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「──いえ、王城に帰るつもりはないですよ」


 逃げも隠れもしないけれど、エリマスがどれだけ額に青筋を立てようが詰めてこようが、王城に帰るつもりは毛頭ない。


 どうやってこの場所を突き止めたかなんて、今はどうでもいいことだ。とにかく破壊された扉を応急処置で嵌め直し、暖炉に薪を放り込み、椅子を勧めると、彼は無言で腰を下ろした。どうやって来たのかと尋ねれば馬だと言う。公爵当主が単身で馬に乗ってここまで来るなどどうかしているけれど、それも今はさておき。


「……この期に及んで?」

「王城に帰る理由、いえ、メリットがありません」


 吹き込む隙間風が、壊れかけた扉をがたがたと揺らす。

 寒々しい空気の中で、私の言葉だけが妙に乾いて響いた。


 むしろ今の暮らしこそ、魔女と言われる者の模範解答ではないだろうか。


「意味が分からない」


 なお、ランパスは知らない間に消えていた。まるで逃げるように。きっとしばらく呼んでも出てこないつもりだろう。


「そもそも今の私、王城でどういう扱いになってます?」

「異形に誘拐されたことになっている」

「ですよね」


 そんなことだろうとは思っていた。大方想像通りだ。


「できれば死んだことにしておきたいのですが、そうすると万一の有事の際に困りますし、……せめて誘拐ではなく失踪だと助かるのですが」


 エリマスの視線が鋭くなる。けれど心は怯まない。

 暖炉の火が弾け、私たちの間の冷えた空気を照らしていた。


「念のため再度申し上げます。私は誰かのために身を引いたわけではありません。これ以上あそこに私が存在するのは正しくないので、本来のあるべき形に戻ったまでのこと」


 随分静かに聞いてくれている。どう罵倒しようか慎重に言葉を選んでいるのかもしれない。


「……あるべき形?」

「エリマス様。また勘違いされているかもしれませんが、これは私が己を肯定したが故の結論です」


 決して自分を貶めた結果ではない。


「私は人間側ではなく冥界側、人外一派にいた方が楽だと気付いたんです。人間のふりをするには能力も性格も向いてません」


 外では風が唸り、錆びた窓枠が軋む。

 

「ここで更にメンテ様という、エリマス様のお相手に相応しい女性がいることが分かったところで私はほっと胸を撫でおろし、満を持して、諸手を挙げて退場したわけです」

「相応しいかどうかは君が決めることじゃない」

「それを決めるのはエリマス様でもありませんよね」


 テルクシノエ公爵家で起きた事件、そしてケイロンの思想。あれらはこの世界においては決して異端ではない。

 私には侯爵令嬢メンテ・オルトシアを押しのけるほどの、貴族としての価値はない。

 どれほど癒術に秀でていようが、当主からの寵愛を得ていようが、化け物をいくら倒そうが、それは覆らない。


「となると私には王城に戻る理由がないわけです。どうしても私の力が必要となれば駆け付けるつもりですが」


 冷えた空気が、足元を這うように撫でていく。


「ここで暮らしてみて分かりました。普通に生きていれば窓から水をぶっかけてくる人もいませんし、突然信仰の対象を鞍替えするようなさもしい人もいません。血統がどう、爵位がどうと人間同士の格をつけ合うこともなければ、私が夜な夜な化け物退治に出かけて見咎める人もいない」


 抑揚はなるべくつけない。

 これらは全て、事実の羅列に過ぎないのだから。


「先日、自分から逃げたいなら今度は冥王にでも掛け合えとおっしゃられましたよね。ええ、ですからこうして逃げました。……私が本当に大切だと、幸せであってほしいとお思いなら、どうかお引き取り願います」


 怖くはない。

 そのはずなのに、エリマスの顔だけは見られなかった。

 目の前の机の、古びた木目を視線でなぞる。


 互いに正気であれば、世界が平和であれば、簡単に理解できる話だ。

 公爵家当主には公爵家当主としての人生の正解が、不死の魔女には不死の魔女としての正解がある。

 それを乱したのは冥王に神に異形、そして私という、別の世界からやってきたノイズ。


 諭したつもりだった。

 けれどエリマスは動かない。


(……やっぱり前回押し負けたのが良くなかった)

 

 ほんの僅かに、ラミアという約束を奪ってしまったことへの罪悪感があったせいだ。

 あの時メンテの存在をきちんと把握していれば、もっと早くこの決断ができていたのに。


「あの、」

「つまりなんだ。私が公爵家や身分を捨てて平民になれば良いという話か?」

「いいえ?」


 あの時ちゃんとしていれば、こんな狂気の張り合いをしなくて済んだだろうに。


「私の話聞いてました?」

「君の話を要約すれば、問題はその一点だけだろう。私もこの村に住めば解決する」

「いえ、あの、ですから何度も申し上げますが、それ以前に私とエリマス様の間には生き物としての、」

「結局、君が誰よりも階級主義なのは理解していた」


 それは、身に染みて自覚している。 


「人間であるかどうかよりむしろ貴族階級や血へのこだわりが異様に強い。君のような性質の人間に何を説得しても通用しないことはよく知っている」

「…………」

「ならまず私がその階級から降りないと君とはまともに会話ができない。違うか?」


 呆れたような声が耳に刺さる。


「……と、駄々をこねたところで無駄なんだろう。今強引に連れ帰っても、私がここに転がりこんでも、君はまたいなくなる」


 今の私たちは平行線だ。

 しかしいつか、エリマスにも分かる時が来る。

 彼の有限の命の中で、この判断が互いに正しかったことを。


 エリマスはそこでようやく腰を上げた。


 どうやってここまで辿り着いたのかは分からないが、楽ではなかったはず。

 エリマス・メレアグロスという人間が、私のために時間を割いてここまで追ってきた事実は、これから先の私を時折励ますだろう。

 ここは人として謝辞を、そして別れの挨拶を述べるべきで。

 何かあれば王城に駆け付けるつもりだし、その時には今日までのことは良い思い出に──



「……何してるんですか?」



 灯りが刃先に反射して、鈍く光った。

 エリマスの表情は怖いくらいに落ち着いていて、私だけがまるで何かおかしなものでも見ているかのように錯覚する。



「糸績みが加護をかけた相手が先に死んだ場合、自ずと対象は初期化される。それはさすがに知っているか」



 彼が掲げた剣の刃先は、彼自身の喉元に向いていた。


「おっしゃっている意味と、何をしようとしているのかが」

「君に今、私にかけた加護を解除しろと言ってもしないだろう。かといってこのまま離別すれば、君は私が死ぬまで縛られ続ける」


 それはまるで、私が聖冠の神子を騙るために聖殿で喉を切った姿を再演しているようで。


「……脅しのつもりですか」

「君は自分の死は畏れないだろうが、私の死には異様に怯えている」


 ゆるく上がった口角とは裏腹に、その目はひとつも笑っていなかった。


「返しようがないものを一方的に押し付けられて甘んじるのは私の道理に合わない。その力を利用してやるほど私は愚鈍にはなりきれない。ならこうするしかない」

「……」

「ここで私の死体の処理をしたくないなら今加護の力の解除をして、君も君に相応しい相手を見つければいい」


 合理の、極論だ。


「…………理解できません」

「気が合うな。私も君が理解できない」


 脅しではない。エリマスはきっと本気なんだろう。


「そんなに私が人間であることにこだわるなら、君の人ならざる者の力を私に押し付けるな」


 痛いほどの正論に怯む。

 何の反論も打ち返せない。


「いやです」


 絞り出したのは、子供じみた駄々だ。


「どうして理解できないんです? 私ずっと何の見返りも求めていないですよね、ただ貴方に健康に長生きしてほしかったから加護の力を付与して、エリマス様には何の障壁もなく結ばれるはずの相応しいお相手がいて、あとはもう文句なしのハッピーエンドが待ち受けているのに? 私が承認欲求丸出しで名乗り出たせいでこうなったんですか? 黙って隠れていれば享受してくれましたか? いやそもそも貴方のような方がどうして私に好意を向ける羽目になったんですか? 何のバグ? うっかり受け入れそうになってましたけどあり得ないですからね、もしかして貴方を依り代にしているステュクスの影響なんじゃ──」


 はっと気づいて顔を上げると、目の前の机に勢いよく剣が付きたてられた。

 それはまるで、勇者でしか抜けないエクスカリバーがごとく。


「…………」

「…………」


 一言でも間違えれば、私が殺されるかもしれない。


「…………だって、」


 息苦しい社会に生きていた私を救った紙面の青年は、ある一人の人間から作られた“都合の良い登場人物”だった。

 作られた台詞、作られた生き方、作られたルーツ、作られた退場。

 本気で恋をしていたわけではない。

 作られた事実ごと、私はエリマス・メレアグロスという存在を推していた。

 絵の中のエリマスは、ひっそりとラミアを慕い、けれどそれを口には出さず、しかしいざという時には主人公たちの元に真っ先に駆け付ける、美しい当て馬。

 一挙手一投足の格好良さに惹かれていた。


 むくんだ足を投げ出して、シャワーひとつ浴びるのにも億劫で、カップラーメンにお湯を入れたことすら忘れて会社のメールを返して、ふと人生を振り返れば何一つ残せるものなんてなくて。

 そんな不格好な私には絶対に手の届かない、二次元の向こう側。

 絵の中のエリマスは、髪の乱れ方ですら、血の滲み方ですら、コマの中で計算され尽くしていたから。


 生身の人間ひとり大切にできない私が、勝手に大事にしていても、誰にも否定されなかったから。

 だから都合がよかった。


 なのに。


「ただ、幸せに、生きててほしいだけなのに……」


 そこに、私はいなくて良いのに。


「どうして駄目なんですか。私が良いって言ってるんだから今更良いじゃないですか。加護の力があって何が困るんです? 人間なんてすぐ死んじゃうのに」


 見えないところで、ただエリマスが幸せになったことをどこかで知れたらそれだけで良いのに。


「……仮に今ここで解除せず、君にいつか本当に愛する人ができたとして」

「なにを、」

「その時、君にとって私はもう取るに足らない存在になっているだろう。その時君はひっそりとこの力を解除する」

「ですからそんなことは」

「私はその時自分に加護が効かなくなったことで、君が他に誰かを見つけたと気づくことになる」


 その声は、静かで。



「そうしたら私はその、君の想い人を探して殺す」



 まるで子供に言い聞かせるように、穏やかだった。


「そもそも何ですかその脈絡のない仮定は」

「私がオルトシア侯爵令嬢と結ばれれば幸せになると謎の仮定をしている自分を棚に上げるな」

「エリマス様なんて私と出会ってたかだか一年少々でしょう。一時の気の迷いです。私は違──」


 頬を掴まれ、顔が歪む。


「……馬鹿にするのも大概にしろ」


 そのまま殴られてもおかしくないような気迫を前に、喉の奥がヒュッと細く震える。


「私は生まれた時から自分の地位の高さも価値も貴族としての責も承知している」

「……」

「君のように鎖で繋いでおかないといなくなるような人間よりオルトシア侯爵令嬢を伴侶に選んだ方が全てにおいて正しいことも、君よりも私の方が遥かに理解している」

「……」

「それとも私がその程度のことも分からない間抜けだと?」


 セレストブルーの奥が、暗く沈んでいる。

 分かっている。

 エリマスに分からないはずがないことくらい、分かっている。


「でしたら何故──」


 頬を掴んでいた指先から力が抜け、指の腹は柔らかく目尻に添えられる。

 甘ったるいその仕草に身が怯むけれど、それと同時に眼前の美しさに思わず思考を奪われた。 


「最初は随分頭のおかしな女に好かれたと思った」

「え」

「一方的に私に懸想して、特別な力をかけたことを笠に着て関係を迫ってくるんだろうと」


 指先は滑る。


「実際にはさも私には興味がないどころかむしろ冷めた目でじっと監視し続けて、他人と距離を置こうとしているくせに手を貸すことにも自分が傷つくことにも躊躇がない」

「……私は、」

「全て達観して諦めたような顔をしているのに、腹の底には激情を抱えている」


 すぐそこには机に剣が突き刺さったまま。

 何もかもが奇妙な景色の中だった。


「私のためだと歪んだ大義名分を振りかざして願望を押し付けておきながら、それを目の前で見届けるほどの強さはない」

「……」

「それでいて私のためならこの国をも滅ぼせると恐ろしい睦言を平気で吐く」


 視線が交わり、逃げようとすれば今度は頬を掴まれる。



「そんな頭のおかしな女に執着されて堕ちない男がいると思うか。あまり人間を舐めるな」



 据わった目で真正面から射抜いてくる。


「お、おちるとか、……おちないとかではなく」

「大体そんなに自分の出自が気になるなら、それこそ冥王だの神だのに頼んで事実を捻じ曲げればいい。この半年で私も色々考えた」

「何を恐ろしいことを……」

「好きな女に突然他の女をあてがわれた挙句に理由も言わず出て行かれて、平常心でいられると?」

「好、」


 供給過多で、脳が処理しきれない。


「……君は私を幸せにしたいと言っておきながら、私が自分の幸せのために唯一願っているものだけは頑なに遠ざける。ずっと矛盾しているな」


 ぐらりと揺らぎそうになるのを、必死で堪える。


 いつからだったか。

 動く推しだという認識が、静かに崩れ始めたのは。

 温度があることを知ったからだろうか。

 目の前で傷ついている姿を見たからだろうか。

 当たり前のように食事をして、喜び、笑い、疲れ、嘆くことを知ったからだろうか。


 でも線を引かなければ。

 交わらないように、幾重にも線を引かなければ、私は正しくなくなってしまうから。


「私だって、一緒になりたいと言われて、嬉しくなかったわけがないでしょう」


 声が震える。


「それがもし一時の気の迷いだろうが、何かに思考を操られていようが」


 ただ力を使うたびに、作中での顛末を思い出すたびに、そうではないと頭が警鐘を鳴らす。


「でもそこまで馬鹿になれません。いつか貴方が目を醒まして、正気になってしまったら。……私が、今度こそ人類の敵に、本当の化け物になるかもしれない」


 これ以上は危険だと、デスクトップの前にいた頃の私が囁いていた。

 もう、あの時は諳んじることができたコードの一つも思い出せないけれど。


「だってオルトシア侯爵令嬢に出会った時、本当は魔が差したんです。私は彼女に触れずにその命を奪えて、何の罪にも問われない。その選択肢が、一瞬でも頭をかすめたんですよ」


 目は見れなかった。

 取り繕って善人ぶっていた、化けの皮が剥がれていく。

 


「だから私は──」

「………………君、自分がずっと熱烈な愛の告白をしていることに気付いてないのか」



 冷やかすように、風が窓を揺らした。


「え?」

「要するに私が他の女に余所見をしようものならその女を殺したい、私がもし自分のことを好きでなくなったら世界を破壊すると」

「…………いや、そ、そこまでは」  

「で、それを拗らせた結果が今だと?」


 と、舌打ちが聞こえた。次の瞬間、視界がぐらりと傾く。


「え」


 足が地面から離れていた。理解が追いつくより先に、身体ごと抱え上げられている。

 それは俗にいうお姫様抱っこで。


「え、あの、」

「君に気を遣いすぎた」

「ちょっと」


 奥の扉を足で開けられる。そこは私の小さな寝室で。

 ひと一人分が寝るのには十分な古びた寝台に私は軽々と転がされ、私の顔の横にはエリマスの骨ばった手が。


「え?」

「話にならない」


 無様に脱がされかけて、慌てて腕でガードして、しかしその腕も、あっさりと引き剥がされた。


「何だ」

「なんだじゃなくて、あの、何がどうしてそうなりますか? い、意味が、流れが、」

「いや君の方が意味が分からない」

「脈絡なさすぎませんか?」

「言葉にしても伝わらないなら仕方ないだろう」

「す、……少なくとも来月になるまでは帰れません!」


 エリマスの手を掴む。本気を出せばきっと簡単に振り払えるだろうに、わざとらしく動きを止めた。



「…………何の予定がある?」



 鼻白んだ顔が私を見下ろしている。


「ちょっと手ごわそうな化け物退治に行かなくちゃいけなくて……」

「適当に先延ばしして夜逃げするつもりか?」

「いやもうどうしてもそれまでは絶対王城には戻れないんです、本当、いやいやいやだから本当に!」


 手の平ひとつで両手を頭上にまとめられた私は、さながら間抜けな罪人の恰好になっている。


「ここにいなければならない理由は」

「今までみたいにその日に始末できるか分からないので、何度か通わなくちゃいけないかもしれなくて、王城からだとそんなうろうろ出入りできないですし」

「あの火の玉で行けばいい」

火の玉(ランパス)であんな遠くまで行ったら私が持たないんです、遠方だと大変なんです」


 完全に疑われている。

 いや、そもそもどうして私が王城に帰る前提で進めているのか。


「じゃなくて、だから私、帰るとは一言も──」

「これ以上逃げようものなら、次に君が見るのは私の墓だ。いいな」



 高潔なはずのエリマス・メレアグロスの魂を、誰がここまで濁らせたのか。





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