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「……何言って、」


 跳ね起きかけた身体が、頭の痛みと吐き気に負けて葉の海へ沈む。

 指先が触れた布の感触で、介抱されたらしいことに気づく。

 思考がぐにゃりと歪んだ。


「その前に、待ってください……あの山に彼女を、エレニを置き去りにしました」

「心配しなくても君の遣いに居場所は知らせてある。じきに迎えがくるだろう」


 壁の穴に、湯気が立つカップがふっと現れる。

 ケイロンはそれを手に取り、こちらへ差し出した。


「飲め。毒は入っていない。痛み止めだ」

「……ありがとうございます」


 拒む理由も、気力もなかった。

 力を込めて身体を起こし、カップを受け取る。桂皮の香りが鼻をくすぐり、思わず息が漏れた。


「とにかく──アーテがあの王太子を飲み込めば、もう手の施しようがない。

 あとはステュクスの力を持つあの青年が、人間たちの平穏のために討つだけだ。それで終わる」


 言葉の咀嚼(そしゃく)には、時間がかかった。 


「もう時間がない。それなのに冥王も神々も悠長に構えている理由か? 簡単だ。その方が手っ取り早くアーテを始末できる」

「……つまり、エリマス様に“アーテに堕ちたオルフェン殿下”を討たせるために、あえて黙って見ていると?」

「俺より残酷な言い方をするじゃないか」


『そちらのステュクスの依り代の御仁がその魂ごと貫けばそれで仕舞いなんだがね』

『オルフェン殿の寿命まで大人しくしてくれるなら僕たちも様子見するんだが』


 冥王の言葉が別の意味を帯びて蘇る。

 あれは最初から、嘘ではなかったのだ。


『アーテはあくまでその人間の奥底にある欲を増幅させ、狂わせる神。貴殿の魂が清廉なら、何も恐れることなどないかと』


 自分が乗っ取られるのではと怯えていたオルフェンに返した、あの言葉も。


「すでに君も聞いたんじゃないか? 王太子に"よく似た男"が現れた話を」


 浮かんだのは、マテルとその赤ん坊の顔だった。


「神々それぞれの力はそう恐れるものではない。しかし組み合わせることで恐ろしい力を発揮する」

「……」

「例えば君が苦戦したあの人喰い自体は雑魚も雑魚。神々からすれば王都を飛んでいる鳩と変わらない」

 

『あれは人喰いの能力にアーテが力を貸して成立していたものです』

 大司祭の言葉が蘇る。


「君がすぐに気づいて調べて、ステュクスの依り代にでも始末させていれば、早々に片は付いただろう」


 喉が、焼ける。


「それができなかった。何故か? 人喰いはアーテの力で、唯一の脅威である君の──心の弱い部分を読み取ったからだ」

「……私の?」

「連中には人間のような心や思考なんてものはない。あの少女に"こうであってほしい"という強い理想があった。違うか?」


 言葉の意味を理解できることが、自覚があることが何より痛かった。


「ラミアは、私の理想通りに動いていたと?」

「まさか生きていた頃の少女の魂が残っていたとでも思ったか? あったとしてごく僅かな癒術の残りカスだけだ」


 本当のラミアはあの聖殿に現れた時から、すでに命を奪われていた。


「事実、君は最後まで人喰いを始末できなかった」


 私が望んでいたから。

 オルフェンもエリマスも、ラミアがおかしいと何度も言っていたのに、私だけはそんなはずないと逃げ続けていた。


 なのに。


『失礼ですがここだけのお話、公爵は怖いし冷たいしで、……私はむしろ苦手です』


(ああ、なんだ、私がラミアに、そう言わせたかったのか)


 笑える。


「……話を戻そう」


 ケイロンは眉を(ひそ)めた。


「結果、君の迷いはアーテと人喰いに実験の機会を多分に与えた」

「……実験?」

「まず君の霊液が奪われ始めたのにはきっかけがある。思い出せ。記憶を辿れ。君はある時、人喰いに癒術を使ったはずだ」


 覚えている。

 大火傷を負ったスパルトイ子爵の治療に力を使って倒れたラミアを見舞った時だ。

 あの時は何も違和感なんてなかったはず。


「起点はそこからだ」


 何もないところにふっと羊皮紙と筆が現れる。

 それらを手に取ると、ケイロンはさらさらと人型の絵を描き始めた。


「そこから君の霊液は少量ずつ人喰いに分け与えられていた。経路が出来たと言えば分かりやすいか」


 二人の人型の間に、橋が渡される。


「人喰いの能力は幻惑だ。その人間の見たい姿になりすまし、時に惑わせ、誘う。本来それも一晩程度しか持続しないが、そこに君の霊液があれば長期化も可能になる」


 その時、突然湧き出した理不尽な悪意を思い出した。


『一時、君に嫌がらせをしていた人間がいただろう』

『全員それまでの勤務態度に何も問題はなかった。なのにあの当時はまるで別人のように、君のことを"ラミア様を悲しませる悪女だから"と』

『だが地下牢に入れて一週間が経った頃には全員、突然正気に戻ったように──』


 あれは確かに、ラミアに力を使ってから起きたことだった。


「生身の人間に霊液をどう与えれば、どう影響するか。実験を繰り返しただろう。騎士については相手の強度を測り損ねて殺めてしまったと見る」


『グレアムと使用人の男はそれぞれ随分聖冠の神子と仲が良かったそうだ』


「あ……、」


 頭の中を走り出すのは、数か月前の違和たち。

 視界が、ぐらぐらと揺れる。


「奴らは焦っていただろう。記憶を奪ったはずの君が、何故か糸績みとして機能していたことに」


 ケイロンが描いた人型の絵のうち、おそらく私を模した方の頭部にバツが描かれる。


「まず、糸績みの役割の記憶がないのに、何故君が能力を正確に使えているかだ」


 その声は、私の思考の奥を探り取るようだった。


「糸績みの癒術は癒術師たちとのそれとは多少メカニズムが異なる。勝手に使えるようになるなんてあり得ない。少なくとも鋏は絶対に使いこなせない。かつ、他人から教わりようがない」

「……」

「しかし君が王城に来る前、容赦なく鋏で怪物を(ほふ)っていたことは各地の精霊から聞いている。ということは、己の力の使い方を理解していた」


 羊皮紙の上に、歪な鋏の絵が浮かぶ。


「だから冥界の連中は君に記憶がないことに長く気づかなかった。気づいてから恐ろしかったことだろうな。使えないはずのものを使えている君が。今では冥王まで、糸績みへの不干渉のルールを破りかねないギリギリまで目をかけている。それらは何故か? ──得体の知れない君が恐ろしいからだ」


 カップに口をつけない私に焦れたように、ぐいと口元に押し付けられる。

 思わず飲み込むと、温かく懐かしい甘みが強引に喉へと落ちていった。


 

「諸々(かんが)みるに、君、異界から来ただろう」



「え」

「この世界にない技術や叡智(えいち)を握った状態で生まれてくる者のことだ。まあ、普通は聖冠の神子として生まれることが多いが──」


 イカイ。

 咄嗟に頭で変換できなかった。


『異界より降臨せし聖冠の神子にのみ与えられる力だぞ』


(いや、そうだ)

 それは、冒頭も冒頭、聖殿での一幕。

 言っていた。冥界やら天界やらの派生だと思って、完全に流していた誰かの台詞。


『このラダマンティスは人間界に紛れ、唯一彼女を救える“聖冠の神子”を探していたのだよ』


「……あ」


 裏を返せば、彼らをもってしても探さなければならないということだ。


 大司祭は確かに、ラミアから聖冠の神子である気配を感じ取っていたとは言っていた。

 会えば分かるが、しかし、探すしかない。


 実際には異界から召喚された人間なら、自ずと見つけられたのかもしれない。

 絶望して陰に潜んだ人もいれば、一方で生きるために表に立った人もいただろう。

 例えばそれは、欲に溺れて表の世界に手を伸ばした、私のように。


「……異界から来た、として。それが私だけ、糸績みの記憶を盗まれる原因に?」

「異界の者は、この世界の理や制約を知らず独自の解釈をする。だから強大な力や知識を持てば暴走しかねない。事実、過去には聖冠の神子として生まれながら、罪人に堕ちた人間だっている」


 ケイロンが羊皮紙を裏返し、ふっと息を吐くと、彼のものではない文字と絵が浮かび上がった。

 それはまるで、何かの本をコピーしたかのように。

 ただ言葉を読めずにぐっと目を凝らすと、一文字ずつ打ち直すように翻訳されていく。

 驚いている暇はなく、ただそれを目で追った。


「"オフィオタウルスの檻"とは……」

 

 ステュクスの力に相当し、どんな神であろうと封じることができる唯一の宝。

 しかしその場所と使用条件を知るのは運命の女神、そしてその力を継ぐ糸績み、今はエリマスの中で沈黙を貫くステュクスのみ。


「つまり、生と死の秩序を委ねられた二神のみが管理する()()だな」


 目の前の羊皮紙からは、書かれていた文字がさらさらと浮かび上がり消えていく。まるで初めからそこに何もなかったかのように。


「私には、その兵器を乱用する可能性があると」

「その通り。君という器に糸績みの記憶を残せば己の身に危険が及ぶと判断したアーテと、その考えに与した連中が暗黙のルールを破ったわけだ」


 本来私は、糸績みの力を持ちながらもそれに自覚なく、ただ異界からやってきた人間であるはずだった。

 しかし蓋を開けてみれば──


(確かに、もしも私が冥王からの釈明を受ける前にそんな神をも打倒するスキルを手に入れる術を知っていたら……)


 その力で、この世界の諸悪の根源だと思い込んでいた冥王を倒すことしか考えていなかっただろう。

 ひょっとすれば、エリマスに出会うよりももっと前に。


「……なら、私が異界からやってきた器だと分かった時点で、糸績みの魂を継がせなければよかった話では」

「それも含めて運命の女神が決めたことだ」

「では歴代の糸績みにはその懸念がなかったんですか? それこそそんな強大な力、異界の人間じゃなくても悪用しかねない人だっていたでしょう」


 ケイロンは小さく鼻で笑って、目を伏せた。


「そもそも疑問に思わないか? 糸績みが"魔女"などと恐ろしい名で呼ばれている理由を」

「……それは」

「鋏に妙な制約があることも」


 半分になったカップの中身に、私の情けない顔が映る。


「過去の糸績みが、鋏を乱用して不条理なほどに人間の命を奪ったからだ。

 だからそれ以降、役割の記憶を受け継ぐように、魂を繰り返すように仕組みを変えた。糸績みへの絶対不可侵を根付かせるため、人間たちの伝説にもなっているだろう」


 まるでそれは、彼自身がその目で見てきたかのように暗い口調だった。


「以降の糸績みは役割の記憶に縛られる。正しく引き継がれれば、過去の惨劇を魂が覚えている。

 元々は選ばれるべくして選ばれた人間だ。神々の秩序を乱す兵器を悪用するはずがない。 

 ──それでも糸績みの魔女が続くのは、運命の女神の娯楽のためだ。人間界に残した彼女の玩具のひとつに過ぎない」 


 指先は冷たく、ほとんど感覚はない。


「……話が逸れたな。結果、人喰いは葬られたが、しかしアーテは君の霊液の扱い方を学習してしまった。それが王太子に"よく似た男"の話だ」

「では、殿下本人ではなく」

「当然別人だ」


 思わずほっと息を吐く。しかしケイロンの表情は険しい。


「生きている人間の姿に成りすますのは簡単じゃない。禁忌中の禁忌だ」


 しかし、すでに成功してしまっている。

 使い方によっては、簡単に国ひとつ滅びるだろう。


「奴が今何を使役しているのかまでは特定できていない。人喰いと同じような類の化け物か、あるいは神の類か……」

「夢を見せる、ポベトールとかいう神がいましたが」

「あいつはとっくに監獄にぶちこまれてる。当分出てこれやしない」


(……本当、何も知らないんだな)

 冷えた手の甲を額に当て、目を閉じる。

 呼吸を整えると、浮かび上がるのは一つの可能性だ。


「……待ってください。だとしたら、フレゲトン王国の使節団が来ている今、もしオルフェン殿下に成りすまされたら」

「目撃者の多い往来で使節の首を掻き切れば、終わりだな」


 背筋がぞくりと冷えた。

 悠長にしている場合ではない。

(いや、だとして、オルフェンの偽物が出歩く可能性なんてお触れを出したところで……)

 本物の彼の権威が、悪戯(いたずら)に落ちるだけだ。


「では最初におっしゃっていた、アーテに魂ごと喰われるというのは」

「君には見えないだろうが、王太子の魂は今こんな状態だ」


 そう羊皮紙に描いてみせたのは、(かじ)られて芯だけになったりんごの絵だ。


「この状態だからこそ、王太子の生き写しが成功したんだろう」

「……身体の内側から、殺されるということですか?」

「そんなロマンチックな話じゃない。王太子本人が自分の意思で、アーテに身体を明け渡すんだ」


 欠けた部分を、ケイロンは乱雑に、真っ黒く塗りつぶす。


「毎夜枕元でこう囁いていることだろう。お前の代わりに国を守ってやろう、お前の願いを叶えてやろう──あとは王太子が手を離せば終わりだ」


『ちなみにこれは、アーテが教えてくれたんですけどね』


 あの時のオルフェンはどんな顔をしていただろうか。

 うまく、息ができない。


 私が選択を間違えた。

 けれどここで、己の過ちを悔いたところでもう遅い。


 カップの残りを無理やり呷り、肺の奥から全て絞り出す。


「……良い眼だ。精霊が君を気に入った理由がよく分かる」


 これ以上、感情に翻弄されるわけにはいかない。

 

「……その殿下に刃を向けた貴方が、今こうして私に懇切丁寧に説明してくださっている理由は何です」


 その目は僅かに細められる。


「見たところ貴方は人間じゃない。となると、どちらかといえば冥界の彼らと同じ立ち位置でしょう。それこそ、オルフェン殿下がアーテに飲み込まれて始末された方が、面倒もなく都合が良いのでは?」


 しばらく黙ったあと、ケイロンは木の上に深く座り直した。


「あの連中とは立場が違う。まず俺は精霊と神の混血。君ほど都合よくはないが、同じく不死の身だ」

「……不死?」


 『ペルセポネの冥戦』では人間だったはず。

(それに、あの世界ではケイロンは最期、冥王軍に討たれて死んだはず)

 しかしそれは描かれた側面でしかない。すでにこの世界は、私の知る物語から大きく逸れているのだから。


「俺はただ首が折れても死なないだけ。だからできれば怪我や病気はしたくない、ということで医術や薬学を嗜んでいる」


 ケイロンは私の手から空になったカップを引っこ抜く。

 確かに、頭の傷の痛みは和らいでいた。


「……ということはテルクシノエ家の次期当主というのは偽りの身分だと?」

「いや、事実だ。母が生まれて間もない俺を実子として育てるように現当主に託したと聞いている。事実、俺も成人するまで自分のことを知らなかった」

「だとして、ならどうしてあんなことを……」


『貴方には尊き王族の血が流れておられないではないですか』

 やはり目の前にいる冷静な男と、オルフェンに侮蔑の目を向けた男が同じだとは思えない。


「あれは少々見誤った」

「見誤った?」

「本当ならあの場で王太子を瀕死くらいにまで追い込む予定だったんだが、メレアグロス公爵にすんでのところで気づかれてしまったからな。全く、あれもあれで兵器みたいなもんだぞ」


 それは、あまりにも淡々としていて。


「な、」

「王太子を斬った剣にはヒュドラの毒を塗っておいたんだ。あの毒が身体に入れば、その後どんな癒術も弾かれる」 

「ヒュドラ……って、随分前に私が始末したはずですが」

「そうだ。君のおかげで二度と手に入らなくなった伝説級の劇物だな」

「でも同じ剣で傷を負ったエリマス様は……」

「糸績みの加護の力がいかに強力かということだ」


 呆然として、二の句が継げなかった。


「俺自身は王太子がどうなろうと興味はない。身分を装って嫁いできた妻のこともどうだっていい。ただ当時、あれ以上のチャンスはなかった」

「あれが、貴方にとっては最良のやり方だったと? 結果、テルクシノエは伯爵まで降格したのに」

「……あの家には甘い蜜を吸わせすぎた。向こう百年は当分表舞台には出てこれないだろう。ちょうどよかったんだ」


 端から、感覚は違うのだろう。

 当然私の感覚が正しいとも思っていないけれど。


「だけど貴方だってこうして追われる身になって……」

「人間に追われる程度どうということはない。むしろあまり社交界に顔を出さなかった甲斐あって、王都から遠ざかれば気づかれないことが多いんだ」


 そう言いながら壁の扉を開けると、そこにはびっしりと小さな棚が敷き詰められていた。

 小瓶に包み、まるでそれは巨大な薬箱のように。


「この国にはないが、染髪の薬もある。髪色が変わるという発想がない人間相手なら、普通に買い物だってできる」

「……理解は、しました」


 ここでいちいち突っ込んでいても(らち)が明かない。

 深く息を吐き、無理やり思考を切り替えた。

 

「というわけで、やっと本題だ」





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