62
「一野次馬としての興味が勝ちました」
「え、帰るって、」
「私も良い息抜きができましたし」
ひょいと身を起こすと、オルフェンはこちらへ向かってくる。
「ノーナ」
「な、んですか」
「誰かの弱点になると言うのは、中々できることじゃないですよ」
私の前を通りすぎ、オルフェンの足が向かうのは、鍵がかかっているだろうと後回しにしていた金庫だった。
まるで迷いがない。
本当に、答えを知っているかのように。
彼が中から取り出してきたのは、一枚の封筒だった。
「? それは……」
「中。見てもいいですよ」
「え」
ただの手紙ではないことは、触れた瞬間に分かった。
「あの、これは……」
「手紙ですよ」
「ですが、」
「私が生まれる前に、王妃殿下から、陛下へ宛てられた手紙です」
剥がれた蝋から、開封済みであることも分かる。
封筒は妙に重かった。
「陛下への……?」
「懺悔の手紙ですね」
オルフェンの表情も声も、落ち着いていた。
「私が見て良いものでは──」
「便箋三枚に渡って、お腹の中の子供の父親が、陛下ではないことを詫びています」
音のない世界ならすんなり入ってくるはずの言葉が、喉でつかえて落ちてこない。
「……それは」
「これは初めて開けて読んだときのものなので状態がいいですが、元の世界に戻ると読み返しすぎてボロボロなんですよ」
顔が、見れなかった。
「二度とも、共通点はこの手紙だったので」
「……」
「読み終わった瞬間にぐらっと。なので多分、これを破るなり何なりすれば、戻れる気がするんですよね」
「……殿下」
部外者の私が、声を震わせていいわけがない。
「貴女は勘が良いし、薄々気が付いていそうな気がしたので。以前は言い訳しましたが……嘘を吐きました」
王妃がその事実を断定し、リスクを犯してまで夫たる国王に告げた意味くらいわかる。
王族の姦通罪は特に重い。悪質だと認められれば死罪に当たる。
『貴方には尊き王族の血が流れておられないではないですか』
『まあ、あの反応を見る限り、自覚はしているんだろう』
「貴女が聖冠の神子ではなく糸績みの魔女だと知った時、なんてリスキーな嘘を吐くのかと感心したんです」
「……」
「そんな大噓つきの貴女にこそ、この手紙を処分していただきたい」
幼いオルフェンはどんな思いで、これを受け取り目を通し、金庫に封じたのだろう。
想像することすら躊躇われて、息を呑む。
「殿下」
「? なんですか」
部屋の隅にある、あの巨大な鍵付き箱に手をかける。引きずれば一人で運べる重さだ。
「え、ちょ、あの」
「やるなら、それっぽいの全部捨てましょう」
手紙を一旦懐にしまい、大股で箱を引きずる私をオルフェンは呆然と見ている。
「殿下すみません、そっち持てます?」
「……これ、窓から投げる気ですか?」
「そうです」
窓の鍵を開錠し、開け放つ。不気味なほどに風はない。
本来なら落下防止柵がつくはずの高さだが、好都合なことに投げ放題だ。
「はい、せーのでいきます」
「え、ええ」
「せーの」
無機質な箱が、出窓から宙へ、そして落ちていく。
物理法則が無視されるだろうかと思ったけれど、地面に叩きつけられたそれは無事に砕けた。
「あとはやっておくので座っててください」
眼下を見て固まっているオルフェンを放置して、床に並べた本、書きかけの羊皮紙、ペン、とにかく全て投げ捨てる。
「他、なんかあります?」
「い、いえ……」
「そうだ」
ここで何を破壊したところで、どうせ元の世界に戻ったら残っているのだろう。
「よいしょ」
不格好に底上げされた椅子を担ぐと、オルフェンが慌てた。
「……さすがにそれ、重くないですか?」
「? いえそんなに」
下を持ち、遠慮なく投げ捨てる。
派手な破裂音に、思わず肩が跳ねた。
「では最後にこれを」
預かっておいてよかった、と、オルフェンから没収した短剣を出す。
こういうものは手で千切るものではない。
机に置き、剣先を向ける。
そしてうどんを切るがごとく丁寧に刻み始めた私に、オルフェンがドン引きの眼差しを向けてきた。
「……それはアルカヌム伯爵家流ですか?」
「人力シュレッダーという技です」
通じないだろうが構わない。
社会人たるもの、危険な書類はこうすべきだ。
細切れの短冊になったそれを、もう一段階手でびりびりに破り、窓の外から無感情に捨てる。
風がない中、何にも攫われることなく紙切れは雪のように下へ下へと散っていく。
「……あれ、戻らないですね」
すぐ傍のオルフェンを振り返って──避けきれなかった。
「え」
視界が、ぐにゃりと潰れた。
まるで見えているものすべてを握りつぶしたかのように。
たまらず目を瞑ると、天地がひっくり返った感覚に襲われる。
──"また"だ。
『この場所を知るのは私と貴女だけです』
柔らかい声が、頭の奥で反響する。
鬱蒼と茂る木々。
その奥に、幾重にもそびえ立つ壁。
葉が囁くように揺れた。
『もし私に何かあった時には──』
もう顔も、表情も、思い出せない。
『貴女に判断を委ねます』
「──……ッ、は……」
風が、頬を撫でていた。
重い瞼を開けると夜空が広がり、背中には冷たい石畳の感触。
身体の軋む痛みで、ようやく現実に引き戻される。
最後に通った廊下かと思ったけれど、どうにも違うらしい。
周囲の景色で、ここがどうやら王城の屋上だと理解した。
(殿下は……?)
見当たらない。
オルフェンも戻れただろうか。
しばらく呆然としたのち、はっと我に返る。
(……ほんと、とんでもない人だな)
幻でなければ、あの瞬間──
特別な意味はないのだろうけれど、袖でそっと唇を拭った。
「ランパス」
【……ノーナ様……!!】
ぽん、と目の前に火の玉が現れる。それだけで張りつめていた力がふっと抜けた。
顔が見えなくても、泣きそうになっているのが分かる。
【一体どこにいらしたんです!?】
「私も聞きたいけど、まずごめん、今いつの何時?」
【いなくなられてから二時間近く経っております……】
やはり時間の流れにずれがある。
あの世界ではもっと経っていたはず。
「……殿下は?」
【え、ええ、ノーナ様より数分前にお戻りになられましたが……】
「お部屋に?」
【はい、ただ高熱がおありなので、今は侍医の方々が診ておられます】
ランパスにも動揺が見える、ということは私たちの状況は精霊にとっても予想外だったということだ。
(森の精霊に連れ去られた時は関知してたし……)
「状況を端的に教えてもらっても?」
【まずノーナ様のお姿が見えなくなり、その後オルフェン王太子殿下も行方が分からなくなり……わたしだけでなくメガイラ様や冥王陛下にも捉えることができず、城内は騒ぎになり】
「冥王陛下にも……」
【と思ったら、王太子殿下の偽物が城内に現れまして】
私の形相を見るなり、ランパスはふよふよと低空飛行になる。
「偽物……?」
【ええ、しかし当然すぐ偽物だと分かりましたので、大事には至、】
「目撃者は?」
【こ、国王陛下と、エリマス様で……あとご側近数名でしょうか】
最悪が過ぎる、立ち眩みがした。
唯一、そこにエリマスがいたことは不幸中の幸いだけれど。
【それよりノーナ様、あの、わたしがここにいるということはつまり、エリマス様にはノーナ様がお戻りになったことが伝わっていますので……】
「あ」
私が呼びつけた瞬間、ランパスは元いた場所から消えたはず。
【精霊に死はないんですが、もうほんと、さっきまでタルタロスの番人かというくらい恐ろしくて……】
「ごめんすぐ行く、どこ行ったらいい?」
【お身体は大丈夫ですか?】
「この通り」
勢いよく腰を上げる。
ぐったりしている場合じゃない。
「あ、待って」
【? どうされました】
「……殿下、戻ってきたとき何か言ってた?」
【いえ……ただ、ノーナ様もすぐお戻りになるはずだとだけ】
何はともあれ──状況は動いた。
◆ ◆ ◆
ランパスに送り届けられたのは、誰もいない私の部屋だった。
屋上から歩いて戻れば余計な騒ぎになる。ここは『気づいたら部屋だった』が一番手っ取り早い。
【ではお伝えして参りますので、今目を覚まされたということで……】
言われた通り、私はわざとらしく寝台に横たわり、ゆっくりと身体を起こす。
そしてランパスと私にもし来世があるなら、絶対に同じチームで働きたい。
(……にしても)
偽物が現れたということはどういうことか。
しかも城内に。
屋上から戻る途中、ランパスは言っていた。
【エリマス様が国王陛下に状況を報告された折に突然現れ、しかし捕える前に逃げられてしまったと──】
あのエリマスを前に逃げ切るなんて。
ただ、恐らくその場にいた人々も動揺したに違いない。
(オルフェンがあの異空間にいた間、偽物が現れた……)
仕組みがさっぱり分からない。
思考が空転しかけたその時、ノックもなく扉が叩き開けられた。
この状況も何度目だろう。
息を切らしたエリマスは飛び込んでくるなり、私を見て一瞬だけ警戒の色を浮かべる。
「……本物です。毎度申し訳ございません」
「……、よかった……」
早足で近づき、例のごとく確かめるように抱き留められる。
見慣れない真新しい制服と、腰帯についたサーベルハンガーの重い音が、城内がいかに警戒態勢だったかを物語っていた。
「体調は?」
「全く問題ありません。それより殿下は?」
「……熱は高いが意識はある。心配しなくていい」
そう言いながら近くの灯りを点け、脱力したようにしゃがみこむ。
「私も状況が呑み込めていなくて……」
「殿下と一緒だったのか。二人だけ?」
「認識していた限りでは二人だけだったかと」
どこから説明すべきか。
考えあぐねていると、エリマスは視線を泳がせ逡巡し、地を這うような溜息を吐く。
「…………何もされていないな?」
「色々ととんでもない状況ではありましたけど……」
「そうではなく」
「そういう意味でしたら、何も」
じり、と探るような視線が向けられる。
『貴女がエリマスを振り回すせいで、私も結構とばっちり食らってるんですから』
ふと頭をよぎるのは、憎たらしい王太子の笑顔だ。
「ただ、あまりに時間があったので、せっかくですし認識のすり合わせはしましたよ」
「……認識?」
「お互い全く好みではないということです」
寝台から降り、肩を鳴らす。
「それより、城内が騒ぎになっていたとお聞きしました。まずは状況のご報告を、殿下が体調不良ということでしたら私から陛下に……エリマス様?」
「ああ、いや、……確かに。君が良いなら、すぐにでも」
最低限の正装に着替え、先を急ぐ。
廊下を出ると、すれ違う侍女や兵たちが一瞬だけ息を呑み、安堵とも困惑ともつかない視線を寄越した。
忙しなく会釈を返しながら、エリマスから私たちが失踪していた二時間について掻い摘んで聞かされた。
ランパスがまず私の不在に気づき、オルフェンから離れてエリマスへ報告に向かった矢先──ほとんど同時にオルフェンの姿も消えた。
おそらくエリマスが脅したのだろう、ランパスはすぐ冥界筋に問い合わせたが、打つ手なし。
存在ごと感知できない。
つまり事実上“消えた”わけだが、そんな話を城内で共有できるはずもなく、エリマスの判断で行方不明扱いに。
誘拐の疑い──ということで国王に報告に向かった折、その場にふらりとオルフェンの偽物が現れたと。
「しかし、どうして偽物だと?」
「……陛下がお気づきになられた」
「え」
国王には、当然マテルの妊娠騒動の話なんて報告していない。
オルフェンの偽物が現れるかもしれない、なんて前提はないはずだ。
「そもそも、その偽物はどういう風に現れたんです? 戻りましたよとか、」
「いや、私が背後を取られて、背中を斬られた」
「は?」
「君の加護の力がなかったら今頃私は治療室にいただろうな」
「え? な、え?」
何事もなかったような顔で歩くエリマスの腕を思わず掴み、足を止める。
「お怪我は!?」
「今はない。見るか?」
「そ……じゃあいつもと服が違うのも、」
「血で汚れたから。あれはもう廃棄だな」
「エリマス様が背後を取られるって何ですか!?」
「……落ち着け」
異空間で鬼ごっこなんてしている場合じゃなかった。
道理で私の部屋に入った瞬間、エリマスがあれだけ警戒していたわけだ。
「まさか殿下の顔をした別の人間にいきなり斬りつけられるなんて普通思わないだろ」
「それは……そうですけど、……他の方に、お怪我は」
「ない。私を斬って満足したのかすぐに逃げた」
「そんな……」
掴んでいた私の手をそっと解き、まるであやすように手のひらを包み込まれる。
そのまま歩き出す姿は、迷子の子供を連れていくようだった。
「城内でそれだけのことをして、逃げ切るなんて」
痛がる様子は一切ない。
けれど、背後を取られたという事実だけで、衝撃は相当なものだったはずだ。
「陛下は、よくお気づきになられましたね……」
「私はあまりにも心当たりがありすぎて気づかなかった」
あっけらかんとした言い様が、かえって重く響く。
「とにかく今は陛下には君の無事を伝えればそれでいい。何があったかは殿下の体調が戻ってからだ。逃げた偽物については軍部が捜索しているし、君がすることはない」
「しかし、」
「……こっちは気が気じゃなかった」
たった二時間。
けれど大袈裟だとは到底言えなかった。
そう言い切れないほど──私には前科がありすぎる。
◆ ◆ ◆
城内の中枢部に近づくほど、空気は張りつめていった。
無事の報告だけと言われたはずの謁見の場は、まるで裁判所のような重々しさだった。
エリマスが隣にいなければ、まともに声も出なかっただろう。
必死に頭で用意していた説明の出番はなく、質問すらない。
指示されたのはただ一つ、オルフェンが目を覚ますまでは接触するな、ということだけ。
(……偽物だと陛下が判断されたとはいえ……)
オルフェンの姿をした"何か"が、その背後を取って斬りつけたという事実は重い。
その場にいた側近らしき数名からの視線は、皮膚に刺さるほど鋭かった。
冥界との接点を持ち、人ならざる力を扱うという意味では、たとえ聖冠の神子という肩書があったところで疑われるのは仕方がない。
私の立場を守っているのは、エリマスの保護下にあるという事実だけだ。




