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一か月に三度までしか使えない、その制限がかかるほどに特殊かつ強力な私の能力にはいくつか制約がある。
両手を地面についていなければならないこと。
神々の類や彼らから力を与えられた異形や人間には使えないこと。
そして行使する際には対象となる生物は私の視界に入り、かつ私がその姿形を認知できていなければならないということ。
原則これらの条件がクリアできていれば、相手がどんなに大物だろうが関係なく、向こうから攻撃を受ける前に抹殺できてしまう。
一方、小物の雑魚相手ならいっぺんに使えるだろうかと試したところ、それは失敗した。
つまり三度までというよりは三個体までというのが正しい。
おかげで私はろくに癒術が使えないどころか、その翌月は丸々寝込むはめになった。
起動してから実行完了までにかかるタイムラグは最短で三秒。
最終的に私からの明確な意思決定が下るまで、鋏は閉じない。
対象は動いていても的はズレない。
(とはいえ……私は結局、戦闘向きではないんだろうな)
冥界の関係者が私を特別扱いするのは、やはり万物を際限なく癒す力の方にあるのだろう。
相手が神だろうが異形だろうが、冥王だろうが関係なく。
「──やはり、ネメアの獅子はエリマス様でも斬れない可能性の方が高いかもしれませんね」
この半年間重ねてきた私の研究結果を読みながら、エリマスは呆れたような、なんとも言えない表情で私を見上げた。
あれからエリマスは想定よりも随分早く王城から舞い戻ってきた。
取れた休みは二週間。
緊急事態が起きれば伝令鷹が呼びに来るという特別対応つきだ。
本来、彼ほどの立場でこれだけ長い休みを取るには、王城内の承認だけで二、三日はかかるはず。
ところが今回は、行って帰ってくるまでで一日半だった。
一体どんな裏技を使ったのか、知る由もない。
(しかし、さすがは規格外の戦闘力……)
エリマスがここに住み込んで三日目の今日、ランパスに提案された近場かつ危険度が低い巨大蟹の化け物を討伐してもらったけれど、まるでマグロの解体ショーでも見ているような気分だった。
心配しなくても、冥王クラスにでも逆らわない限り命の危険はないのかもしれない。
当然、傷の一つも負わず、助けに入る隙もない。
が、ネメアの獅子の場合は話が別だ。
「例の皮があるからか?」
「腕の立つ神々も過去討伐に挑んだことがあるようですが、やはり手に負えなかったようです」
エリマスは得物を選ばない。
剣だろうが槍だろうが弓だろうが扱え、そして彼が使えばどれもステュクスの力が適応されることはこの三日で確認が取れた。
ただ、ネメアの獅子は不死の皮を持つ異形。
素手で殴って圧す案についてはさすがの私も却下した。さすがに命の危険がありすぎる。
「とはいえエリマス様の身体能力の高さについては改めて感服しました。……大抵の化け物は貴方の敵ではないでしょうね」
あと二日で鋏の制約はリセットされる。ネメアの獅子を狙うならそこからだ。
しかし──もし今のエリマスの状態が『ペルセポネの冥戦』のオルフェンと同じなら、彼には冥王すら倒せるだけの力があるということになる。
だとすると違和感がある。
冥王にとって盟友だというステュクスは作中、オルフェンが冥王を討つのに力を貸したことになる。
(それともあの世界での冥王は、本当に悪者だったとか?)
しかしそうは思えない。
今回エリマスの滞在で大きく役に立っているのは、その冥王の最強アイテムの一つ、"隠れ兜"。
あろうことかこの二週間限定で貸与されることになったものの、私もエリマスもその恐ろしさに半日は触れられなかった。
見た目は高級帽子だが、被ればその姿が完全に消えてしまう。
エリマスが討伐の際にはこれを被らせている。万一他人に見られても、化け物が幽霊に倒されているように映るだろう。
なお、持ってきたランパスも【二週間くらいならいいよとのことでしたが……】とドン引いていた。もはや冥王の立ち位置は親戚に近い。
零れる欠伸を抑えながら、私は寝室に入ってから──四秒ほど思考停止した。
「…………エリマス様?」
ギギ、と振り返ると、椅子に座るエリマスは穏やかに微笑んでいた。
「どうした」
「一体、いつ、この大きさのものをここに運び込んだんです!?」
「いや、君の友人がぜひ協力させてほしいと」
「ランパス!?!?」
いつもすぐに現れるのに、出てこない。こういう時だけ子供か、と頭を抱えながら、現実に向き直る。
寝室にぎりぎり収まる巨大な寝台は、この家の雰囲気を完全に無視した贅沢仕様。いわばダブルベッドだ。貴族の寝台にしては控えめだろうけれど、しかし二週間ごときの滞在のために用意する金額のものではないことは間違いない。
「あんな狭い寝台で寝ていたら私も君も心身に害を及ぼすだろう」
「ですから寝具をもう一組買うので私は床で寝ますと……」
言いながら、しかし身体は誤魔化せず、吸い込まれるように寝台へと倒れ込む。
まるで雲のよう。忘れようとしていた王城での生活が頭を過り──慌てて頭を振った。
「こっちは律儀に手を出さずにいるんだからこの程度は大目に見ろ」
「ええ、私の意思を尊重していただき恐悦至極に存じます」
(……身体まで許したら本当に戻れなくなる……)
どこに戻るのか、私にも分かっていないけれど。
◆ ◆ ◆
【なかなか姿を現しませんねぇ……】
滞在十日目。
ネメアの獅子が出現するという谷にエリマスと通うこと四日。その痕跡すら辿れず、収穫は何もないまま。
私も万一に備えて力を温存するため、化け物退治は休止している。
「こっちが何者か気づいてて隠れてるとか?」
【そこまでの知能はないと思うのですが】
神出鬼没で近隣の村を襲い、家畜はもちろん村人も数名行方不明。
今はこの谷の周辺の領地には人が寄り付かなくなっている。
「エリマス様、そちらはどうでしたか」
「獅子どころか生き物の気配すらないな。もう少し下の方まで降りるか」
エリマスが今回の討伐に選んだのはとにかく穂の長い槍だ。わざわざ特注で作らせたというのだから、畏れるに足る。
しかしあと四日で彼は王城に戻らなければならない。さすがにこれ以上引き留めるわけにはいかない。
そして私がネメアの獅子を倒すまで王城には帰らないと宣言したせいか、今や私よりもエリマスの方がやる気に満ちている。
【わたしが降りて見てきましょうか?】
「いや、貴方が食べられたら困るからそれはいい」
【ノーナ様……】
火の玉が感激している。
ランパスがいないと単純に移動手段が激減して困るからなのだけれど、確かに今やかけがえのない相棒ではある。
「またたびとかあったらおびき寄せられるんでしょうか」
「マタタビ? 食べ物か?」
「そっか、またたびないんですね……」
猫にまたたび、と言っても通用しないらしい。
なんて緊張感なく息を吐いた、その刹那。
頭上から、何かが落ちてきた。
「雨…………」
視線を上げ、顔を上げ、そして──時間が止まる。
頭上には、涎を垂らす獅子の顎下が。
喉から声が出るよりも先に、私とエリマスの身体を纏ったのは迸るような炎だった。
そして獅子の鋭い爪がえぐり取ったのは、私とエリマスがさっきまで経っていた場所。
「ッ気配なんてあったか!?」
「ないですないです、ランパスありがとう本当に……!」
【どうします、明らかに追ってきていますが!?】
まさに別格の大物だ、すぐ後ろから追いかけてくる。
すでに相手に見つかっている以上、私も悠長に鋏を起動する時間なんてない。
ここは一時撤退か。
「……三秒あれば君が始末できるな?」
「えっ」
す、とエリマスの目が細くなる。
それはまるで、捕食する側の瞳の色で。
「いや、駄目ですよ、相手あれですよ!? 蟹とか猪とかの比じゃないでしょう!?」
「サイズで言えば猪の方が上だろう」
「サイズの話ではなく……!」
「ランパス。あれの上に移動しろ。私を下ろしたら全速力で彼女を極限まで遠ざけるように」
「ちょ、」
応えるようにランパスが急上昇し──止める間もなく、エリマスが飛び降りた。
なんの躊躇もなく。
「な……ッ」
【ノーナ様。心配なさらなくてもあの方なら大丈夫です】
エリマスに対峙した獅子は足を止め、様子を窺うように距離を取っている。
私はと言えばランパスに連れられ、二つの影をぎりぎり視認できる崖に下ろされた。
(今すぐ始末しないと、)
慌てて両手に手をついて、彼らの方向を見やる。
そしていつものように鋏を──
「ッランパス! 駄目だ、……使えない!」
開きかけた鋏が、行使直前、獅子の頭上で脆く霧散した。
それは、つまり。
「今すぐエリマス様を迎えに行って! 早く!!」
一瞬遅れて、しかし直ちに火の玉が走る。
エリマスはまだ獅子からの攻撃を受けていない。今ならまだ間に合う。
私の鋏が無効化された。
つまりあの獅子はただの化け物ではない。
何らか、神に力を与えられた異形だ。
「エリマス様……!」
多少の傷ならなんとかなる。
ネメアの獅子相手に、こうなる可能性が予見できなかったわけじゃない。
欲をかいたのは、計算を違えたのは私だ。
獅子がエリマスに飛び掛かる。
それはまるで肉を前にした、飢えた獣がごとく。
その映像はコマ送りのように、スローモーションのように、目に焼きついた。
──間に合わない。
「……ッ」
逃げるように反射的に目を逸らしてしまい、しかし慌てて瞼を持ち上げると──
倒れていたのは、獅子の方だった。
「え……?」
獅子の顎下から脳天に向けて、串刺しのように槍が刺さっている。
呆気に取られて、私は思わず腰を抜かした。
エリマスはこちらを振り返った。この距離では表情は見えない。
ゆら、と元気そうに手を振る姿を、私は動けないまましばらく眺めていた。
【──あの瞬間をノーナ様が見られていなかったことが本当に悔やまれます……! まさに神業でございました!】
あれから。
ランパスに連れられ獅子が息絶えていることを確認した私は、その傷を何度も確認した。
試しに私が短剣を突き立ててみても、その刃先は全て跳ね返される。やはりそれは紛うことなき鉄壁の皮。
なのにエリマスの槍は無残にも突き刺さり、そしてそれは引き抜こうにもびくりとも動かなかった。
「そういえば冥王の隠れ兜をかぶり忘れていたな」
「少なくとも周辺に人間はいなかったので今回は問題ないかと……」
ただ獅子の皮を剥ぐことは叶わず、興奮冷めやらぬランパスがくるくると舞う下で私は混乱していた。
「本当にあの皮に不死ほどの効能があったのか?」
エリマスは怪訝そうに眉をしかめた。
そう思うのも仕方がない。ネメアの獅子はその皮を貫かれて死んだのだから。
しばらく検分したところで、私が普段鋏を行使した時と同じように、獅子の身体は砂となり消えていった。
そして、その後には何も残らず。
「……あのネメアの獅子には、何らか神の力が付与されていました」
「ああ。君の鋏が一瞬浮かんで消えたのは見えた。そういうことか」
「……」
まるで普通の狩りでも終えたかのような落ち着きようだ。
「どうした?」
「……いえ、」
武者震いに近いだろうか。
恐怖というより、これは最早畏怖に近い。
私が必死に守らねばと思っていたこの人は、とっくに人間離れしてしまっている。
(……これは本当に、)
冥王ですら討ちかねない。
「……で、約束通り君の予定とやらは果たされたわけだが」
「……あ」
「あ?」
思わず間抜けな声が腹の底から漏れ出た。
「……しかし今更戻ったところで、私など異形に誘拐された間抜けな聖冠の神子として……」
「ランパス」
【承知しました】
たちまち身体を火の玉が纏う。「ちょっと待って、」と私が抗うよりも早く、足が宙に浮いた。
視界が眩く白くなり──
はっと気がつくと、そこには見慣れない、豪奢な部屋の天井が広がっていた。
(……ここは……?)
身を起こし、あたりを見回す。
光を全て遮りそうな深い紅色のカーテン、重厚感のある大理石の床、私を包んでいる天蓋つきの巨大な寝台。
王城の客室だろうか。
そして自分の身を確認する。
ここ数か月どころか人生で縁のなかった、繊細なレースがあしらわれたシュミーズを纏っている。
当然これにも全く覚えがない。
「ランパス?」
返事はない。
出てこないのか、いないのかは定かではない。ただ、私の声は誰もいない部屋にぽつんと響いた。




