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草むらに放り出されなかっただけマシだろうかと寝台から足を下ろそうとすると、重厚な扉を叩く音が届く。
声を裏返しながら返事をすると、名乗る前に顔を覗かせたのは──ラフな格好をしたエリマスだった。
「……もしかしてここ、」
「私の邸だな」
つまりメレアグロス公爵邸。
頭を過らなかったわけではない。
ただ少なくとも意識がある状態で玄関を通過した覚えはない。となると。
「私は一体どうやってここへ、そしてどうやってこの格好に」
「ランパスに直接この部屋まで運ばせた。着替えさせたのはうちの侍女。ちなみにあれから三時間ほど経った。もう夜だ」
必要な情報は全て羅列された。そして喉から呻き声が出る。
脱力して、そのままふかふかの寝台へと沈み込んだ。
私はかのメレアグロス公爵邸へ挨拶もせず異空間から飛び込み、図々しくも三時間爆睡した人間ということだ。
「……全方面においてあり得ない女では?」
「気にしなくていい。うちの使用人には君のことを婚約者だと説明してある」
「婚、」
どこから、何を突っ込めばいい。
「そもそも以前大司祭の治療の際にここには来たことがあるだろう」
「あの時はあくまで殿下の護衛という形で……じゃなくて、いえ、ええ、はい、一旦全て受け入れます……」
それにしてもとんでもない部屋だ。
高級感はありつつも、しかし調度品から明らかに女性のための部屋であることが伺える。家具も寝台の装飾も、もし無限にお金があるならこうしたいという乙女の夢が詰まったような一品ばかり。
「あの、ここは客室ですか? もしかしてどなたかご親族の……」
「いや、君の部屋になる」
「はい?」
「私の部屋は隣だ」
思考がフリーズする。
エリマスはこちらの硬直を気にするでもなく問答無用で部屋に入ってきたかと思えば、寝台の端に腰かけた。
「一体何をおっしゃって……?」
「元は母上が婚前に使っていた部屋だが二か月ほど前に改装させた。ああ、家具は全て新品だが気に入らないなら好きに買い直せばいい」
「え?」
え?
「己の驕りである可能性を信じて僭越ながらお尋ねします。私に宛がうために、このお部屋を誂えたと?」
「そうだ」
「二か月前って、私、失踪真っ只中でしたよね?」
「君の居場所は三か月前には把握していた。この部屋然り、諸々の段取りで遅くなっただけで」
「……」
居場所を把握して一か月後にこの部屋に改装指示をかける思考回路が分からない。
できれば今から小一時間ほど頭を抱えたい。
「普通に考えて私が絶対に戻ってこない可能性とか」
「考えなかったな」
「そうですか……」
間髪入れずそう言われて、目を閉じる。
私はずっと、手の平にいたのか。
「じゃなくて!」
勢いよく上体を起こし、エリマスに向き直る。
そうじゃない。
豪華な寝台の上でゆったりしている場合じゃない。
「ネメアの獅子……の、皮は手に入れられずで……何らかの神の力が……いやでも結局エリマス様の今のステータスから考えると……」
ぐるぐると目が回る。
やはりエリマスの今の状態は『ペルセポネの冥戦』のオルフェンに匹敵する、あるいは基礎の戦闘力からして彼を圧倒する。
いわば主人公になってしまうとチートすぎて話が面白くなくなってしまうタイプのキャラクターが、主人公の座を奪っているわけだ。
しかも上乗せで、私の加護の力も加えて。
(ここまでの能力ともなるといっそ現王家の脅威に、)
と、気づいた時には目の前にエリマスの顔があり、その向こうに芸術的な天蓋の端が見えた。
「もういいか?」
「何がですか?」
かまととぶったのが気づかれたか。
エリマスは鼻白むと、乱暴に私の前髪をかき上げる。
「約束通りここまで待った」
「し、獅子を始末したら、王城に戻るとは確かにお約束しましたが」
「……なるほど」
手の平に手の平を押し付けられ、自由を奪われる。
押し返そうとしても無駄だと分かっているのに、思わず抵抗しようとしてしまう。
分かっている。
相手はさっき怪物の脳天に槍を突き刺してなお、涼しい顔をしていた人間だ。
「婚前の乙女に手を出そうなどメレアグロス公爵家のご当主ともあろう方が随分無粋でいらっしゃる」
「君は二十一に、私は二十八になる。何か問題が?」
「儀礼やら通例やら気にすべきものは方々にあるかと存じますが……ッ」
首筋に唇が這う。
悲鳴を上げかけて、必死で身を捩り逃げようとするけれど、当然敵うはずもなく。
「ではせめて使用人の方々にご挨拶だけでも! せめて!」
片手が解放されたかと思えば、するりとシュミーズの裾から骨ばった指先が滑りこむ。
終わりだ。
天に祈ったのも束の間。
「──エリマス様! 王家の伝令鷹より、緊急事態との一報が!」
強く叩かれた扉の方を、エリマスが睨む。
「…………」
「緊急事態ですよ」
「……はぁ……」
まるでコントのようなタイミング。
鉛でも背負っているような緩慢な動きで寝台から降りると、エリマスは扉を小さく開け、報せを持ってきた誰かと小声で話し始めた。
私は跳ねるように飛び起きて、勝手ながら洋服棚を物色させていただき、比較的地味な一着に目をつけていそいそと腕を通す。
鏡台の前で慌てて髪を整えながら、胸の鼓動を落ち着かせる。さっきまで肌に触れていた温度のあとが生々しく残っている。
それを振り払うように深呼吸をして、ようやく顔を上げたところで──
戻ってきたエリマスの目は死んでいた。
扉の向こうから漏れる廊下の灯りが彼の影を長く引き伸ばし、哀愁を加速させている。
その姿が妙に気まずくて、私は思わず視線を逸らした。
「あの、一体何が」
「ケイロン・テルクシノエが神罰塔から消えたそうだ」
「え」
ケイロンは終身刑となり、聖殿管轄の神罰塔に幽閉されているはず。 神罰と名の付く通り、その塔は王城内の牢よりも厳重で、脱獄などとてもできない。もちろん外部からの手助けも到底及ばない。
更に今回は特別に、大司祭がケイロンの室にだけ厳重な結界を敷いていた。
「消えた……?」
「死んだ、の間違いかと思ったが、跡形もなくだと」
私の恰好を見るや肩を竦め「この際君も来た方が良い」と背を向ける。
「し、しかしケイロンがいなくなったこのタイミングで、入れ替わるように私が現れるのは何らか関与を疑われそうなというか……」
「君がこの数日以内に王城に戻ることは元々話を通してある」
ここまで来ればきっとそうなのだろう。そんな気はしていた。
溜息交じりのエリマスと共に部屋を出て、ひたすらに長い廊下を進む。すれ違う使用人、侍女たちにへこへこ頭を下げながら私はどんどん小さくなっていく。
「私は誘拐されたことになっていたのでは」
「それを私が見つけて介抱して戻ってこられるようにしたのが今日だ。ほとんど同じようなものだろう」
「……ニュアンスは、近いですが」
しかしケイロンがいなくなった、というのはあまりに不穏な展開だ。
「ケイロン・テルクシノエはいついなくなったと?」
「正確な時間は不明だそうだ」
「大司祭の結界が何らか破られたなら普通お気づきになられそうですが……」
「いや。結界は残ったままらしい」
「え?」
さすがにランパスでは移動しないらしい。
エリマスと私は公爵邸前に準備よく横付けされた馬車に乗り込んだ。
「……結界には触れずに中身だけ消えたということですか?」
結界というもの自体、『ペルセポネの冥戦』にも出てこなかった。
私にとって初耳の技だけれど、力が弱まっていると申告していた大司祭のそれですら、 ティシポネクラスでも突破できないものだと聞いていた。
ラダマンティスは冥府の裁判官。
結界の本来の用途は裁判を妨害されないためのものであり、すり抜けられるものではない。
だとすれば。
「となるとあの男も異形の類かもしれないな」
「……しかし、結界をすり抜けられるのであれば何故もっと早く脱出しなかったのでしょう」
「証拠なり何なり残っていればいいが。まあ、ないだろうな」
何かきっかけがあったのか、それとも数か月にわたる幽閉生活に突如嫌気が差したのか。
(それこそまるで、私が戻ってくるのを見越したような……)
「そういえば君、今日にいたるまで全く殿下の心配をしていないな」
「えっ」
思わず情けない声が漏れた。
「別にいい。どうせ王城の情報は筒抜けだったんだろう」
「つ、筒抜けというほどでは……」
そう、筒抜けというほどではない。
ただオルフェンの予後については気にならないわけがなく、定期的にティシポネから聞き出していただけだ。
彼女からの情報の大半はエリマスについてだったけれど。
「……知っての通り、あれから結局殿下に癒術は効かないままだ」
ケイロンに負わされた以上に大きな怪我を負うことは今のところなく、しかし一度高熱を出し一週間ほど床に臥せっていたことは私も知っている。
最悪ランパスとともに王城に忍び込もうかと悩んだけれど、やはり癒術師総出でかかっても手も足も出なかったと聞いて私もただ祈ることしかできなかった。
「その最中、殿下に剣を向けたあの男が消えたとなれば只事じゃないな」
「……の割に、随分落ち着いてらっしゃいますね」
エリマスは窓枠に肘をつき、穏やかな視線を向ける。
「不意打ちでもない限り、殿下も自分の身くらい自分で守る」
この二人の間にある、互いへの羨望と信頼が入り混じったような関係は複雑だけれど、私も少し羨ましくなることがある。
「というかこの半年でかなり殿下の訓練に時間は割いたからな」
「へえ。それは存じ上げませんでした」
「君の記憶より一回りほど腕は太くなったかもしれない」
「さすがに言い過ぎでは……」
◆ ◆ ◆
なるほど、これが根回しというやつか──私は感心していた。
エリマスが話を通していたとはいえ、半年も誘拐されていた聖冠の神子の帰還ともなれば王城はもっと慌ただしくなるのでは、と危惧していたものの。
とにかく信じられないほどスムーズに受け入れられた。
骨折して入院した後の休職明け程度の温度感と言えば正しいか。
「お聞きしましたよ。冥界の緊急事態に動員され、過労の末に体調を崩されていたと……」
それがあまりに急遽だったために、あたかも誘拐されたように勘違いされただけ──という筋書きにすり替えられていた。
ここまでくると天晴だ。
侍女の心底気遣うような表情を前に、私は何も言わずしおらしく微笑み返すことしかできなかった。
ともかく、今は私の帰還よりも大罪人の失踪という未曽有の事件が起きている。
私は形式的かつ手早く国王への挨拶を済ませ、そのまま大司祭を含む国家中枢の重要人物たちが揃う会議の中に放り込まれていた。
(……確かにちょっと顔つきも変わったような)
遠くに見えるオルフェンの纏う雰囲気は、どこか精悍なものになっている気がする。
と、呑気に思考を飛ばしていたのも束の間。
耳をつんざくのは怒号だった。
「ですから我々はあの者を生かしておくなど反対だったのです! 次期当主夫人の身分詐称に気付かず、挙げ句は殿下への刃傷──これでなお情状の余地があるなど!」
そう喚いたのは評議会の筆頭議員であり、王妃の実兄にあたるステントール侯爵だ。つまり彼もまたオルフェンの伯父ということになる。
(……確か以前のオルフェンの話だと、王妃殿下は元々子爵家だったはず)
外戚として昇爵したのだろう。衣装に纏った煌びやかな宝石が、灯りに反射してぎらぎらと視界に入る。
「しかしケイロン・テルクシノエを"異形の関与あり"としたことは結果的に正しかったということになりますな」
「神罰塔から消えるなど聞いたことがない」
「そもそもあの者を捕えたこと自体、我々が何らか幻を見ていた可能性すらある」
ステントール侯爵の怒号を皮切りに、会議室にはまとまりのないざわめきが広がる。エリマスは分かりやすく顔をしかめた。
確かエリマスは、あたかも宰相のように振る舞う彼を以前から嫌っていた。
何度も公爵位への陞爵を望んでは退けられ、その度にメレアグロス公爵家を仇視しているらしい。
「……王の御前ですぞ。たかが罪人一名逃げた程度で騒々しい」
久しぶりに見る騎士団長、ダリオ・ケブレンの声が低く響く。武の才では敵わない貴族たちは途端に口を噤み、顔を見合わせる。
歪な緊張感の中、重々しく口を開いたのは国王だった。
「此度の騒動、諸卿には心労をかけた。事態の収束には全力を尽くすが……異形の関与が疑われる以上、各々も警戒を怠らぬよう」
そう言いながら、その視線は私の隣に着席した大司祭に向けられる。
「改めて大司祭、そなたの見解を聞こう」
頷いた大司祭はゆっくりと腰を上げる。
「神罰塔に入る前からすでにすり替わっていた可能性があるとか」
「ええ、陛下。まさに先ほどテューロ外務卿がおっしゃった通り、我々は何らかケイロン・テルクシノエの幻を見ていただけで、本物は護送中、あるいはそれ以前に逃げだしていた可能性が高いかと」
淡々とした言葉に、わざとらしい咳払いが飛んだ。
「大司祭ともあろう方がそれを見抜けなかったのです?」
「先方も愚かではありません。見抜けぬように最善を尽くすでしょう」
またしてもステントール侯爵だ。
冷ややかな空気に、私も思わず背筋を丸める。
「しかし、このまま我々を出し抜くこともできたはず。敢えて神罰塔から姿を消し、騒ぎを大きくした理由は何でしょう」
騎士団長の言葉に、大司祭は顎に手を当てながら目を細めた。
「我々を騙すのに一役買っていた神や異形が力を失ったか、何らかの理由で退場するはめになったのでしょう」
その視線がわずかにエリマスの方に向けられていたことに気付いているのは、私だけだろう。
「となるとケイロン・テルクシノエ自体はただの人間という説が濃厚か」
「すでに国外に逃亡したやも」
「しかし大司祭をも欺く人外があの者に手を貸すとは、一体何の利があって……」
私もそこが引っ掛かっていた。
追われる身となったケイロンの逃亡を手伝う何かがいたとして、その理由は何か。
「匿う者がいれば厳正に処罰いたしましょう。しかし国外に逃亡してまた何か問題を起こされれば、国家間の問題にもなりかねません。早急に捜索を進めましょう」
法務卿の言葉に方々が頷き、場は閉じられた。
「──これはこれは、ノーナ・アルカヌム伯爵令嬢。長旅明け早々、早速ご苦労をかけることになりましたな」
さっさと退場しようとしていた私の足を止めたのは、先ほどのステントール侯爵だった。
基本的に言葉を交わすことはほとんどない。ただ明らかに好意的ではないことはその声色と表情から明白だ。
「とんでもございません、閣下。聖冠の神子でありながら長期の不在、ご迷惑をおかけしました」
形式的に頭を下げる。
視界の端にはこちらのやり取りに気付いているエリマスが見えたけれど、向こうは向こうで騎士団長に捕まっている。
「てっきりメレアグロス公爵閣下とのご婚約が破談になって傷心されたのかと関係者の間では専らの噂でしたよ」
「……そのような些事で殿下の護衛を放棄するなど。恐れながらエリマス様とは仲良くさせていただいております」
笑ってみせるけれど、実態をおよそ言い当てられて思わず冷や汗をかく。
「しかし貴女の癒術の効能は化け物じみていると聞き及んでおりますが……殿下の痛ましい傷には手も足も及ばなかったと」
半月に歪む目の奥は笑っていない。
「ええ。当時は己の無力さに思わず膝をつきました」
「この数か月さぞ鍛錬を積まれたことでしょう。殿下の御身にまた何かあっては遅い。顔だけの婚約者殿に熱を上げるのはほどほどにして、聖冠の神子の名に相応しい成果をお願いしますよ」
危うく、横っ面をストレートに殴るところだった。
「……もちろんです。閣下ももしお怪我をされましたら、お気軽にお申し付けください」
侯爵はわずかに口角を吊り上げ、私を値踏みするような視線を残して去っていった。
しばらく味わうことがなかった鉛の味だ。
──城に戻ってきたのだと、嫌でも思い知らされる。




