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──しかし、歩いても歩いても、やはり誰ともすれ違わない。

 人間、動物という存在が排除されている。鳥や虫の声もなく、風は止み、そして匂いがない。

 予想通り、これはあのゴルゴンの森とほとんど同じ状態と言っていい。


 絶対に人がいるはずの施設も場所も、誰もいない。

 気づくのはもう一つの違和感だ。


(なんか全部微妙に、違うような)


 何度も通ったことのある廊下、部屋、階段、少しずつ何かが違う。


「……やっぱりそうだ」


 極めつけは護衛の詰め所。

 間違いなく同じ場所なのに、ガランとしている。

 まるでそこには用途が決まっていない物置のように、資材が詰まれていた。


 そして見覚えのある装飾の色味が妙に鮮やかであることに気付く。

 曇っていたはずの硝子装飾も透き通っていて、土足で踏み入るがゆえに黒ずんでいた赤い絨毯もまるで新品のよう。


(建物だけ、時間が戻ってる……?)


 頭は、不思議なほどに冷静だった。

 ゴルゴンの森で苦しめられた甲斐があったかもしれない。


 そう仮定すると、足はすぐに自分に割り当てているはずの部屋に向かった。

 やはり、そこに私のものは一つもない。

 ただ見覚えのないドレッサーや、形の違う寝台はある。どれも装飾は派手ではなく、最低限のものしかない。


 隣のエリマスの部屋も同じで、そこには彼の気配があるものはなく、まるで別の誰かの部屋のよう。

 そこに居続けることに妙な罪悪感が湧き上がり、扉を閉め、オルフェンの部屋を目指した。


 そうっとオルフェンの部屋を開け、ほっと息を吐いた。

 見覚えのある深い藍色の絨毯が敷かれ、寝台も同じものだ。どれもわずかに新しい──と、見回そうとして、目が留まる。


 記憶にあるものと同じ机には、夥しいほどの本が積み上げられている。

 書架にも本が隙間なく埋め尽くされ、まるで大学教授の研究室のよう。


 一番の違和感は机に向かう椅子だ。背の小さな人のために高さを合わせるように、強引に改造された後がある。


(オルフェンの字……)


 机には乱雑に広げられた羊皮紙に、彼の筆跡で文字が詰め込まれている。ただどこかその字は幼く、安定していない。


 仮にこの王城がオルフェンの子供の頃のものだとしたら。

 その現実を受け入れるとして、何故私がここに閉じ込められているかだ。


「……本人置いてきちゃったしな」


 一旦様子を見に戻るか。

 踵を返しかけた先に、見慣れない大きな"箱"があった。


 この清廉な部屋には妙に似合わない、馬車の荷台に積まれているような箱がぽつんと壁沿いに置かれている。

 近寄ってみれば上面には古めかしい打掛錠がついていて、なんとなく悪い気がしながらも、その軋む蓋を開けた。


 何はがらんどうで、荷物は入っていない。

 王子に与えられるおもちゃ箱にしてはあまりに粗末で、かといって何かの遊びのために子供に与えるには大きすぎる。

 机の上の大量の本を仕舞うための収納だと言われれば分からなくもないけれど──底を見ているだけで、何故か胸がざわついた。


(人間ひとりくらいなら、屈めば入りそうな大きさ……)


 どうしてそんな突拍子もない考えが浮かんだのかは、分からない。

 知らない間に自分が息を止めていたことに気付く。


 ここは、あの字を書くような、あんな椅子で高さを合わせなければならないような子供の部屋にしては、あまりに感情がない。

 まるでただ無駄に広いだけの牢のよう。

 国を背負う王太子なら、こういうものなのだろうか。あるいは別で、何か娯楽があったのだろうか。



 部屋を去り、オルフェンを置き去りにした廊下に戻りながら、おかしな王城の細部に目が奪われる。

 例えば、本来あったはずの通路や階段がなかったり、あるいは扉はあるのに、その向こうには何もない──そんな現象が確認できた。

 構造からして、後から増築したとは思えない。 


「あ」


 逆に今なら、普段入れないところにも入り放題なのでは。


 倒れているオルフェンには悪いけれど、そもそもこの状況を作ったのが彼なら私には責められる謂れはない。

 多少薄情でも許してほしい。


 タイムリミットが分からない以上急ぐしかない。


 城内を駆け上がり、場所だけは知っている国王の私室へと向かう。

 知っている理由は、私が『ペルセポネの冥戦』の六巻を特に死ぬほど読み込んだからなのだけれど。


(……それもそうか……)


 しかし愕然とする。

 走り回ること、体感十分。それらしい扉の前まで辿り着くも、パスワード式の鍵がかかっている。


 いっそ斧でも拝借して扉を破壊してやろうかと思うけれど、万が一現実世界に多少干渉することがあったら。

 

「いや、いっか」


 そんな心配をする状況じゃない。


 手頃な斧はなかったけれど、廊下で発見した仰々しく重い燭台と火口棒を引きずり、まず火口棒を扉の番の僅かな隙間に差す。

 なら一点集中、テコの原理でひたすら殴り続ければ──


「……何してるんですか?」

「わーーーー!!」


 ここ一年で一番の絶叫だったかもしれない。

 すぐ背後に立っていたのは、呆れた顔のオルフェンだった。


「いないと思ったら、まさかこんなところで陛下の居室を荒らそうとしている人に出くわすとは……」

「いや、これは、その、脱出する手がかりを」


 口から心臓が飛び出そうになりながら顔色を窺うけれど、しかし怒っている様子はない。


「中に入りたいんですか?」

「え、あ、でも」


 オルフェンは淡々と火口棒と燭台を退け、かちゃかちゃと鍵を触ったかと思えば、躊躇いなく目の前の扉を開けた。


「どうぞ」


 こうもスムーズに通されると、それはそれでどうかと思ってしまう。


「殿下、その、お身体の方は……?」

「動けているので大丈夫です」


 それでも微妙に元気がないのは、やはり万全ではないからだろう。


 一国の王の私室はおよそ漫画で見たまま、想像通りのシンプルな部屋だった。

 深い紅色のカーテン、それに合わせた毛の長い絨毯、華美ではないにしろ重みのある調度品。


「何もないと思いますよ」


 まるで寝るためだけに用意されたような空間。

 誰がこの部屋を明け渡されても、何かを変える必要などほとんどないほど、良くも悪くも個性がない。


「引き出しもどうぞ、全部開けてみてください」

「……いえ、遠慮します……」


 オルフェンがいなければやっただろうけれど、彼がいる以上、元に戻った時が怖い。

 

「それにしても、さすがです。こんな状況でも随分落ち着いてるんですね」


 そう言いながら、オルフェンは国王の寝台に浅く腰かけた。


「普通なら発狂すると思うんですが、まさか探検しているとは」

「必死に脱出の手がかりを探してたんですよ」

「楽しそうに燭台担いでましたよね」

「……見てたなら声かけてください」


 オルフェンは明らかに本調子ではない。

 戻る方法を知っているのだろうか。しかしその危うげな雰囲気に、まだ突っ込めずにいる。


「何かお気づきの点は?」

「……、合ってたら何かもらえるんですか」

「この部屋の場所を知っていた理由を追及しないようにします」


 すっと血の気が引く。


「……仕組みは分かりませんが……ここは、幼い殿下の記憶の中の、王城ではないかと」

「というと?」

「あるはずの場所がなかったり、なんというか、きっと殿下に認知していなかっただろう場所が、存在しませんでした」


 例えば私も時々使う、侍女が使う厠がここには存在しなかった。

 本来の設備自体は、この王城が建った頃からあったはず。ここ数年の新設されたものとは思えない。


「それから失礼ながら……さっき、殿下のお部屋の方も、忍び込んだので」

「タフですね」

「……、申し訳ございません」


 お互いオルフェンが倒れる直前の会話についてはまるで触れず、今にも壊れそうな橋を上を歩かされているような心地だった。


「多分、ノーナの推測は当たっていると思いますよ」


 窓から覗く空は、オルフェンが倒れた時のまま変わらずうっすらと明るいまま。

 時間の経過からすれば、とっくに陽は落ちていてもおかしくない。


「殿下も確証があるわけではないと?」

「この状態になったの、まだ二度目なんですよ。最初は貴女ほど冷静に判断する余裕がなくて。一人でしたし」

「え」


 しれっとまずいことを言われたような気がする。

 つまりそれは、オルフェンのコントロール下でのことではないという意味ではないのか。


「……と、おっしゃられますと?」

「実はここから出る方法、私にも分からないんです」

「じゃあ前回どうやって出てきたんですか!?」

「さっきみたいに途中で意識を失って、目が覚めたら勝手に戻ってました」


 言葉が出ない。


「なので今、ちょっと焦ってます」


 そう言って、オルフェンはにこりと笑う。


「焦ってないですよね!?」

「身体が元気だったらもうちょっと楽しかったんですけどね」

「……じゃあもう、そこでお休みになっててください。私はまだ探検を続けるので」


 国王の私室に無断侵入した時点で、もう怖いものなどない。


 さっさとオルフェンに背を向けるけれど、


「他の場所、鍵かかってたらどうするんですか?」


 寝台の上から呆れたように声を掛けられた。

 

「破壊します」

「……やっぱり貴女って、ちょっと、こう、変わってますよね」

「不死身なので仕方ないですね」


 オルフェンはぐにゃりと身体を起こすと、腰を上げてこちらへ向かってくる。


「私も行きます」

「いや来ないでください。逆にいない方が心置きなく荒らせるので」

「……私に熱があるからって、油断してません?」


 分かりやすい牽制に、ひくりと口角が引きつった。





 私の手には侍女が荷物運搬に使う台車、そしてその台車の上には一国の王太子が乗っている。

 押し問答の末、途中でまた倒れられても鬱陶しいと切り捨てたところ、渋々乗せられているというのが正しい状況だけれど。


「こんなところ見られたら終わりですよ」

「何を今更」


 とは言え、国王やオルフェンの私室以上に調べたい部屋なんてそうそうない。


「前回はいつ頃、どういうきっかけでこの空間に?」

「一年くらい前ですかね。夜、裏庭に出たらいきなり」

「じゃあ、今日はいつから気づいてたんですか」

「部屋にいたら急に……というか、今回は先にノーナがいたんですよ」

「……え?」


 思わず台車を運ぶ足が止まる。


「だから偽物か、幻かと思って」


 オルフェンはこちらを振り返る。


「……まさか試したんですか」

「ええ。エリマスのためなら迷いなく陛下を殺すと言われた瞬間、本物だと確信しました」


 どんな確認方法だ。

 呆れながら、しかしあの問答をただの冗談や、確認の一環だと笑って片付けられるほど、私も鈍くない。


「……私も殿下のこと、偽物かと思いましたよ」

「そんな気はしてました」


 音がない世界で、二人とも黙り込むと、台車のタイヤが転がる音だけが廊下に響き渡る。


「それで、次はどこに?」

「一旦、王城の敷地から出られるのか試したいんですけど……ここから階段ですよ。大丈夫ですか?」



 そして二人でとぼとぼと一番近い裏門へ向かうけれど──予想通りというべきか、本来あるべき裏門はびっしりと城壁に埋め尽くされていた。

 

「……やっぱり」

「諦めてここで二人で暮らしましょうか?」

「食べ物も水もないですが」


 荘厳な王城を見上げる。

 歪で、虚ろな世界。

 もしこれがゴルゴンの森と同じ現象なら、本来の世界も多少時間は進んでいるはず。


 私とオルフェンが忽然といなくなっているのか、それとも身体だけどこかで倒れているのか、見当もつかない。


「今頃エリマス、どうしてるんでしょうね」

「…………」

「軍とか動かしてなきゃいいんですけど」


 奇しくも、同じことを考えていたらしい。


「……、殿下はどこかで休んでてください。私は逃げも隠れもしませんし──」

「私の部屋はもう見たんですよね」

「え? ええ」


 曖昧なままの空を背に、オルフェンが振り返る。


「何か面白いものありました?」

「いえ、その、本の数に驚いたくらいで」


 その目が僅かに細められ、何故か身体が強張る。


「箱、なかったですか?」

「箱……大きな空き箱はありましたが」


 それはまるで、見てはいけなかったもののようで。


「物覚えが悪いとあの箱に入れられるんですよ」


「え」

「子供の頃、教育係が厳しくて」


 そう言いながら、オルフェンは背を向けて王城へと向かって歩き出す。


「それは……」

「別にそれで今も狭いところが苦手とかはないですよ」


 声は飄々としていて、前を歩く表情は見えない。


「王妃殿下が選んだ教育係だったんです」

「……」

「私の出来が悪いと、ご自身の血筋の所為だと周囲に思われるのが辛かったんでしょうね」


 誰もいない廊下、人の気配がない王城は、まるで巨大な化け物の死骸のようだった。


「……今その教育係の方は?」

「亡くなりました」

「ああ、」


 老齢だったのだろうかと、特に疑問にも思わなかったのに。


「教育係が私にしていたことを知った陛下が、処刑なさったんです。私が十歳くらいの時ですかね」


 息を呑む。


「……それは、当然と言えば、当然かと」

「びっくりしたんです。極端すぎません?」

「……」

「箱に閉じ込められていたことより、そっちの方が怖かったんですよね」


 見慣れた階段を上がり、廊下を進む。


「幼い頃は、陛下が私を憐れんで、愛ゆえのご判断かと思ったんですが」

「……」

「よく考えると、教育係にどんな目に遭わされていたかとか、どう思ったかとか、そういうのは聞かれなくて」

「……」

「罪状がついたからと、それを聞いた日の午後には処刑されました。最初から最後まで、この件について陛下との会話はありませんでした」


 辿り着いた先には、私が少し前に先に見てしまったオルフェンの部屋があった。

 扉を開けると、景色はやはり先ほどと変わりない。


「……殿下は今結局、王になりたいんですか。それとも意地になっているだけで、本当は嫌なんですか」


 オルフェンは振り返らず、机の上の本を手に取ると、ぱらぱらと意味なさげに頁をめくった。


「どうなんでしょうね」

「本当はなりたくないけど、かといってエリマス様が自分の代わりに就くのは嫌で、渋々ですか?」

「……ほんと相変わらず、歯に衣着せぬというか」

 

 ぱたん、と閉じ、そのまま窓を背に壁に寄りかかる。


「自分でも最近、よく分からなくて」

「だって最初の頃は結構、はっきり嫌がっておられませんでした?」

「なんだかんだ自分の立場は揺らがないと思っていたからかもしれません」

「で、実際にお立場が危ぶまれるようになり、焦っていらっしゃると」


 オルフェンは何も言わない。

 自分が今、危険なやりとりをしているとは分かっている。



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