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◆ ◆ ◆
「……はい、ということでまず今後の段取りからですが」
ちら、と隣を見ると、エリマスはまだ下を向いて笑っていた。
「……聞いてます?」
「どうぞ、続けて」
凄んでも睨んでも効いていない。
きっと私ごときが殴ったところで、傷のひとつもつかないのだろう。
──あの後。
私の絶叫に一瞬呆気に取られたエリマスは、そのまま私のお腹の上に倒れ込んで、未だかつて見たことがないほど笑っていた。
そして身体を起こされ、丁重に宥められ、部屋の扉から顔を出して外に何か指示したかと思えば、粛々とティーセットが運ばれてきて、そして今にいたる。
「結局どうしたらいいんですか? 加護の力の件も、この件も」
腰に巻きついた腕は剥がそうとしても無駄だと悟り、私は赤い実を指差した。
「王都で以前君と話した館、覚えているか?」
「え、ああ、あの怪しいところですよね。鍵付きの」
ラブホテルのような、あの場所だ。
「ケイロンを呼び出すならあそこが丁度いい」
「……結局それは、折り合いつけて下さるんですね」
「ただし問答次第では私が処刑するのは変わらない」
「逆に言えば、見逃す場合もあると?」
トーンが戻ったエリマスに胸を撫でおろしたのも束の間、じとりと横目で見られて舌を噛みそうになった。
「…………奴の見識に価値があると判断できれば、現時点命までは取らない」
分かりやすく渋々だ。
「ありがとうございます。ではその方向で。いつにします?」
エリマスはちら、と時計を見やり、しばらく考えてから私に向き直る。
「この時間なら、むしろ今からでも良い」
「え」
「私の所為で判断が数日遅れたことを考えれば」
言いながら、その表情は薄く笑っている。
「懸念事項はさっさと潰した方がいい」
「本当に今からですか?」
「一時間あればいいだろう。移動には便利な火の玉もあるし」
さっさと腰を上げたエリマスを前に、そういえば本来は考えるより行動派だったなと思い返し、息を吐いた。
(前よりちょっと埃っぽいような……)
時刻は二十一時。
ランパスにすぐ近くの路地まで送ってもらい、例の一室に辿り着く。
窓がないせいか雨音がなく、外界から完全に切り離されたような静けさがある。
万が一のためと押し付けられた防刃着は重く、先ほど隠れ兜を被ったエリマスはもう見えない。
さすがに気配すらないな、と見回したその時。
「ひゃっ」
腹部に触れられたと気付いたのは数秒遅れてからだった。
「やめてください何考えてるんですか……!?」
【……いや、申し訳ない】
声は聞こえる。が、明らかに笑っている。
「……、呼び出します。良いですね」
侍女から借りた針を親指の腹にぷつりと刺す。
小さく浮かんだ血を羽根に触れさせると、瞬く間に羽根は真紅に染まり、雪のように解けた。
まさか何も起こらないのか──そう案じた瞬間、目の前で毛布を裂いたように羽根の破片が舞い上がる。
それらが人間の形をとったかと思えば、何もなかった空間に、肩を雨で濡らしたケイロンが立ちすくんでいた。
「ご、ご無沙汰しております……」
何が正しい第一声か分からず、思わず会釈する。
ケイロンは黙って周囲を見回し、深く溜息を吐いた。
「……俺の方に隠れ兜を貸してくれと言ったはずだったんだが?」
「諸般の事情で……」
隠れ兜を使った誰かがいることまで気取られている。しかしエリマスは姿を現す気はないようだった。
「で? 君らがゴルゴンの森まで行ったことは耳に入っているが」
どうぞ、と腰掛けへの着席を勧めると、ケイロンはどかりと腰を下ろした。
「……実は、仕組みはさておき、巨大な石の壁が現れまして」
「ほう」
「そこに、以前おっしゃられていた"オフィオタウルスの檻"という文字まで浮かび上がったものの」
ケイロンの眉が僅かに跳ねる。
「エリマス様が、その石を斬ってしまわれまして……するとこちらが」
懐から赤い実を取り出し、ケイロンの表情を伺う。
何かに気付いた様子はなく、怪訝そうに目を細めるばかりだ。
「なんだそれは」
「……ですよね……」
実に触れようとはせず、身をかがめ、しげしげと眺めている。
「これ、オフィオタウルスの、何らかだったりはしませんかね……?」
「結局ゴルゴンの森で何も思い出さなかったのか」
「ええ、全く」
異界の件に触れられるのではとぎくりとしたけれど、先にエリマスに平行世界の話をしておいてよかった。
「前にも言った通り俺もオフィオタウルスの檻については詳しく知らない。ただ……おそらくその辺にいるんだろう、メレアグロス公爵と君が揃った状態で出現したのであれば全く無縁のものではないだろうが」
振り出しには戻ったけれど、ケイロンですら分からないという事実を得られただけでも一歩前進だろう。
「それこそ切ってみればいいんじゃないか」
「貴方までそんなことを……」
「何かあった場合の責任は公爵が取ってくれるだろう?」
空間に向かってケイロンは呼びかける。返事はなく、静寂だけが返ってきた。
「だそうだ」
「……何かお心当たりもないんですか?」
「運命の女神とステュクスは本当に何を考えているか分からない。仮にそれが他の神の悪戯だとして、彼女たちの癇に障るようなものを差し出しはしない」
そのあたりの感覚はやはり彼ら特有のものだ。よほど恐れられているということは理解しているけれど。
「ただ……」
「ただ?」
「オフィオタウルスの檻というのは実在する特定の物体ではなく、物のただの喩えだという説がある」
ケイロンは足をぞんざいに組み直し、溜息を吐いた。
「……戸棚の中の骸骨とか、炭鉱のカナリア、みたいなことですか?」
「? それは聞いたことがないな」
この世界では馴染みのない喩えだったらしい。
「というか、前回そんなこと聞いてませんよ」
「それも説というだけで確証がない。だが実際君の話を聞く限りあり得るかもしれないと思っただけだ」
ともかく用は済んだ。
いそいそと身をしまっていると、ケイロンはじっと黙ってこちらを見ている。
「それが食べ物だと仮定するなら、君が食べてみれば良いんじゃないか」
「え」
「致死性があるかどうか確認するのには手っ取り早い」
瞬間、私にも分かるほどの殺気が滲んだ。
ケイロンではなく、すぐ近くの見えない誰かから。
「……だとしたらネズミか何かに食べさせますよ」
分かりやすい挑発だ。
「本来、神々が差し出す物の類には碌なものがない。ペルセポネもそのせいで冥界に囚われた」
「ああ、」
『この国の名前はペルセポネがつけたんだけど、僕が彼女を騙して食べさせた冥界の食べ物の名前だし──』
浮かんだのは、ふざけた冥界の王の台詞だ。
「やっぱり、処分した方がいいんですかね」
「するとしても俺がいないところで勝手にやってくれ」
やれやれと首を鳴らしたケイロンは腰を上げ、今にも帰ろうとする。
「あ、待ってください。まだ質疑応答が残ってます」
「…………質疑応答?」
赤い実と入れ替わりで差し出したのは、エリマスから渡されたメモだ。
「その一、冥王でもオルフェン殿下の中にアーテが潜んでいると断定できなかったのに、何故貴方はそう思ったのか」
「……」
「その二、神罰塔にわざわざ囚われたのは何故か。脱出した理由も合わせて延べよ」
胡乱な目をしたケイロンは、ぐるりと辺りを見回すと、忌々しそうにもう一度腰を下ろした。
◆ ◆ ◆
最後まで姿を見せなかったエリマスはケイロンがいなくなると明らかに不機嫌そうな顔をしていたけれど、今日に限っては見逃すことにしたらしい。
ほっと息を吐きながら、王城に戻ってきたのは結局二十二時半。
雨は未だ激しく降り続いていて、些細な物音をかき消してくれる。
部屋の外の人たちはきっと私たちが外出していたことなど知らないだろう。
「分かったような、分からないような感じですね」
少なくとも赤い実については進展なしだ。
「奴の言葉を信じるなら、冥界の連中もそれなりに厄介だということだ」
「まあ、良くも悪くも、やはり人間ではないということです」
ケイロンへの質問その一。
“冥王でもオルフェン殿下の中にアーテが潜んでいると断定できなかったのに、何故ケイロンは知っていたのか”。
答えは単純だった。
『他の連中はさておき冥王に見えないわけがない。初見から気づいていたはずだ』
質問その二。
“神罰塔にわざわざ囚われた理由と、脱出した理由”。
『王太子に手を上げた時点で怒りに触れ、ペルセポネから枷をつけられる嫌がらせを受けた。が、誰かさんがネメアの獅子を始末してくれたお陰で解放された』
一見無関係に思える二つの事実には、ひとつの共通点があった。
──それは、冥王が個人的にオルフェンを好んでいない、ということだ。
「まあ、言われてみれば、最初にお会いした時点で冥王陛下はオルフェン殿下のこと見向きもしてませんでしたね……」
頭が痛い。
冥王クラスにもなれば、一国の王太子に興味がないだけかと思っていた。
しかし次にオルフェンを伴って面会した時も、確かに言い回しが異様に冷徹だった。
神らしいと言えば神らしいが、私やエリマスに対する態度と比べれば、配慮がなさすぎる。
そして理由が、あまりにも馬鹿馬鹿しい。
『? どうして貴方が殿下に剣を向けたことでペルセポネ様から罰を?』
『……あの方は赤毛の美男子を異様に好む』
『は?』
『冥王が王太子を嫌う理由はそれだけだ』
つまり冥王は、妻の好みだからという理由でオルフェンを蔑ろにし、一方その妻ペルセポネは贔屓でケイロンを理不尽に拘束した。
そしてケイロンを神罰塔に繋ぎ止めていたのが、エリマスが一撃で倒したネメアの獅子という皮肉。
「言われてみればなるほどというか、結局のところ冥王夫妻が諸悪の根源すぎません? その二人? 二神? がちゃんと話し合えばいい話ですよね?」
「君が言うと説得力があるな」
「…………」
エリマスの口角は僅かに上がっているのに、目だけは冷ややかだ。
「ペルセポネ様が殿下を助けて下さればいいのに……冥界関係者を立ち入り禁止にしてるのも彼女ですよね」
「まあ私が冥王の立場なら、それは許さないだろうな」
「……共感しないで下さい」
防刃着を脱いで返し、赤い実は元通り硝子の器の中へ。
積み上がった疲れを自覚して、腕を回す。肩やら首やらが軋む音がする。
「ではエリマス様」
時間も時間だ。
「本日は諸々お騒がせしました。ひとまず今宵は失礼させていただきます。おやすみなさいませ」
令嬢らしくさっと身を引きすっとお辞儀をして、エリマスのリーチから完全に脱した私は扉へ向かった。
しかし、敵に背を向けたのが間違いだった。
「どこに行く?」
「当然ながら自分の部屋です。寝ます」
「この時間なんていつも寝ていないだろう君」
背後を取られ、壁ドンならぬ扉ドンをされている。当然、目の前の扉は開かない。
空いた方の手がするりと蛇のように腹部へ回り、一歩間違えれば命を取られかねない状況だ。
「いえ、今日はもう私の脳は限界です。この国のためにも、一旦寝て考えたくて」
「ここで寝ればいい」
「寝間着に着替えたいですし」
「なら侍女に持ってこさせる」
声もトーンも触れる手付きも甘ったるい。
致死量の毒を神経に直接注ぎこまれているような感覚に、ぐるぐると目が回り始める。
言い訳が、思いつかない。
時間を置けば置くほど、自分の発言がまざまざと蘇ってくる。
私は今日エリマスに、何を言ったんだったか。
「要らないと思っていたが、君が望むなら婚約式の段取りも考えないと」
「い、今は、それどころじゃ」
「ドレスの仕立てはそれなりに時間がかかるだろ」
耳に唇が触れて、眩暈がした。
かっと頬が熱くなったのを気取られないように顔を逸らしたのに、後ろの人間は声も出さずに笑っている。
「…………いい加減にしてください本当に……………」
──その翌日には嘘のように雨が上がり、束の間の日常が戻った。
あれから数日。
赤い実はひっそりとエリマスの部屋に幽閉されたまま、私たちは仕事の合間に引き続き情報収集を進めていた。
結局、加護の力の移行については、未だ最終手段のまま取り残されている。
あれから冷静に膝を突き合わせて話し合った結果、やはりオルフェンに加護を移した場合の弊害は無視できない、という結論に至った。
一方で、あの日のケイロンからは"いつまでに対処しなければならない"という具体的な情報は得られていない。
城内で見かけるオルフェンは傍目には変わりなく、行動を共にしているエリマスも「特に何も感じない」と言う。
ステントール侯爵からどこかで報復されるのではとびくびくしていたけれど、音沙汰はなく。
翌日顔を出した治療室の面々も、まるで何事もなかったかのようだった。
「──で、何だその本の量は」
「ここは発想を変えて、赤い木の実や果実が出てくるおとぎ話や歌を探してみようと思いまして」
場所は王城敷地内の図書館だ。私の前に積まれた本の山を見るなり、エリマスは怪訝な顔をする。
ミステリーとファンタジーの鉄板だと思ったのだけれど、ピンとこないらしい。
「というか、私は今日休みですけど、エリマス様はお仕事中では?」
「……昼食は?」
「まだです。あとで適当に何か食べますよ」
これ見よがしに指差された時計は十四時を指している。
過保護か。
「何時からいるんだ。朝見に行った時には部屋にいなかった」
「六時くらいですかね」
「……朝食は」
「まだですけど……」
開いていた文献に栞を挟んだかと思えば、強引に閉ざされた。
文句を言う前に立たされて、力づくで連行される。すれ違った図書館の司書、もといこの世界で言う書庫官に、生暖かい目で見送られながら。
「お、お腹が空いたら自分の足で歩いて食べに行くので!」
あの日のことを喧嘩という括りにするなら、あれからエリマスは今まで以上に構ってくるようになった。
元々容赦なく部屋に入ってくることはあったけれど、うっかり捕まると寝台に引きずり込まれ、手は出してこないものの寝つくまで解放してもらえない。
近くにいればどこかに触れてくる。昨日は一度度を越したスキンシップに発狂して脱走して自分の部屋に逃亡したほど。
私は、あの男の本気を舐めていた。
そうして私は今も食堂に強制連行され、渋々サンドイッチもどきを口に詰め込んでいる。
エリマスは何が面白いのかそれを眺めているだけだ。
「……で、お仕事はどうされたんですか?」
「私が職務放棄していると?」
答えになっていない。
どうせ空き時間を見つけて、ちょっかいを出しに来ただけなのだろう。
むしろ、今までいかにほどほどの距離を保っていたかがよく分かる。
混雑のピークを過ぎた食堂で、崇高なるメレアグロス公爵閣下が女の食事を眺めているという珍妙な光景──注目を集めないわけがない。
刺さる視線のせいで、口の中の水分が余計に消えていく。
「ん?」
「……なんでもないです」
精神統一により見慣れていたはずのエリマスの顔を、二秒以上見れなくなっていた。




