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【そんなことはどうでもよくて、】
その手は、振り払えない。
【あの状況からここまで辿り着くなんて思わなかった! びっくりしちゃった】
「何を……」
【はい、あっちを向いて】
岸に上がると、肩を掴まれ、強引に川の方へ向き直らされる。
【この川の対岸まで渡り切れば、元の世界へ帰してあげる】
「……元の世界……?」
まるで、悪い夢の続きのようだった。
【そう。元の世界】
「と、おっしゃられますと……?」
【だから、この貴女がいた世界よ】
そう言って、彼女は自分の顔を指さした。
「……日本、ですか」
【そう。さっき分かったでしょ? この川では貴女は溺れることはないし、ただただまっすぐ行くだけで難なく帰ることができる】
天真爛漫な笑みは、悪意がないぶん、いっそう不気味だった。
私は、もう何年もそんな顔で笑っていない。
「意味が分からないんですが」
【貴女はもう十分にその価値を証明してくれたもの。むしろ今までこんな風に扱ったことなんてないんだから、特別よ特別】
「ですから、おっしゃっている意味が──」
刹那、灰色の背景から色が抜け落ちる。
代わりに広がったのは、オフィスからいつも眺めていた夜景だった。
「な、」
【今まで色々試したの。だけどどうも人間と不死って相性が悪いみたいでみんなおかしくなっちゃって】
目の前の私は、子どものように不貞腐れた顔で腕を組んでいる。
【だからとにかく強度のある人間を探してたの。それが貴女】
「……強度?」
【苛烈な環境でも簡単に死にたがらない、死にそうにない人間】
言葉の意味は分かるのに、話の筋がまるで見えない。
【で、入れ替えてみたらご覧の通り。生きるのにもやっぱり才能ってあるのね】
「? 元の世界の私は……?」
【貴女のその身体の中身と入れ替えてみたの。そしたらやっぱりすぐ駄目になっちゃった。というわけで、貴女のことは入れ替わる前の状態まで戻してあげる】
それは残酷なまでに、あまりにも無邪気で。
「……つまり、この身体の本当の持ち主と、私の魂を入れ替えて、実験したと……?」
【そう。だって貴女の元の世界の方がよっぽど便利なはずでしょう? なのにあっちで貴女と同じ人生を歩ませようとしたら、十五歳くらいで死んじゃって】
だから"よく分かった"のだと、私の顔をした何かは目を細めた。
【今までも色んなパターンで試してみたんだけど、貴女が一番だった! だから、特別】
どんな化け物より、目の前の自分が恐ろしかった。
「貴女、なに、何かの、神の類……?」
【? そんなことはどうでも良いじゃない? 元の世界に帰れば忘れるし】
「帰るって、」
【ここに来る前。つまり仕事終わりに駅で倒れて救急車で運ばれたところからスタートになっちゃうけど】
「そうじゃなくて、私が戻ったら、ここは……こっちの世界の私はどうなるんですか」
声は震えていた。
それでも問わずにはいられない。
【なんで? どうせ戻ったら忘れるんだからどうでもよくない?】
「っだから、こっちの世界はどうなるのかって聞いてんの! こっちも当然元に戻してくれるんでしょうね!?」
思わず胸倉を掴むと、彼女は目を瞬かせた。
【ゴルゴンの森からその身体が帰ってこなくなるだけだけよ】
「……は?」
【だからさっき言ったでしょ? その身体の中身は貴女の元いた世界が耐えきれなくて、すでに退場した後。だけど貴女はまだこっちで頑張ってるから、戻った後は全部なかったことにしてあげるって話】
「じゃあ、何、こっちの世界から、この子は……この身体は消えるってこと……?」
私の顔をした女は、頬に手の平を当て、小首を傾げる。
【そう言ってるじゃない。なに、貴女、困ることでも?】
寒さはないのに、ぞくりと悪寒だけが走る。
凄んだところで意味がないことくらい、分かっているのに。
(仮にこの女の言う通りだとしたら、)
私は日本に戻って、本来の人生の続きを始めるだけ。
一方、ノーナの身体の持ち主は私と同じように日本で私の人生を歩んだ結果、何らかの理由で命を落とし──中身を失ったこの身体はゴルゴンの森に閉じ込められて消えていく。
「あんた……運命の女神とか、そういうんじゃないでしょうね……」
女は、少女のように顔を綻ばせた。
「ッあんたにとっちゃ娯楽だか実験だか何だか知らないけど、そんなくだらないことに付き合わされて、私たちがどんな……ッ」
【くだらない? どうして。私はこんなに貴女を評価してるのに】
二歩、三歩と後ずさるたび、川の水が跳ねる。
胸倉を掴んだ手から力が抜け、その場に膝をついた。
「……、もし、私が、元の世界に戻らなかったら、どうなる」
【へ?】
頭上から素っ頓狂な声が落ちてくる。
【なんで? 戻らない選択肢なんてあるの?】
「いいから答えて」
【まあ、身体が二つあって、もう魂は一つしかないんだから、元の世界の貴女が順当に死ぬだけ──】
目の前の手を掴み、強引に引く。
脆いほどあっけなく姿勢が崩れ、水の中に腰を落とした。
それでも、彼女の顔には驚きも怒りも浮かばない。
「あんた神様のくせにそんなつまんない発想しかないわけ」
押し倒しても、形勢逆転した気はしない。
見上げてくるその顔は、なおも歪まない。
【と、言うと?】
「私はこの世界に残る。だけど元の世界の私が死ぬのは割に合わない。……だから十五年でドロップアウトした彼女に、続きをやらせて」
【……なぁに、それ、私にメリットないじゃない】
「どうして? 元の世界の私の地獄は、三十歳からが本番なの」
色のない唇が、薄く弧を描く。
【せっかく地獄から抜け出した弱いあの子に、貴女のエゴで、もう一度試練を強いると?】
「……どう生きるか見物でしょう? 目が覚めたら、いきなり身体バキバキの三十歳なんだから」
一言目に『できない』とは言わなかった。
つまり、この女ならそんな倫理を無視した操作もできるということだ。
そんな化け物を押し倒して詰め寄っている私も、もはや大差ないのかもしれない。
【代わりに貴女、もう二度と元の世界に戻る機会はなくなるけど】
その声は、あまりにも静かだった。
「……あんたには分かんないでしょうけど、人間ってね、"責任"を取るのが好きなんですよ」
手を取った責任、切り捨てた責任。
言った責任、言わなかった責任。
選択をした、責任。
「自分で広げた風呂敷を、畳む責任が私にはある」
【でも、】
「この身体に放り込んだのがあんただろうが、ここまで来たのは私だから」
見下ろすその笑みに、優しさは一滴もない。
ただ愉快そうに、目尻だけが歪んだ。
【……面白い。面白い人間は過去にもいたけど、貴女、とびきり狂ってる】
笑みが深まった瞬間、輪郭が砂のように崩れた。
呆然とする私の前で、粒子となった身体が水面から舞い上がり、空へと昇っていく。
「え、ちょっと、」
【ぜひ私に貴女の話の続きを見せて。楽しみにしてる】
「それはいいけど、ねえ、ここから出る方法は!?」
最後の砂粒が、笑うように目の前をかすめた。
【その川の水をひと掬い飲めば目が覚めるわ。……ああ、それから】
眩い閃光とともに、夜空が強引に閉じていく。
【面白そうだから、少しだけ手を貸してあげる】
「……っは、……」
鼻孔を刺したのは、湿った土と木の匂いだった。
服も髪もぐっしょり濡れ、吹き抜けた風が冷たさを叩きつける。
重なり合う葉の隙間から、わずかに光が差していた。
水を吸って鉄の鎧のように重くなった身体を起こすと、手の平から伸びる糸が目に入る。
自分が小川の岸に転がっていることを、ようやく理解した。
(戻ってきた……じゃなくて、)
どれほど時間が経ったのか分からない。
ここが本当にゴルゴンの森なのかも怪しい。景色も、空気も、感覚も、微妙に違う。
角笛の回数を数えるための印は失われ、荷物もすべて消えていた。
残っているのは、身ひとつと、繋がったままの糸だけ。
とにかく、無事を伝えに戻らなければ。
髪の水気を絞り、上着を雑巾のようにねじり切る。
立ち上がり、足を滑らせながらも一歩を踏み出す。
どこまでが幻で、どこからが現実なのか分からない。
ただ、森の様子が明らかに違う。手や服についた土、枯れ葉、そして木の幹をすり抜ける糸──それらが現実を証明していた。
数歩走ったところで、角笛の音が響いた。
焦りが足をもつれさせる。
(もう、元の世界には帰れない)
冷えた身体が、現実を容赦なく引き戻す。
翌日に残した仕事。クレーム対応のために推敲していたメール。マンションの更新、カードの支払い、放置したサブスク。
全部投げ捨てて、私は今、ただ走っている。
向こうの世界で、私は目を醒ましただろうか。
彼女は絶望の中で、ひとり打ちひしがれているだろうか。
こんな選択をした私を、憎むだろうか。
あんな仕事、辞めればいい。
あんな家族も、縁を切ればいい。
中古のマンション一部屋くらい買える貯金はある。しばらく何もしないで、世界の理不尽に泣きながら、一万円の鰻でも食べて驚いてほしい。
だけど私がそこに戻ったら、何もなかったような顔で、病院を出た足で会社に向かってしまうから。
だから後は、貴女が選んで。
こっちの地獄は、私が引き受ける。
「……はぁ、しんど……」
木に手をついた瞬間、ちり、と痛みが走った。手の平には小さく血が滲んでいる。
呼吸を整えたところで、もう一度、角笛が鳴った。
(……見えた)
石碑だ。
力が抜け、膝は笑う。
「は、……」
靴の中はぐちゃぐちゃだ。
こんな姿を見たら倒れるだろうか。
結局何のヒントも得られていないことに、落胆するだろうか。
(いや、でも、あの女神、"ここまで辿り着くなんて"って言ってたのに……)
視界の端で、プラチナブロンドが弾かれたようにこちらを向いた。
目が合った瞬間、時間が止まる。
「ノーナ!!」
気が抜けて、ふつりと糸が消えた。
石碑を越え、木々の間を軽い足取りで上がってくるエリマスに、思わず笑ってしまう。
「すみません、何も、見つからなくて……」
言いかける間に強く抱き締められて、今度こそ足の力が抜ける。
道中で頭のおかしな神様と滅茶苦茶な交渉をしたなんて、言えるわけがない。
「そんなことより、何がどうしてそうなる!?」
「ええ、その、川で転んでしまい」
怒るのも無理はない。
唇に噛みつかれると、あちこちの痛みが溶けていく。この行為はいっそ治療に近い。
抱えていた水浸しの上着を奪われ、代わりにエリマスの上着を着せられる。
石碑の元へ降りながら、私は背後の森を振り返った。
「私が中に入ってからどれくらい経ちましたか?」
「? さっきの角笛が八回目だ。印は? 落としたのか? それとも転んだ拍子に頭を打ったのか、」
「…………え?」
つまり、現実では──まだ四十分しか経っていない。
(ということは、私が見聞きしていたものはどこからかが夢か幻か……)
「その状態じゃ今日はもう続けられないだろう。……とにかく無事でよかった」
石碑の前まで辿り着くと、エリマスが私の頬を拭った。
指先には泥がついている。現実の重みが、そこにあった。
「あの、エリマス様、ここって……変な幻覚を見るとか、そういう伝承はあるんでしょうか」
「……何か見たのか?」
「いえ……もっと時間が経っていたような気がして」
心配そうな視線に気づき、思わず頭を横に振る。
「ですが結局、そう、何も分からず……森の中に、幼い時に私が日ごとに刻んだ木があったんです。でもそれも、幻かもしれなくて。オフィオタウルスの檻の手がかりも何も、見つけられませんでしたし」
言葉にすると、現実が輪郭を持ち始める。
結果だけ見れば、私は四十分、森を彷徨って濡れて帰ってきただけだ。
(あれが本当に運命の女神なら、それこそオフィオタウルスの檻のことも知ってたはずなのに)
ふと、目の前の石碑を見た瞬間、思考が止まった。
「……エリマス様。ここ、私が入る前、文字が刻まれてませんでしたか」
「? 文字?」
確かにびっしりと文字が刻まれていたはずのその場所には、ただ無機質な石肌が広がっている。
エリマスは眉間に皺をよせ、首を傾げた。
「嘘、ここですよ、ここにずらっと……古語で、私には読めなくて、」
「いや、この石にそんな文字が刻まれていた覚えはないな」
「石……? これ、石碑ですよね?」
噛み合わない。
しかしエリマスがふざけているようには、とても思えなかった。
「だ……だって、エリマス様がこの石碑の話をされたんじゃないですか。王族が成人する時にここに来て、ここで亡くなった人のために、弔いの儀に参加するって。この石碑の先には入れなくて、それで」
「落ち着け」
エリマスもまた、私の反応に困惑している。
「これに糸を結び付けて待ち合わせ場所にしようと言ったのは君だ。でも君が言う石碑はここじゃない」
「……本気でおっしゃってます? じゃあ石碑ってどれのことですか」
「もう少し奥にある。なのに君が、頑なにこの石にしてくれというから」
そんな会話の記憶はない。
何度見ても、確かにそこにあるのはただの巨大な石で。
一方のエリマスは、私を馬鹿にするでもなく、真剣に考え込んでいた。
「……まだ歩けるか? ここからそう遠くない」
「も、もちろんです」
石の陰に身を寄せ、濡れた服を一度脱ぐ。
反対側にいるエリマスに渡すと、容赦なく水気を絞ってくれた。カラカラとはいかないが、重さは幾分ましになる。
それをもう一度身に纏い、再び森へ足を踏み入れた瞬間──聞こえるはずのなかった鳥の声がした。
思わず顔を上げる。
なだらかな山道を五分ほど進むと、不自然に開けた場所に"それ"は現れた。
「石碑というのはこれのことだ」
湿った風が吹き抜ける。
さっきまで石碑だと思っていた石を遥かに上回る巨塊。その上空だけ、木々が意思を持ったように避け、光が差し込んでいる。
自然界の造形とは思えない巨大な一枚岩が幾重にも重なり、その表面には確かに文字が刻まれていた。
「エリマス様、ここに書いてるの、読めますか? 一行だけなんですが」
「ああ、書いてるのはごく一般的な追悼の詩で……」
身を屈めたエリマスが、そこで動きを止めた。
「……いや、」
「? どうされました」
「≪オフィオタウルスの檻≫」
その言葉に呼応するように、木々がざわめいた。
「え?」
「他には何も……以前にはこんな文字刻まれてなかった」
「書かれているのはそれだけですか?」
指でなぞる。確かに、一行だけ。
檻と呼ばれるほどの構造物もない。ただの壁だ。
石に触れても、動きそうな凹凸はどこにもない。
エリマスは文字を前に、沈黙したまま考え込んでいる。
「君の記憶の中の私はさっきの石の方を石碑だと言って、これのことは何も言わなかったんだな?」
「……はい」
「そして森の中にいた君の体感時間と、実際の経過時間には差異があると」
頷くと、エリマスは眉間を押さえ、深く息を吐いた。
「……以前冥王に邂逅した後、城に戻ったら他の人間の記憶がごっそり入れ替わっていたことがあったな」
「……ええ。伝説の内容が書き換えられていましたね」
「理屈は分からないが同じような類だと受け止めた方が早い。単に君が頭を打っておかしくなったとは思えない」
そう言いながら、エリマスはおもむろに剣の柄頭に手を添えた。
「え、エリマス様?」
「これが例のオフィオタウルスの檻なら、とりあえず斬った方がいいんじゃないか?」
「いいいいやいやいや、それこそどういう理屈で!? っていうか石、石ですよ!? それこそ何かの罠かもしれませんし、」
聞いていない。
光を浴びたエリマスの剣が眩く輝き、私はただ隣でわたわたするしかなかった。
「それこそエリマス様の中にステュクス神がまだいらっしゃるんだとすれば、よく分かりませんがオフィオタウルスの檻を斬るなんてことをしたら何かお身体に罰が当たったり、というか檻というのは危険なものを隔離するためのものであって、檻を斬ったら一般的には中から危ないものが出てくるというか、」
「他人の身体を勝手に借りているくせに、異論があるなら自分の口で言えという話じゃないか?」
「それはそ……でも、いえ、理不尽では……」
神をも畏れなさすぎる。
こうなったエリマスはもう誰にも止められない。
そもそも石相手に刃が通るわけがない、そう思いかけて、しかしネメアの獅子を貫通した槍のことを思い出し、頭が痛くなる。
そうだった。
エリマス・メレアグロスは強すぎた。
それこそ、その力を削がなければ、物語の進行を阻害しかねないほどに。
息を呑む。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
この世の理を無視した一閃が、眩い光を放つ。
剣先が触れた瞬間、巨大な石は柔らかなスポンジのようにずるりと歪んだ。
分断された上半分が傾き──さらさらと砂になって崩れ落ちる。化け物を仕留めた時と、まったく同じ消え方だった。
二人で呆然と石壁の消失を見つめていると、最後の欠片が風に溶けたあと、小さな影が地面に残った。
「あ」
「……何だそれ」
ころん、と転がっていたのは、手のひらサイズの赤い実だった。
「……モンスターをドロップした時に出るやつですね……」
「?」
「いえ、すみません。忘れてください」
恐る恐る触れると、確かな重さがあった。
「りんごにしては形が違いますね」
「何か聞いていないのか? あの男から」
「ケイロンからは何も……」
とはいえ、持って帰るしかない。
石壁が砂となって消えた場所には、もう何も残っていなかった。
一度だけ振り返り──その不自然な空白を背に、私たちは山を下った。
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