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「疲れた…………」
あれからなんとか寝台の上での攻防戦を逃げ切り、無事己の貞操を守り抜いた私は、ぐったりと壁に凭れかかっている。
今日だけは何が何でも帰らないというエリマスは今しがた近隣の町へ出かけて行った。この家には何もなさすぎる、とぐちぐち文句を言いながら。
「ランパス」
【……はい】
「あの人にこの場所を教えたの、メガイラ?」
【……】
ランパスの言い方からして、おそらくメガイラは今日エリマスが来ることを知っていたらしい。
ふよふよと浮かび上がる火の玉を思わず睨むと、僅かに火が萎んだ。
【じ、実はですね──】
◆ ◆ ◆
「メガイラに大怪我負わせたの、エリマス様だったんですね」
二時間程で大量の荷物と共に戻ってきたかと思えば、今は破壊した扉を黙々と修理しているエリマスの背中に声をかける。
なんて非現実的な光景だろうか。公爵閣下の日曜大工。
「……聞いたのか」
「先ほどランパスから。あ、いや、別に怒ってはいないです」
──メガイラが大怪我をしてこの家に転がり込んできたあの日。
彼女が仕事のために訪れた現場に、偶然エリマスが居合わせたらしい。
偶然というのも、王城側がアーテの件以降、国内の犯罪や貴族の汚職をこれまで以上に厳しく取り締まり始めたからだ。
その日査問にかける予定だった貴族の邸が、たまたまメガイラのターゲットだった。
元々エリマスとメガイラには面識がない。
一方メガイラは一目でエリマスだと気付いたらしく、慌てて立ち去ろうとした。 が、その瞬間、敵の異形だと判断したエリマスの槍が飛んできて、大怪我を負ったと。
本来、メガイラやティシポネは普通の人間からの攻撃で怪我をするなんてことはあり得ない。同格の仲間うちで揉めたなら別だけれど。
今回は相手を選ばないステュクスの力が付与されてしまっているせいで、エリマスの人間離れした一撃がそのまま通ってしまったらしい。
「向こうが先に名乗ればああはならなかった」
「それは、そうなんですが」
だとして普通、初見の女性目がけて槍は投げないだろう。
私の治療で無事に復活したメガイラは後日改めてエリマスの前に現れ、ティシポネたちと同格であること、私とは元々面識があること、敵ではないので二度と牙を向けないでほしいと律儀に説明に向かったようなのだけれど。
そんな丁寧なメガイラに対し、エリマスはその場にいたランパスが震えあがるほど彼女を脅し、強引に私の居場所を聞き出し──そして今日のあの状況が出来上がった、というわけだ。
(……冥界の住人をびびらせるほどの交渉って一体なんなんだ……)
聞かないでおこう。
そしてメガイラには後日何か温かいものを食べさせてあげよう。
「それで、明日の朝には帰られるんですよね。こんなことで仕事に穴を空けられて……王城は大丈夫ですか」
エリマスの隣にしゃがみこんだ瞬間、避ける暇もなく、脈絡もなく唇を食まれた。
「……あの。なんなんですか、それ」
「言葉が通じない相手にやむなく分かりやすい表現をしているだけだが」
「……」
嫌味か。
「あと、さっきご覧になられた通りここの寝台は一人分しかありません。エリマス様がお使い下さいと言ってもどうせ固辞されるでしょう、かといって床で寝ろとは言えないので狭いですが我慢してください。いいですね」
ほとんど息継ぎせずにそう伝えると、エリマスは真顔を返してくる。
「……思ったんだが」
「? なんですか」
「もし同衾している時に口付けした場合、無限に回復す──」
反射的に、綺麗な顔面へ手の平を押し付けてしまった。
「閣下は床で寝てください」
(……しかし、さすがは公爵の財力……)
行商かというほど買いこまれた食材、日用品、衣類。
衣食住は最低限で良いと思っていたのに、数か月ぶりに見る果物に思わず喉が鳴った。
もはやここに永住させる気なのではと思うほどだ。
夕食はどこかへ食べに行こうという誘いは、もちろん断った。
エリマスほど目立つ人間がここに出入りしていると周囲に気付かれた時が面倒だ。
庶民の手料理でも食べて貴族生活恋しさに早々に帰ってくれればと色気のない食事を振舞ったところ、今度は謎の琴線に触れてしまったらしい。
いたく感動され、また調子が狂った。
そう、調子が狂う。
エリマスが傍にいると、自分が自分でなくなるような。
妙に景色が、見えるものの色がビビッドに映り、目がくらむような。
「……無理せずどこか宿を取られた方が良いのでは」
半年も使ってすっかり相棒になったこの寝台も、 手足の長いエリマスが横たわると途端に玩具に見える。
誂えてくれた冥界関係者各位には申し訳ないけれど。
「寝台は即日持ち帰れないと言われた」
「え? 買おうとしてたんですか?」
「二人で寝ると壊れないか?」
そしてふと我に返った。
同じ衾に入る。すなわち同衾。
「…………やっぱり床で寝、」
踵を返そうとして、しかしまたデジャブ。
まんまとなぎ倒されて、背後から体温に包まれる。
王城にいた頃もここまで密着されたことはなかった。ぎくりとして、思わず身体に力が入った。
「固まりすぎだ。……別に何もしない」
本来ならときめきでもする局面だろうか。首筋をエリマスの柔らかい髪が擽る。
しかしこちらは猫に首根っこを掴まれた鼠のような心地で、うまく息ができない。
「もう二十歳になったんだったか」
「……そ、うですが」
「次の君の誕生日は祝わせてほしい」
肩口で静かに囁かれ、けれど返事はしなかった。
(それよりも──)
"ネメアの獅子"。
それは『ペルセポネの冥戦』でも結局、最後まで姿を現さなかった。
おそらく打ち切りにならなければ、いずれ戦闘シーンがあったのだろう。 主人公たちが辿り着く前に物語が終わったせいで、 最強の怪物として名前だけが残った。
最強たる所以はその皮。鉄壁、不死身、どんな斬撃も通さない。
私のように死んでも生き返るタイプではなく、そもそも攻撃が通らないタイプだ。
しかし作中で描かれなかったということは、私にも攻略方法が分からないということでもある。
(実際この世界で目撃情報も被害もあるということは、確かにいるんだろうけれど……)
倒しに行くと言った時、あのティシポネがげんなりした顔をした。あの界隈でも相当厄介な怪物なのだろう。
討伐の目的は一つ。
できればその皮を手に入れたい、それだけだ。
ただ、私の鋏で一刀両断した場合、アイテムとしてゲットできるかどうかが分からない。ヒュドラしかり、どの化け物も跡形もなく塵になってきた。
「……こら」
「…………」
「寝たふりするな」
「すみません。少し考え事を」
「この状況でか。肝の据わり方がおかしいだろ」
それにしてもメガイラがエリマスに負わされた時の怪我は酷かった。彼女自身、相当焦っていたのを今も鮮明に覚えている。
(ラミアの時もそれこそ一撃だったし、ステュクスが依り代になっているだけなのにまるで……)
「…………あれ?」
「なんだ」
「エリマス様」
思わず上体を起こし、エリマスを振り返る。
「明朝、なるべく早急に王城に戻って頂けますか」
「は?」
「そしてできれば当面……そうですね。ひと月、いえ二週間で構いません。何かそれらしい理由をつけて王城での仕事をお休みできませんか」
エリマスは目を丸くし、怪訝そうに眉を顰めた。
「しかしそのご容姿は目立つので……せめて髪だけでも暗色にできれば助かるのですが確かこの国に染髪の技術はないし……ランパスにちょっと聞いてみるか……」
「急に何を、」
「恐れながらしばらくここで暮らし、いえ今度こそ近くの宿を取って頂いて良いのですが、私と共に化け物退治に同行頂きたく」
その綺麗な頬が、わずかに引きつっている。
「もちろん王城、オルフェン様の御身も心配ではありますが、何よりエリマス様の能力、いえステュクス神の影響の度合を正確に把握しておきたく」
「……待て。今君の脳内で起きていることを正しく説明してほしい」
どうしてこんな単純なことに気付かなかったのか。
『ペルセポネの冥戦』で、ティシポネたちや冥王にまでダメージを与えられる人間はオルフェンだけだった。
旅の途中、主人公一行は例えばヒュドラの毒や、化け物を倒したときに都合よく与えられるアイテムを駆使し、戦いの基礎能力が高いエリマスやレミジオも戦いに参じていく。
しかし今回、少なくとも私が観測する限りオルフェンは何か力に目覚めている様子も自覚もない。彼が戦っているところは見たことがないし、作中のように自ら向かっていく気配もない。
一方でステュクスが寄生している今のエリマスの能力は、まさに『ペルセポネの冥戦』のオルフェンそのもの。
(つまりあのオルフェンは何か特別な能力に目覚めたわけじゃなくて、何らかの理由でステュクスを宿していた……?)
──と、まさか漫画の話をするわけにもいかず、私は寝台の上に正座をし、ネメアの獅子に挑もうとしていること、その理由、そしてエリマスの能力の希望について朗々と語り──
「…………そんな化け物相手に単身で挑もうとしていたと?」
「え? ええ、いえですが話の本筋はそこではなくて。もしネメアの獅子を私ではなくエリマス様が倒した場合、その皮を……」
地を這うような深い溜息の後、エリマスは頭を抱えた。
「……今から帰る」
「え?」
すみやかに寝台を降りたエリマスは私をぎろりと見下ろした。
「よ、夜中ですよ?」
「朝には王城につく」
「ですがさすがに」
「さすがにはこっちの台詞だ。これ以上君を自由にさせたら私の心身が持たない。……いいか、私が帰ってくるまで絶対にこの家の扉は開けるな」
◆ ◆ ◆
最後の最後までエリマスは私の静止を効かず、まるで上司のように細かく小言と忠告を言いながら本当に出て行ってしまった。
修理された扉には厳重に鍵が二つ、そしていわゆる内側のチェーンロックまでオプションでつけられている。
何でもできるを通り越してもはや超人だ。
(それにしても……)
「ランパス、そもそもステュクス神が人間の身体を依り代にするって、過去にもよくあること?」
火の玉に表情はない。しかしランパスは少し考えるように黙り込み、灯りを揺らした。
【ステュクス様は霊液がほとんど欠けた状態故、今でこそ弱られておりますが、神々の中でも唯一の存在。その器になりうる人間というのはそうおりません】
私の足元を照らしながら、寝台へと導く。
【器があったとしても非常に気難しい……あまり人間をお好きではありませんから、ああやって宿られるお姿はわたしも初めてで】
「冥王の話からすれば、エリマス様に私の加護の力がかかっているからだとか」
【それだけでは選ばれないかと……わたしごときでは対話することもない方なので、わかりかねますが……】
それにしてもランパス、まるでよく教育された社会人のように丁寧な問答だ。ふと、頭が遠い記憶の中のオフィスに戻りかける。
「というか本来私には干渉してはいけないとかなんとか冥王がおっしゃった気がするけど、こんなに構ってて大丈夫? 特にあなた」
【わたしはむしろ冥王様とメガイラ様の命で常駐しておりますのでお気になさらず】
「常駐」
【ノーナ様は冥界の危機を救って下さりましたから。それに、ノーナ様は今までの糸績み様とは違って──あっ、いえ、失言でした】
『貴女の記憶を奪ったアーテは策士かもしれませんね。貴女に記憶があればきっと我々も苦戦しなかったでしょう』
『貴女に記憶がないからでしょうか。私もティシポネも、結構貴女のことは好きです』
メガイラの言葉が蘇る。
(……本来の、私の記憶か)
過去の糸績みと、そして私。
アーテがわざわざ私の記憶を奪った理由。
一方で『ペルセポネの冥戦』の記憶だけは鮮明で──
(でも、ケイロンのことは、顔を見るまで忘れていたことすら忘れていた……)
はた、と、足を止める。
私は本当に『ペルセポネの冥戦』を完璧に記憶しているのだろうか。
(他にも何か忘れてる?)
それこそケイロンのように、忘れていること自体に気付いていないだけなら。
だとして、どうして彼の記憶だけ綺麗に抜け落ちていたのか。
(アーテが奪った私の記憶と何か関係がある……?)
エリマスという嵐が去り、先ほどまでうるさかった窓はシンと鳴りを潜めていた。
この数か月、化け物退治で紛らわしていたはずの思考の渦が、ぐるぐると蜷局を撒き始める。
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