59
初夏の香りが立ち込め、青々とした木々は麗らかな陽光に照らされて眩く輝いている。
よもや一国の王太子の魂が悪しき神に蝕まれていることなど知らない人々は、今日という一日をせわしなく生きているわけで。
食堂を出てようやくエリマスの監視から逃れた私は、一度図書館に戻った後、気分転換がてら王城敷地内の裏庭を散策していた──のだけれど、これが運の尽き。
「あ」
侍女を連れ立って歩くその姿に思わず間抜けな声が零れる。
そしてその私の声と視線に導かれたように、天使の顔がこちらを向いた。
「……もしかして、フローラ?」
慌てて己の全身を確認して、休日だったことを思い出し、ぎこちない笑顔を貼り付ける。
「ご、ご無沙汰しております、オルトシア侯爵令嬢様……」
「もう、メンテって呼んで下さる約束だったでしょう?」
何故王城内に、と聞くのもおかしな話だ。
救貧事業に積極的なオルトシア侯爵家の関係者が出入りすること自体、珍しくはない。
「今日はお休み? なのに城内にいるのね」
「え、ええ」
気まずいのは私だけだろうか。
結局あの後、私は彼女に何も貢献できずに別れたきり、報告もできずしまいだった。
むしろメンテはあの後、エリマスから別の縁談話を提示されたはず。
「一段とお綺麗になられて、メンテ様を前にすれば太陽も隠れてしまいそうです」
「貴女もお元気そうで何より。何度か王城には出入りしていたんだけど、一度もお見かけしなかったから」
白魚のような指に手を取られたその矢先、彼女の胸元に光る青い石が目に入る。
これは、と、思わず視線が吸い寄せられたことに、メンテも気づいたようだった。
「あ……実は、そうね。あれから貴女には会えてなかったから……あれからエリマス様には正式にお断りを頂いたの。代わりに、良い縁談もご紹介頂いて……」
どこかで、嫌な形で知られる前に自分の口から伝えなければならないとは思っていた。
しかしそれはあくまで、メンテが新しい幸せを掴んでいることが前提で。
「……でもやっぱり、忘れられなくて。お父様も毎日嘆いておられるの」
儚げなその笑みは、絵画のようだった。
「このブローチも、本当はつけてちゃ駄目よね」
きっといつか、私が侍女のフローラではないことは知られるだろう。
「……貴女はどう? 何か変わったことはない?」
それでも、数か月前に一度接しただけの私にこうして声をかけ、侍女だと思っているのに分け隔てなく接してくれる彼女は、あまりにも眩しくて。
「私は、特には……」
「ちなみにね、聞いたの。やっぱりエリマス様には婚約者がいらっしゃるって」
ずい、とビスクドールが眼前に迫る。
あまりの美しさに、何も言葉が出てこない。
「そうならそうと言って下さればいいのに。ね、そう思わない?」
「そ、そう思います」
「あの方を射止めるなんてどんなご令嬢かしら……城外には厳重に隠されているみたいで、この前のお茶会でも皆言ってらしたの、どこか大国の姫君なんじゃないかって」
大国の姫君。
それにしても、ここまで緘口令が引かれるのもなかなかだ。
あの嫌なステントール侯爵でさえ外に出していないということだ。
「だけどそれなら納得できるじゃない? お立場のことを考えれば、私のような弱小貴族の令嬢なんて何のお力にもなれないし……深窓の姫君だとか、その美貌で国を傾けるほどだとか、はたまたとんでもなく我が儘でエリマス様が結婚しないと戦争になるとか」
オタクも真っ青の早口に、合いの手を入れる隙もない。
「お国のことを何より考えておられるエリマス様が恋愛結婚なんてなさるわけないもの。ああ、私にもっと地位と権力があったら……」
奥に控えていた侍女が小声でメンテを窘める。
一方私は、素手で根こそぎ魂を掴まれたような心地だった。
「私もう行かないと……またね、フローラ」
白銀の艶やな髪が風に揺れる。天使の翼のように見えて、ぐっと喉の奥が詰まった。
「……っあの、メンテ様」
「うん?」
いつか真実を知った時、彼女は私を罵って、殴ってくれるだろうか。
「いえ、……また。お会いできたら、嬉しいです」
そう考えるのは、ただ私が楽になりたいだけだ。
◆ ◆ ◆
陽は長くなり、十八時でもまだ空はうっすらと明るく、昼と夜の境界のような曖昧な色をしている。
またエリマスに捕まる前にと図書館から撤収した私は、ひたすら人気のない廊下を選んで自分の部屋を目指していた。
(……赤い果実なんて、やっぱりモチーフとして凡庸すぎて、逆にどれもそれっぽくて駄目だな)
一通り定番の書籍には目を通したけれど、参考になるようでならなかった。
例えば赤い果実を口にしたことで悠久の眠りから目を覚ます物語もあれば、呪われて命を落とすような道徳じみた物語もある。
当然ながらオフィオタウルスの檻なんて文言はどこにも出てこない。
(いっそのこと、本当に切ってみた方がいいのかも)
何もないところで躓きかけて、慌てて姿勢を立て直す。
あれからちらついて離れないのは、再会してしまったメンテの強烈な美貌だ。
さすがに今更エリマスにどうこう言うつもりはない。
ないけれど。
私がエリマスを"狂わせた"とは、言い得て妙だ。
狂いでもしないと、あの天使の手を放せるはずがない。
「……男ならどう考えてもあっちを選ぶんだけどな……」
「どっちですか?」
「ヒッ」
柱の陰からひょい、と顔を出した姿に思わず二歩退く。
「で、殿下、どうしてこんなところに、……まさかお一人ですか?」
辺りを見回すけれど本当に一人のようだ。
王城内とはいえ、エリマスが許すとは思えない。
「駄目ですよ、見つかったら怒られますよ……!」
「はは、心配性ですね」
テンションが高い。
少なくとも、あれからオルフェンは私と一対一で会うことは控えていたはずだ。
「ノーナこそ、こんな人気のないところをわざわざ選んで歩くなんて」
「少々考え事があったんです」
一歩、二歩と近づいてきたオルフェンは──あろうことか、その手で私の腰を抱いた。
「…………殿下?」
「エリマスには、まだ身体を許してないんですって?」
低く掠れた声に、ざわりとする。
「……は?」
「かわいそうじゃないですか。あんなに焦らして」
今にも唇が触れそうな距離で私を覗き込むのは、紛うことなき青磁の瞳。
「殿下」
「なんですか?」
「人通りが少ないとは言え、このような場所で私に迫られるのは、些か無防備が過ぎるかと」
冷ややかにそう返せば、緩く微笑んだ。
「誰も来ませんよ」
「そうですか。人間は来なくてもランパスは来ますよ」
「呼んでみたらどうですか?」
ぞく、と背筋が冷える。
視線を逃がし、耳を澄ますけれど、確かに人の気配はない。
「……エリマス様に殴られたのも、もうお忘れに?」
「今度は貴女に殴られますかね、先日はステントール侯爵の歯を折ったとか」
「……」
「大変だったんですから、有耶無耶にするの」
口説くような甘い声に、心は震えない。
異常事態であることは確か。
かと言ってしかし、どうしたものか。
(これが本人なら今頃エリマスがすっ飛んできているはずだし、となると)
目の前にいるのは化け物で、本人は別にいるか。
最悪なのは、これが本人であるパターンだけれど。
その考えに行きつく頭は嫌に冷静で、しかし首から下は緊張のせいか力が入らない。
「どうしました?」
硬い指の関節に、頬をなぞられる。
「……殿下は一体私に何のご用で?」
「ちなみに時間を稼いでもエリマスはここには来れませんよ」
まるで頭の中を覗いたようだった。ぎくりとしたのを、読まれなければいいけれど。
「というと?」
「色々やりようはあるので」
「じゃあなんですか、そこまでして殿下は私とお話を?」
声はまだ、震えていない。
オルフェンの目はまるで品定めでもするように、僅かに細められる。
「お願いがありまして」
「はあ」
「貴女の力で、陛下のお命を葬って頂きたくて」
最悪だ。本人の可能性が高まった。
「そんなに急がなくても、いずれ玉座に就くことになりますよね?」
「実はエリマスを次期国王に推薦する声が日ごとに高まってるんです」
「……、幻聴では」
「陛下にも先日、一度彼に就かせてから、その後に私で良いのではないかと打診されまして」
風が止んでいる。
「どうして急に」
「急ではありませんよ。私に癒術が効かなくなってからです。それもそうでしょう、こんな身体、異常ですから」
「殿下、」
「まあ、これがなかったとしても……」
ぐら、とオルフェンの身体が傾いて、慌てて手が出る。
支えきれずによろめき、近くの柱にぶつかると、オルフェンは苦しそうに私に凭れかかったまま、頭を抱えて俯いた。
「えっ、いや、ちょっ、熱、え!?」
「最近、多くて……すみません」
触れた首筋の異様な熱さに、思わず我に返る。
妙に艶っぽいと思ったらまさかの高熱だ。強引に地面に座らせ、オルフェンの身体を柱に寄りかからせる。
「今誰か呼ぶので、」
「無駄ですよ」
「いやでも」
「呼んだところで、……どうにもならないので」
手首を掴んだ手の平の力は弱く熱い。
駄目元でオルフェンの身体に力を込めてみるけれど、やはり弾かれた。
「は、……あぁ、くそ、……あの、最悪、私のことは、これで一思いにお願いします」
「は?」
乾いた音を立てて地面に差し出されたのは、王家の紋章が入った立派な短剣だった。
「よく切れますよ」
「……ご冗談が過ぎます」
「はは、」
その身体はずるりと傾く。溶けて消えてしまいそうなほど、息は荒い。
「悪いことなんて、考えない方がいいんでしょうね」
「しゃべらなくていいです。……あの、せめて水とか取ってくるので、」
さっと短剣をオルフェンの手から届く範囲から遠ざけ、腰を上げようとすると「ここにいて下さい」手首を掴む力が強まる。
「ですが、」
ここにいたところで良くなるとは思えない。
言いかけた私に、オルフェンはちらりと顔を上げた。
「……以前、隠し部屋に貴女を連れ込んで、襲った後に」
「え? あ、ああ……」
「エリマスに、言ったんですよ」
「何をです?」
「もうほんと、苛ついてたので……本当は、寝ている間に貴女を無理やり、組み敷いたと」
天を仰ぐ。そんなはずはないことは私本人が一番理解している。
「はは、そしたらほんと、……殺されかけまして」
「……私はどんな反応したらいいんですか?」
「さすがに怖くて、すぐ、嘘だって言いました」
辛そうに浅い息を繰り返しながら、オルフェンは笑う。
「でも、まだ気が収まらなくて、貴女の右胸の下の方に黒子があることを教えてあげたら、……ここらへんまで剣先飛んできましたから」
「何してるんですか……」
そう言いながら、自分の首元を指さした。
思わず呆れていると、ぽた、と視界の端で何かの雫が落ちるのが見え──それが鮮血であることに気付くと、ぞわりと全身が粟立った。
「殿下!?」
「……大丈夫。鼻血です」
懐から手巾を出そうとする手付きがおぼつかない。
慌てて自分のものを差し出して顔面に押し付け、俯かせる。
「私では殿下を運べません。せめてエリマス様を呼ばせてください。これ以上ここにいてもどうにもならないでしょう?」
「ノーナ」
「なんですか」
手巾ごと私の手を押しのけて、オルフェンは私を見上げた。
「貴女が陛下の命を奪えないのなら、私がエリマスの命を奪います」
それはあまりに、静かな声で。
「……殿下」
「私は、陛下に手を下すわけにはいかないんです。余計にエリマスを支持する声が高まるだけ……父上は賢王ですから、私がやったと知られれば、私は処刑されるでしょう」
──何が、加護の力をオルフェンに移行すれば、だ。
「貴女なら……誰も貴女を、裁けない」
その程度で解決できる問題なら、きっとエリマスもオルフェンも何とかしていただろう。
「……私は別に構いませんよ」
ここで私が声を荒げるわけにはいかない。
「すれ違いざまにでも。三秒もあれば終わりますから」
「……は、」
「エリマス様の命と天秤にかけられるくらいなら、その程度容易いことです」
つう、と赤い血が流れるのを見て、もう一度手巾を押しつける。
「いいんですね? やれと言うなら、今すぐでも構いませんが」
熱のせいか迷いからか、青磁の瞳が揺れて──そしてまるで電池が切れたように、瞼が落ちる。
「えっ」
脱力したその身体の脇を慌てて抱え、胸に耳を当てる。
穏やかな鼓動の音を確認すれば、噴き出た汗がどっと引いていく。
「……ランパス? 本当にいないの?」
あのあどけない声は、呼べばすぐに飛んでくるはずなのに。
シンと静まり返った廊下は、どこか異様だった。ここまで誰も来ないのはおかしい。
しかし今はどうしようもない。
床に座り込み、オルフェンの頭を膝に乗せる。出血はほとんど止まったようだった。
私の鼓動の方がまだ落ち着かない。
(……にしても、思ったより、時間ないな……)
ただ高熱に浮かされただけの奇行とは思えない。
「エリマス様……」
やけくそになって呼んでみるけれど、当然そんな都合よく助けに来るはずもなく。
鮮やかな橙色の髪は汗に濡れ、より色濃く映えている。
『王族の血はどんなものにも混ざらない』
『あの反応を見る限り、自覚はしているんだろう』
彼の孤独は、私にも計り知ることはできない。
この世界のオルフェンは『ペルセポネの冥戦』での彼のように、冥王に立ち向かうことなどできないと思っていた。
しかし目の前の彼は、それ以上のものと長年戦っているのかもしれない。
とりあえずは胸が上下に動いているのを確認して、溜息を吐く。
仕組みはさておき、おそらくこの状況を作り出しているのはオルフェンなのだろう。一旦本人が目を覚ますまで待つしかない。
「……ん?」
すん、と鼻を鳴らす。
風が止んだと思っていたけれど、それだけじゃない。
オルフェンを膝に乗せたままぐっと身体を伸ばし、すぐ傍の芝生に手を伸ばす。
乱暴に引きちぎろうとして──しかしまるで人工芝のように、ぴくりともしない。
ここには当然、人工芝なんて技術も発想もない。
この感覚を、私は知っている。
人もランパスも、来ないんじゃない。
私たちの方が、彼らの届かないところにいる。
「ちょ、殿下……起きて! 起きて下さい!」
容赦なく肩を叩く。
目が覚めるまでなんて、悠長にしている場合じゃない。
唸るオルフェンに「起きないと……」と脅し文句を言いかけて、しかし彼に刺さりそうな案が何一つ思い当たらない。
前回──ゴルゴンの森では自力で脱出できず、よく分からないまま元の世界に戻されていた。
あんなこと、そうそう起きていいものじゃない。
「……、一旦ここに置き去りにしますからね!」
起きる様子がないオルフェンの頭を地面に置き、脱いだ上着を畳んで枕にした。
不敬上等でオルフェンの全身をくまなく持ち物検査をして、彼が投げた短剣を拝借し、立ち上がる。
どこまでこの不自然な世界が続いているのか確認しなければ。




