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◆ ◆ ◆



 大学は奨学金とバイトでやりくりしながら、なんとか四年間通うことができた。

 そう、こんなものはよくある、取るに足らない苦労話だ。


 受験当時は滑り止めを受ける金銭的余裕などなく、第一志望の大学に絞って学校が閉まるまで自習室に籠って。同級生が有名予備校に通うのを横目に、私は職員室で借りられる参考書でなんとか乗り切っていた。

 卒業後は奨学金を返すために選んだハイリスクハイリターンな大企業へ。

 どれだけ辛かろうが生理が止まろうが、挫けたら、まるでそこまでの努力が無駄になるように思えたから。


 無理をしたことへの後悔はない。本当の地獄を背負う人はもっと他にもいる。不幸だと語るのも烏滸がましかった。


 推薦で大学に入った弟が三年生の時に突然退学したことも、そんな弟と一晩共にしただけだという謎の女が実家に赤ん坊を抱いて殴りこんできたことも、弟の学費は親が工面したことを知っても、大したことではなかった。

 私の中ではどん底だったけれど、飲み会で口にすれば修羅場の一ネタになるような話だ。

 どうしようもない弟を持つ苦労人の姉。同情を引けば職場では多少のプラスポイントになる。

 タイムカードを切って、オフィスの電気を消してオフラインでPCをつないでなんとか仕事を終わらせて。二十五歳を過ぎると、中間管理職と新入りの間に立つ緩衝材に。産休と育休で消えていく同期達を拍手で見送り、送別のプレゼントはいつも私が選んだ。

 それでも耐えられた。

 社会人生活の中で一番辛い時に連載が始まった『ペルセポネの冥戦』は、月曜日の朝、私の重い腰を上げるには十分な理由になった。

 WEB媒体でも読めたけれど、掲載されている週刊誌を買うことを理由にして。買いに行ったついでに、そのまま出社する。そして次の月曜日までなんとか生き永らえる。


 勧善懲悪(かんぜんちょうあく)をモットーに勢いよく進み、現実世界ならあり得ないほど悪役は痛快に斬り倒されていく。一方であの世界には、セクハラを訴えた二年目のあの子の悪口を言う陰湿な人間もいなければ、デスクを足でけり上げる課長もいないし、資料をめくるごとになぜか違うフォントを使いたがるくせに修正を嫌うおっさん平社員もいない。


 華やかに彩られたファンタジーの世界。飛び交う血肉も紙面では白黒で、それすらも装飾のひとつのようだった。

 分かっている。現実世界にこんなに目の大きな女の子はいないし、こんなに一途で恰好いい男なんていない。

 分かっていた。



 悪役は、化け物は、主人公たちのために早々に退散してこそ、美しいことも。



「……エリマス様」


 重い瞼を持ち上げると、小さな灯りだけが点る薄暗い部屋、そしてすぐ傍で腕を組み目を閉じる美形がそこにいた。眼福だ。もう一度気を失いそうなほどの足の痛みが多少ましになりそうなほどには。

 思わず呼びかけてしまいはっとするけれどもう遅い。ゆっくりと目を開けたエリマスが、その第一声にどんな怒りを込めようとしているかが分かる。


「ノーナ・アルカヌム」

「すみません、私、癒術の類は全部効かないんです。ご迷惑をおかけしました」


 混乱した思考の果てに出てきたのはそんな弁解だった。本来ならば護衛に就いた段階で申告しておくべきだったのだ。きっと私の傷にはこの王城中、そしてグラナトゥムから同行してきた癒術師を困らせたことだろう。


「……それもそうだが」

「諸々のお怒りは承知の上で恐れ入ります。あれからどれくらい経ちました?」

「五時間」


 よかった。丸一日などと言われたらどうしようかと思った。

 ほっと胸を撫でおろすと、どうやら火に油を注いだらしい。エリマスの目からすっと温度が消えている。


「まず第一に何故あの場からレミジオを退避させた」

「退避なんて。ガレネ卿はエリマス様を呼びに行って下さったでしょう」

「暴漢の制圧くらい任せればよかった」

「わ、本当ですね。私ったら」


 こうなるとは思っていたけれど、あのレミジオのことだ。私を置いていった罪悪感から、何から何まで吐いたのだろう。あるいは相当に絞られたか。


「その暴漢もフレゲトンの衛兵も全員気を失っていた理由は」

「急に皆さん倒れて私も驚いたんですよ」

「直前に君がいきなり自分の足をグラスで突き刺したと証言する者がいる」

「そんな訳ないでしょう。男に襲われて気が触れたご令嬢に襲われたんです」


 記憶を奪う力でもあればよかったのだけれど、そこまで便利ではない。罪をなすりつけることになったティシポネには悪いけれど、いずれ彼女が犯す罪に比べれば可愛いものだろう。

 匙を投げている私を冷たく見下ろすエリマスはしばらく沈黙したのち、その整いすぎた唇を小さく開いた。


「……秘密主義だが知らないが、仲間に嘘を吐くような得体の知れない者を殿下の護衛にしておくことはできない」


 もう少しうまくやればよかったと思ってももう遅い。

 しかし彼の様子からして、私がどう答えようがその結論に着地するつもりだったのではないだろうか。


「そうですか」


 だとして、私も次の手を考えていなかった。あんなところでティシポネが出てくるなんて予想していないのだから許してほしい。

 かといって、彼女がまだ真の悪役ではない以上、私がティシポネから守ったのだと言い張っても通用しないだろう。

 詰みだ。

 後のことを考えればエリマスの下で働くのがてっとり早かったのだけれど、それが駄目なら転職先を考えなくてはならない。思ったよりも長く続かなかった。

 目を閉じて思考を巡らせていると、落ちてきたのは深い溜息だった。


「何故言えない」

「? 何がですか」

「他のことはいい。……レミジオを行かせた理由だけ話せ」


 話せば先ほどのクビの話は撤回してくれるというのだろうか。どうやらその一点がどうしても気に食わないらしい。

 逡巡して、しかしうまい言い訳が思いつかなかった。かといってあの場にいたら彼が死んでいたかもしれないなんて、言えるはずがない。


「……気が動転して、判断を誤りました」

「あれだけ騎士団の演習を見学していてもレミジオが男一人ごときの制圧に困ると思ったのなら本当に君は護衛役に向いていない」


 返す言葉もない。


「君は一体、何を隠したいんだ」


 冷ややかな声が僅かに揺れている。本当なら心おきなく私を尋問したいだろうに、彼を踏みとどまらせるのは私がかけた聖なる加護の力もどきのせいだろう。

 致し方ない。ギリギリまで事実を明かすしかないだろう。


「私はあの日、一度死んでから勘が冴えわたっていて……もしあの場にガレネ卿が留まれば、そのお命が奪われると思ったんです」

「前に言っていた予言のことか」

「あ、いえ、そこまでのものではないのですが」


 予想外だ、この話には乗ってくれるらしい。


「それで思わず、なんとかガレネ卿にご退場頂かねばと……咄嗟の判断でした」


 しおらしくそう続ければ、エリマスは黙り込んだ。


「……会場には()()()()()が消えた痕が残っていた」


 地を這うような低い声に、私は思わずシーツを握りしめる。


「痕、ですか」

「残っていたのは、……冥王の(いん)だ」


 瞬間、部屋中の空気が奪われたように、息ができなくなる。

 あり得ない。

 ティシポネが冥王軍に就くのはもっと先、いや、そもそもそのきっかけを作るのはアレクトのはずで、だから私は──


「その女がどの程度の者かは分からないが、確かにあのままレミジオが残っていれば命は危なかっただろう」



 だって、まだ、聖冠の神子(ラミア)はいないのに。



「それよりもまず──ステュクス神の予言通り、冥王が復活したということになる」



 あっさりとそう告げたエリマスと、必死に原作の記憶を辿っては理解が追い付かずに息が喉で空回りする私と、その対比はあまりに滑稽だった。


 私が勝手に動きすぎた?

 それとも私がアレクトに干渉したから?

 どこかで冥王を呼び起こす条件を、私が踏み抜いていた?


「……ノーナ?」

「あぁ、いえ、申し訳ございません。そのような恐ろしい相手と対峙していたとは思っていなかったので」


 咄嗟に誤魔化し、そして恐ろしさに震えるふりをして手で顔を覆った。

 どうして。

 それともアレクトが私を裏切った?

 いやあり得ない。

 その程度でここまで未来が変わるはずがない。


「……つまり結果的にはレミジオをあの場から離した君の判断は正しかった。疑うつもりはなかった」


 衣擦れの音と共にエリマスがこちらに浅く頭を下げているのは伝わっていたけれど、私にとってはそれどころではない。

 どうしたらいい。

(前倒しでラミアを引っ張り出してくる?)

 どこに住んでいるかは分かっている。

……駄目だ。

 あの子が聖冠の神子としての力に目覚めるのは、唯一の肉親である母親の死がきっかけだった。

 それが原作が始まるより一か月前の出来事のはず。まだ早い。


(あれ、そうか、私)


 ラミアを聖冠の神子にするために、彼女の母親が死ぬのを待っているのか。


「おい、どうした」

「申し訳ございません。傷口が、少し、痛みが」


 頭が混乱していても嘘だけは吐けた。

 喉が熱い。



 私はとっくに、本物の化け物になり果てている。



「エリマス様、」

「なんだ、侍医を呼ぶならすぐに──」

「私は聖冠の神子などではありません」


 彼が息を呑んだ音が、鮮明に聞こえた。


「……何を、」

「他の方にどうお伝え頂いても構いません。ただどうかアルカヌム家を罰することだけはおやめください。彼らを騙したのは私です」


 こうは言っても、ここから逃げたらまずは実家に寄る必要があるだろう。まずは私の失敗を伝えに。

 顔を覆っていた手を下ろすと、エリマスの澄んだ瞳と視線が絡んだ。


 きっと私がこの世界に降り立ってすぐにこの人に出会えていたなら、喜んでこの美貌に恋に落ちていたのかもしれない。


「そんな私が何を申し上げても信じられないかもしれませんが」


 死に怯えなくなってから、何も怖くなかったのに。


「貴方をお守りしたいと……、貴方に幸せになって頂きたいという気持ちだけは、どうか信じてください」


 自己愛だけは一人前な私の声は、みっともないほどに震えていた。


 それだけだった。

 この世界に来て、私の支えはそれだけだった。


 上半身を飛び起こし、エリマスが懐に携えている愛剣に手を伸ばし──そう見せかけて、私を止めようと伸びるエリマスの手から身を(よじ)り、その奥の花瓶を手に取った。

 要領は晩餐会の夜と同じ。思い切り窓枠に叩きつければ脆く割れる。

 鋭利なその破片を握り、首筋に当てがった。


「何の真似だ、ノーナ・アルカヌム!!」


 チリ、と首筋の薄い皮膚が切れる。何度同じことをやろうが、やはり人間だった頃の本能だろうか。ばくばくと鼓動が鳴りやまない。


「千年に一度だか伝説だか存じ上げませんが、私はそんな尊い生き物ではありません」


 背後には人ひとり分なら通せそうな硝子窓。後ろ手に開ければ、冷たい風が勢いよく吹き込んでくる。

 まだ夜は明けておらず、辺りは暗闇に満ちている。地面は見えない。ただそれなりの高度だろう。策もなく落ちれば、ひとたまりもない。


「……飛び降りてみろ。何者だろうが即死だ」


 鋭い視線もそれなりに良い。この目に焼き付けておこう。

 窓枠に手足をかける。風の勢いでそのまま攫われてしまいそうだ。


「私が死んでも貴方にかかっている力は解けませんからご安心を」

「そんな心配はしていない」

「……聖なる加護じゃなかったとしたら、一体ご自分に何がかけられているか、怖くないんですか?」

「……それで時間稼ぎになると思うなよ」


 稼いだところで結果は変わらない。

 けれど確かに、私は時間稼ぎをしていたのだと思う。

 どんなに険しい顔であろうが、エリマスと二人きりで会話できるのは、これが最後だろうから。


「滅相もない。ここまでお世話になりました、……メレアグロス公爵閣下」


 "あれ"はまだ一度しか使ったことがない。けれどいけるだろう。

 遠い地面を見やり、それでも足が竦んだけれど。


 花瓶の破片を投げ、そして窓枠にかけた指を放す。ぐらり、身体が傾いて──視界から彼が消えたら発動するつもりだった。


 なのに。



「……ッは、」


 身体中を強く打った衝撃で、一瞬息ができなかった。

 それよりも自分の前にある胸の激しい鼓動に、容赦なく潰さんばかりの腕の力に、思わず悲鳴が零れる。


(い゛)っ」

「馬鹿かお前は何を考えている!?」


 怒声が鼓膜を震わせ、視界が白く弾ける。気を失いそうになるほどの迫力だった。


「な、どうして、」


 振り返れば窓はすぐ背後にあった。

 分かっている。すんでのところで、とんでもない力で足を折る勢いで部屋の中に引き戻されたことは。


「私は嘘を──」

「話の途中で死ぬ奴がいるか!!」


 そんな馬鹿な。

 呆気にとられた私を寝台の上に放り出すと、エリマスは自分の髪をぐしゃぐしゃと搔きまわし、心底苛立ったように声を荒げた。


「……話というか、お伝えした通りで」


 容赦なく胸倉を掴まれる。眼前には猛烈な怒り。


「聖冠の神子を(かた)った罪は死んで償えるようなものじゃない」


 ただ、と──その顔は、(ひず)むように口角を上げた。


「お前が聖冠の神子と同等の力を使える魔物だろうが何だろうが、本当に私のために戦えるというなら」


「え」



「自ら捨てられる程度の命なら、私に賭けろ」




 セレストブルーの瞳に、間抜けな顔が映った。





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