「わ、分かりましたから」

「そして前から不思議だったんだが君の頭のどこかに男は子種をばらまく生き物だとでも言いたげな妙な価値観が植わっているのは何なんだ?」


 逃げようとして、しかし噛みつかれそうなほどに距離を詰められ、極力首を反対側に逸らし、ぎりぎりまで視線を泳がせる。


「滅相もございません公爵閣下、全て私の特異な偏見で、」

「縛るのも噛むのもか?」

「……すごい引っ張りますねそれ」

「多少の耳年増は理解できるが妙に慣れというか、冷めているというか」


 男は女の処女性を求めるというけれど、この貴族社会では特にそうなのかもしれない。

 こんなことなら、手が触れる度に顔を赤らめておくべきだった。


「あのですね」


 とはいえこのあたりで、分からせておかなければ。


「随分ご自身のことを棚に上げておられますが、エリマス様こそ触れ方ひとつ、腰の抱き方ひとつ、女の扱いひとつ、全て妙に慣れていらっしゃるでしょう、私も癪に障るんです。ほら今も。だからいちいち照れたりしません、癪なので」

「慣れ、」

「そんなに私の貞操が気になるなら、初夜にでも確認なさって下さい」


 頬に触れていた手で、ぐに、と綺麗な顎を歪ませる。


「それから個人的に、貴方が焦れているのを見るのは気分がいいです。私、歪んでいるので」


 目の前の喉仏が上下するのを、私はどんな顔をして見ていただろう。




◆ ◆ ◆



──翌朝。

 城内にはまだ、昨夜の騒ぎの余熱が薄く漂っていた。廊下を行き交う足音はいつもより早く、どこか落ち着きがない。


 護衛の詰め所には夜明けと同時に招集がかかり、前に立つエリマスからは、当面は一層の厳戒態勢を敷くようにとの指示が淡々と告げられた。

 その声はいつも通り冷静で、昨夜あれほど感情を揺らしていた人間と同じとは思えないほど。


 護衛や騎士団には“王太子の偽物”という核心部分は伏せられ、国王とエリマスの謁見中に侵入者が現れ、逃亡した──その事実だけが共有されている。

 当然、エリマスが斬りかかられた件も伏せられたままだ。


 朝から顔を合わせた護衛たちは私が昨日オルフェンと同時に姿を消していたことを知っているようで、労いの言葉をかけながらも、どこか探るような視線を向けてきた。

 が、彼らも私の失踪に慣れてきているのだろう、侵入者に王城内で拘束されていたという説明だけ与えられているようだ。

 ここで必要以上に聞かれないのは──便利なことに、エリマスの圧が効いているおかげだろう。


「犯人、昨日のうちに見つからなかったんですね……」


 私には私で、強がりながらもしおらしいノーナ・アルカヌムになりきる任務がある。

 あれからエリマスと再び話し合い、容疑者であるレミジオと団長の二人の動きを水面下で探りつつ、表向きは普段通りに振る舞うという方針が固まった。


「……その、大丈夫? 体調とか」


 レミジオは心配そうに、遠慮がちに覗き込んでくる。


「大丈夫です。こんな状況ですし」

「今日くらい休んでも何も言われないと思うけど……」


 その視線は、詰め所に顔を出した例の騎士団長と話し合うエリマスの背中に向けられていた。

 エリマスもまた、昨日の動揺はおくびにも出さず普段通りに振舞っている。


 探るべくは、やはり動機。

 何故そんなことをしたのか、ならば次に何をするつもりなのか。

 それが読めない限り、防ぐこともできず、奇襲を受け続けるだけになる。


 ひとしきり口論を終えた後のエリマスとの話し合いは、結局深夜三時まで続いた。


 まず、仮に容疑者が騎士団長あるいはレミジオだった場合、先日起きたフレゲトン王国の使節誘拐──実際にはエイレネ王女が巻き込まれたあの一件にも説明がつく、とエリマスは言った。

 城内に侵入者を招き入れ、かつ脱出まで許すのは容易ではない。その点、彼らならやりようはいくらでもある。


 一方で改めて頭を悩ませたのは、やはり“なりすまし"の件だ。


 ケイロンは言っていた。

 アーテは私の霊液の扱い方を学習し、それがオルフェンへの成り代わりを成立させているのだと。

 それにより、化け物か、あるいは神の類を使役している可能性があることを。


『今回レミジオさんが今ただの人間だと分かった以上、一体どうやって殿下の中のアーテと干渉しているのか……仲間なのか、あるいは操られている可能性もありますよね』


 私はケイロンの言葉を思い返しながらしみじみと頷いていたのだけれど──


『待て』

『? なんですか』

『確かに殿下の成りすましの件、人間ではない力が加わっているとは聞いていたが、アーテが関わっているとは聞いていない』

『うそ、申し上げたはずですよ』

『じゃあ何か、さっき君が単身でレミジオに向かっていったあの時、頭には"背後にアーテがいるかもしれない"と踏んでいたと?』


 詰め寄るエリマスの背後には黒い何かが立ち上がり、その後は言った、聞いていないの押し問答になり、揉めに揉め──以下は割愛する。



 仕事の合間に時折レミジオを盗み見るけれど、昨夜エリマスを斬りつけたとは到底思えない。

 熱が引いたオルフェンの護衛は当面エリマスが就くという話にも、心底同情するような視線を寄越してきたくらいだ。


 仮に何かに操られているのなら──例えばその時間の記憶が抜け落ちていることに怯えたり、あるいは逃げたり隠したりせず、いっそ自分は操られていると表明して、無実を訴えるはずだ。


(でも今回、なりすますにも相当な手間がかかること、そして成立条件が必要なことが分かった以上、向こうにとっても容易ではないのは確かだし)


 いずれにせよ、二度と起こらないようにオルフェン側にも対策を取ってもらう他ない。




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