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「──ご覧の通り、私の糸は生命由来ではないものにならこうして結ぶことができるんですよ」


 糸を結んだカップをぶら下げてみせる。

 エリマスからの視線が痛いけれど、やむを得ない。事実は事実。

 私が出せる不思議な糸は、石や硝子といった無機物には括りつけることができるのだから。


「なのでエリマス様がおっしゃっていた、入口の石碑か何かに括りつければ、ひとまず迷子にはならずに済みます」

「……」


 沈黙が刺さる。


「あっそうだ侍女に湯浴みの準備をお願いしていたのにもうこんな時間! ではエリマス様、私はこれにて!」


 冷や汗をかきながら話を有耶無耶にし、何か言いたげな火の玉をオルフェンの元へ追い返し、わざとらしく私は湯浴みへと抜け出し──


 そして今、自室でひとり、虚無の中にいる。


(危うく某特定条件が揃わないと出られない部屋みたいな同人誌展開になるところだった……)


 分かっている。

 私も子供じゃない。

 エリマスがこちらの都合に合わせてくれていることも、未来のことに言及しない私に焦れていることも。

 

 差し当たってはオルフェンの身体から忌まわしい異物を取り除くことが最優先だ。それ以外にない。

 ただ、もしも、万が一のことがあれば──オルフェンが王位を継承できなくなった場合、正当な後継は年若くかつ現王の弟であるエリマスになる。


 それを想像しないほど、彼も馬鹿じゃない。




◆ ◆ ◆




 ゴルゴンの森に無断で乗り込むことは、エリマスの判断でやはり否とされた。

 あらゆる想定を重ねた上での結論だ。


 そうして出した苦し紛れの案が『王太子オルフェンの不治の傷を治す手立てがゴルゴンの森に秘されていると、聖冠の神子ノーナが天啓を受けた』。

 聖冠の神子という看板を利用していることに心が痛まないわけではない。


 あれから国王からの正式な承認を得て、暦はすでに五月の入り口。


 結局移動手段にはランパスを使わず、山の麓までは最低限の人員で、そこからはエリマスと二人山登り。

 この道程に反対の声がなかったはずはないけれど、なんとか押し切ったのだろう。


「……全く、生き物の気配がしないですね……」


 目の前には、鬱蒼と茂る森が広がっている。

 麓についた時点で確かに違和感はあった。


 風は吹いているのに、葉擦れの音がやけに遠い。

 鳥の声は一つもなく、虫の羽音すらしない。

 一帯にはおびただしいほど立ち入り禁止の触れが立ち並び、木々の影は昼間だというのに濃く沈んでいた。


 最低限整備された道は、王族が弔いに訪れるためだけに存在する、細く冷たい一本道。

 踏みしめた土は乾いているのに、靴底にまとわりつくような湿り気がある。


 足を踏み入れた瞬間、背筋に冷たい何かが走った。


(……日本で言う禁足地みたいな感じか)



「──ここだ」


 エリマスの声で、はっと顔を上げる。

 目の前にそびえ立つのは、背の高いエリマスを遥かに飲み込むような大きさの岩だった。


 話に聞いていた石碑だろうか。

 おびただしく文字が彫られているけれど、またしても全て古語のようで当然ながら読めはしない。


「何か思い出すことはあるか?」

「……、いえ」


 妙にエリマスの口数が少ないと思っていた。どうやら私がこんな場所で数年生きていたことを思い出していたらしい。

 なんとなく石碑に一度手を合わせ、予定通り"測りの糸"とやらをエリマスの指示を受けながら一周、二周と巻きつける。

 途中もつれながらもなんとか固く結ぶ。びくりともしない。


 もちろん城内ではあらゆる想定をしてこの糸の強度は確認した。

 意識がある時に糸を消さない限り、糸を出したまま熟睡しても火にくべても、エリマスが握った剣でも切れないことは証明済み。無機物に結びつけることはできても、害されることはないということだ。

 

 唯一、私が死んだ場合にどうなるかだけは確認できていない。


「私が五分おきにこの角笛を鳴らす。聞こえなくなるところまでは行かないこと」

「はい」

「君の制限時間は三時間。それを超えた場合、あるいはこの糸が消えた瞬間、私が中に入る。そして私と君が十二時間以内に麓まで戻らなかった場合、軍部の捜索が入る」

「承知しております」


 ここに来るまで何度も言い聞かされて、もはや一言一句違わず暗唱できそうだ。

 つまり、他の人間の命を危険に晒さないためにも、無茶は許されない。


「……何もなくても、焦らなくていい。五分で戻ってきても構わない。いいな」


 それも、もう何度も聞いた言葉だ。


「……分かっています」


 軽装ではありながら、纏う装備は騎士相当のものだ。 

 呼吸を整え、石碑の向こうへと足を踏み出した。

 後ろは、振り返らなかった。





 やはり、どこまで歩いても生き物の気配はない。


(もっと、当時のトラウマでも呼び起こされるかと思ったけど)


 とにかくただひたすら、同じ景色が広がっているだけ。

 すでに角笛の音は八回鳴った。持ってきた回数カウント用の印は三十六個。

 鳴るたび、通った木の下に印を置いていく。のんびりしている暇はない。


「……あ」


 ふと目に入ったのは、蔦が絡み植物に同化した小さな布だった。いつの時代のものかは分からない。

 ここに残された暗い歴史が、事実だと知る。


(……生き物がいないから、植物もかなり限られてる)


 少なくとも花は一本もない。額に滲む汗を拭い、時折糸がちゃんと伸びているかを確認しながら登っていく。

 誰も、何もいないのに、ずっと見られているような感覚がある。


 オフィオタウルスの檻そのものがここにあるとは思っていない。


 この世界の私には人間の親がいたはずで、何らかの意図があってここに置き去りにしたのだろう。

 ただの捨て子なら、中に入るのにリスクがあるこんな森を選ばない。


 明らかに私が異端であることを理解した上で、そしてこの森から出てこないことを祈ったに違いない。



「──……で、これだけ探して何も出てこないあたり、現実的」


 

 十八回目の角笛が鳴った。

 音の聞こえ方からして石碑からは確実に遠ざかっているものの、これだけ歩いているのに、景色はほとんど変わらない。

 進んでいるのかどうかすら怪しい。


 生き物がいないのは当然のことながら、化け物の一体も現れない。

 当時は逃げても逃げてもどこかから現れ、襲い掛かってきたのに。

 そもそも私がいたのがこの森ではないか、あるいはもっと奥である可能性も捨てきれない。 


 足を止め、近くの大きな石に腰を下ろし、天を見上げる。

 重く伸びる木々の葉の向こうには、僅かに光が滲むだけ。空があるはずなのに、どこか閉じているように見える。


(なんでこんなことしてるんだろう)


 多くの物語の中で、世界や国や、誰かのために戦う主人公たちのことを非現実的だと思っていた。

 『ペルセポネの冥戦』もそうだ。特別な力を持ったばかりに、予定調和のように救世に挑む彼らは眩しくて、けれど一歩引いて見ていた自分がいる。

 当然、彼らが『まあいっか、世界滅んでも』とその日暮らしをしていては、物語にならないことは理解していたけれど。


 オルフェンがもっと嫌な奴だったら、違ったかもしれない。

 あるいはレミジオやヘメラがあの王城にいなくて、エリマスが私のことをゴミのように扱って、国王は金銀財宝に目が眩み国民を顧みないような人間だったなら。

 もしも私に、不死という絶対的な武器がなかったら。


 物思いに耽りかけて、十九回目の角笛の音で思わず立ち上がる。

 ともかく、制限時間内は諦めるわけにはいかない。 


 そうして一歩、踏み出そうとして──くん、と、糸が引かれた。


「え?」


 何かに引っかかったのだろうか。

 振り返り、糸をたわませる。

 気のせいか、と足を踏み出そうとして、そこでようやく私は気づくことになる。



 この森、木の匂いも、土の匂いもない。



(それだけじゃない、)


 王城であれだけ実験をして理解していたはずだ。

 この糸は無機物にしか干渉されず、人や植物には一切触れられないことを。


 なのに目の前の糸は、木の幹に引っかかっている。


「……なんで……?」


 木に触れる。ひんやりと冷たい。感触は間違いなく木そのものだ。けれど顔を近づけても、全くの無臭。

 縋るように、いかにも湿っていそうな木の根元に手を突っ込む。

 けれどそこには水気がなく、指先には何も残らない。


 足元がぐにゃりと歪むような感覚。力が抜け、その場に膝をついた。

 どこまで、どれが、何が、偽物なのか。


(この木や土だけ? 見えている風景全部? 角笛の音は? この糸は?)


 声が出ない。四方を見渡し、短く息をする。

 自分の身体に触れ、喉に触れ、現実であることを確認する。思い切って地面に鼻を寄せる。やはり、何の匂いもない。


 ふらふらと立ち上がり、糸を辿る。恐る恐る踏み出した足は、ほとんど無意識に走り出していた。


 戻らなければ。


 躓きながら、それでも走り続ける。糸は確実に私を導いているはずなのに、まるで永遠のようで。


 二十回目の角笛の音が、しない。

 確実に五分以上走っているはずなのに。

 まるで、動く床をずっと走らされているかのよう──


「……、嘘」


 息を切らしながら立ち止まったのは、一本の大木の前だった。


 忘れるはずがない。


 それは私が、気が狂いそうになりながら、朝が来た回数を刻み続けたあの木だ。


(こんな場所だった……?)


 ほんの数秒前に急いで(あつら)えたかのような。


 力が抜ける。

 ただの闇の森じゃない。


 まるで、悪夢の中だ。


「エリマス……」


 石碑にいるエリマスは無事だろうか。

 どこからこうなっていたのか分からない。


 幼い頃に刻んだ当時のまま、ぼろぼろになった木に触れる。

 あり得ない。


 あれからもう何年も経っているのに、いくらここに光が入らないからといって、当時のまま残っているなんてあり得ない。


「助けて、」


 木を殴りつけても、びくりともしない。


 風はもう、ひとつも吹いていない。

 それはまるで、取り繕う必要をなくしたかのようで。


「ここから出して……ッ」













「──様、お客様、大丈夫ですかー?」



「え、あ……あれ、わ、やば、ごめんなさい、寝過ごしました!?」


 慌てて飛び起きると、車掌らしき男性は困ったように頷いた。


「この車両、今から倉庫に入っちゃうんですよ」

「ッすみません! すぐ下ります!」


 バッグとジャケットを抱え、転がるようにホームに抜け出す。柱には終着駅の看板。そして次に電光掲示板に映る時間を見て脱力した。


「……終わった」


 涎の後を拭いながら、パンプスを履き直す。

 近くのベンチに腰を下ろし、タクシーアプリを開いた。


 人身事故でいつもの電車が運行休止になり、振り替え輸送で遠回りをさせられたことまでは覚えている。

 それにしてもこの年になって、酔ってもいないのに終電まで爆睡するなんてあり得ない。


(や、むしろこの年だからか……)


 欠伸をしながら肩を鳴らす。明日は六時には出社しないと納期に間に合わない。

 となると、ここから家に帰ってもほとんど寝る時間はない。

 つまりタクシーで会社方向まで戻って、ホテルを取った方が早い。


 指示看板を見ながらとぼとぼと階段を上がり、コンコースを目指す。


(飲み会ついていかなかったけどあの子大丈夫だったかな……ていうかあの進捗で飲み会企画する余裕あるってことは未入金のチェックやり終わってんでしょうね……)


 とっくに終電を過ぎているせいか、周りに人はいない。

 改札を出て、見慣れない景色をぼんやりと眺めながら溜息を吐いた。寂れたタクシー乗り場から見上げた空は、普段見慣れているビル群から見えるような空よりも広い。

 

「あ、ラッキー」


 アプリで呼ぼうと思っていたタクシーが一台すでに止まっていた。

 近くに寄ってかがむと、自動的にドアが開く。


「どちらまで?」

「えっと、」


 開きかけた口から、声が出ない。


「? 行き先ですよ」

「え、ええ、はい、行き先は……」


 会社の近くの住所を言うだけだ。

 なのに、分からない。テナントビルの名前も、最寄りの駅名も、自宅の住所も。


「お客さん、酔ってるなら、」

「ごめんなさい、ちょっと、降ります」


 ふらふらとドアを開けて、外に出る。

 今いたはずの、振り返った駅名が、読めない。


「え?」


 違う、さっきまでは読めていたはず。

 終着駅だということも理解して、電光掲示板を見て──疲れているせいだ。住所が分からないなら検索すればいい。

 そう思ってスマホを開いて、検索しようとした指を止めた。


 散々通っている、自分の所属している会社名が、分からない。


「そうだ、救急車、呼ばなきゃ……」


 確かこういうことが起きるのは、脳の異常だったはず。

 震える指で、数字を打つ。



【無駄よ】



 幼い子どもの声が、頭に響く。


「え?」


 プツ、と目の前のスマホの画面が暗くなる。






【死にたくないって言ったの、貴女だもん】






「ッは……、」


 耳の中の異物感に、顔が歪む。

 それだけじゃない。私がいるのは──水の中だ。

 

 勢いよく飛び起きる。


(……ゴルゴンの森……、じゃなくなってる……?)


 どうやら私は川の浅瀬で倒れていたらしい。

 周囲には木の一本も見当たらない。ただひたすらにだだっ広い砂利の中に、川が流れている。

 身に着けていたはずの衣類や荷物はぐっしょりと濡れ、全身が重い。よろよろと立ち上がり、耳の中に入った水を抜く。


 慌てて手の平を見る。

 案の定、糸は消えていた。この状況に対する絶望や落胆の感情は、まだ追い付いて来ない。


(なんか変な夢見てた気がする……)


 というより、むしろこの場所もまた夢の中かもしれない。


 まず第一に、空がない。ただべったりと灰色の絵の具を塗りつぶしたような何かが、頭上に広がっている。

 そして浸かっていたはずの川の水は、水であるという感覚こそあるものの、温度がない。


 川の幅は異次元に大きく、対岸が見えない。


「……誰かいますか?」


 声は響かない。

 そしてこんなに全身濡れているのに少しも寒くもない。体験したことのない異物感に、思わず身震いした。


 思い切ってざぶざぶと川の中に足を進める。水は澄んでいて、川底は見えている。

 人工的に作った川に水道水でも流し入れているような、不自然さがある。


 服装は森に入った時のまま。

 妙な森から、妙な川へ身体ごと移されたのか、それともこれは何か夢か、意識の中なのか。


 本来なら発狂したくなる状況であることには間違いないけれど、どこか落ち着き、頭は妙に冴えていた。

 明らかにこれは人間業ではない。


 となると、何らか人ならざる者が動いていることに間違いない。

 あるいはやはり、ケイロンの罠だったか。


 永久にここに閉じ込められるとなると、流石の私もいずれは狂うだろう。


 力を籠めるけれど、手の平からは糸が出ない。

 打つ手なし。脱力して勢いよく背中から水の中に沈むけれど──気づくのは、水中でも変わりなく呼吸ができることだ。

 ただゆらゆらと水面が遠ざかるばかりで、苦しくない。


(ああ、そうか、浮力もないのか)


 川底に沈んだ身体が浮き上がらない。

 まるで世の理を知らない人が作った、幻の川だ。


【ねえ】


 幻聴まで聞こえてきた。

 あと一時間もここにいたら本当に気がおかしく──


【ねえ、ちょっと、起きてよ】


 足を滑らせながら飛び起きて、水面から顔を出す。

 見回しても誰もいない。

 とうとうおかしくなったか、と顔を覆おうとした、その時。


 すぐ目の前に逆さまになった女性が浮いていて、私の手を掴んでいた。


「ひ……ッ」

【ああ、そうそう、それでいいの】


 にこ、と微笑んだ彼女は身体を反転させて川の中へ入ると、有無を言わさず岸辺へと引っ張っていく。


「その、顔……」

 

 もうずっと見ていない、()の顔だ。


【なんだ、忘れてなかったのね】


 私の顔が、私の声で、見覚えのあるスーツを着て、笑っている。




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