37
メンテから託されたのは、エリマスの誕生日に贈るつもりだったという護符と手紙だった。
もし私を誰かが尾行していたなら、彼女と出会ったことについてエリマスに報告されてもおかしくない。
隠していてもボロは出るだろう。後回しにすべきではないことは分かっていた。
「……殿下、お加減はいかがですか?」
休みの最終日、ぼんやりしている気にもなれず私はオルフェンの部屋を訪れていた。
「今日までお休みだと伺っていましたが……?」
「いえ、どうも休みが手につかなくて」
「はは、毒されてますね」
随分顔色はよくなっている。来週から公務に復帰すると聞いて様子を見に来たのだけれど、どうやら問題なさそうだ。
「殿下はお若いので傷の治りも早いですね」
「年寄りのような言い方を。貴女の方が年下でしょう?」
軽口を叩きながら、寝台の近くの椅子を勧められて腰を下ろす。
「エリマスと出かけていたと聞きましたよ。楽しかったですか?」
「……ゆ、夕食をご一緒した程度で」
「またまた」
しかし、ようやくそこで気付く。
自分が久しぶりにほっと息を吐けたことに。
王太子を前にほっとするなんて不敬にもほどがある。けれど張り詰めていた何かが、少しだけ崩れたような気がした。
「……何かありましたか?」
「え」
「入ってきた時から、随分浮かない顔をされていたので」
取り繕う言葉が出ず、しばし逡巡して、けれど観念した。
隠しても無駄だろう。
「……実は昨日偶然、その、……オルトシア侯爵令嬢に、お会いしまして」
「…………それはまた、すごい偶然ですね」
事態を瞬時に察したらしいオルフェンは、少しだけ前のめりになる。
「咄嗟に王城の侍女だと嘘を吐いて、事なきを得たのですが」
「ほう」
「あ、あまりに素晴らしいお方で……」
魂の奥から声が出る。
「何がどうしてエリマス様はあの方とのご縁談を反故になさったのか全く理解できず」
「メンテ嬢は社交界の華ですからねぇ」
「かと言ってここで私が今一度身を引きますと申し上げても事態がややこしくなることは想像に易く、そこまで私も愚かではないのですが、それにしてもです」
実は私にも心を惑わす能力でもあるのではなかろうか。そう思った方が納得がいく。
「お家柄にお人柄、ご容姿、立ち振る舞い、思想、ご容姿、お人柄……何をとってもパーフェクトです。絹のごとき白銀の髪もエリマス様のプラチナブロンドによくお似合いで、瞳の色は対照的でお美しいですし、お二人とも貴族中の貴族でありながら身分に対して非常にフラットで、気高いながら懐の広いあの感覚、価値観もおそらくぴったりはまるというか、メンテ様のエリマス様に対するリスペクトも純愛も何もかも寸分狂いなく理想も理想……おかしい、殿下、やはり私からおかしな力を感じませんか」
「おかしな力は感じませんよ?」
「エリマス様は私に騙されているとしか……」
「ご本人がそれをおっしゃるケースは珍しいですね」
言葉にすればするほど研ぎ澄まされていく。
私が男なら例え世界を敵に回すとしてもメンテを選ぶだろう。
あんな女性があんなに自分を想ってくれていて、どうして手紙を無視できようか。
「殿下。なんとかエリマス様を正気に戻すことはできませんか」
「と、言いますと」
「最初にお伝えした通り、私の命題はエリマス様の最大幸福の実現です」
エリマスが望むなら、エリマスが幸せなら。
そう思ってその手を取ったけれど、私もまさか本気でエリマスと結婚しようだなんて思っていない。
「責任感の高い方ですから王家のため私を手元に置くことに執着するがあまり、やはりそれを愛情と誤認されたか……そうでなければあれほどまでに完璧なご令嬢を前にして私のようなどこの馬とも知れぬただの能力持ちを選びましょうか? せめて私との間に生まれる子供が特別癒術に秀でる確証があるならまだしも、公爵閣下ともあろう方がよもや一時の感情で私を選ぶなど言語道断、あああ危なかった、あのままメンテ様にお会いしなければうっかり本気でエリマス様が私のことを本当に愛しているのかもと、いえ、そもそもラミア様を当てがった己の視野の狭さから呪わねば……」
「ノーナ?」
プツ、と糸が切れる。
(あれ? いや、違うな、そもそも、)
物語はすでに、"完結"しているのではないだろうか。
冥王はすでに敵ではなく、ティシポネやメガイラはアーテに対抗すべく戦っている。
アーテそのものを打倒する力は人間側になく、あとは言葉通り神々に祈るのみ。それは私にも言えることだ。
聖冠の神子ラミアはもうこの世におらず、腐敗した聖殿を牛耳っていたアドラストス猊下一派はすでに囚われ、大司祭が是正に向かって動いている。
エリマスには原作にはいなかったはずの理想的な元婚約者候補がいて、幸せが見えている。
確かにアーテは脅威だ。それに伴う異形もまた同じ。
ただそれは今すぐに解決できる問題ではない。
それを言い出せば、人間同士の諍いや戦争だってなくなることはない。
となると、私は一体何をこんなに焦って、ぐだぐだと追い詰められていたんだろう。
(毒された漫画脳で、アーテまで倒さなくてはと思ってたけど、)
それは神々の物語で、人間たちの物語じゃない。
「殿下」
「は、はい」
「少し急用を思い出しました。御前を失礼させていただきます。あ、お見舞いの品は侍女の方に預けておりますので、よかったらお召し上がり下さい」
「え? あ、ええ、あの……ノーナ、貴女は少々考えすぎるというか、」
「そうなんです。考えすぎていました。ありがとうございます殿下」
今までになく、頭は冴えわたっている。
つまり私は今、エピローグで無駄に暴れている妙な女だ。
完結した物語の番外編をやたらと引っ張り、余韻に浸らせる暇もなくだらだらと動き続けているノイズ。
「──エリマス様」
そう、思い出したのだ。
エリマス・メレアグロス。
彼は私の、推しだったことを。
「……珍しい、君の方から私の部屋に来るなんて。休みの残りは満喫できたか?」
願いの本質は、彼に幸せになってもらうこと。
そして私は決して、カップリングの右側に自分を置かないようにしていたことを。
「? そんなところで止まっていないで、中に入ってこい」
「申し訳ございません。私はようやく正気を取り戻しました」
痛かったはずの胸は鎮まり、波がない。
「……正気? 何の話だ」
失礼を承知で、足元に置いたのはメンテから預かった手紙と贈り物だ。
エリマスは怪訝そうに眉を顰める。
「メンテ・オルトシア侯爵令嬢とお会いしました。これはその際にお預かりしたものです」
「……どこで」
「王都です。偶然ですよ」
この反応、どうやら誰からも聞き及んでいないらしい。参った、藪蛇だっただろうか。
「すべてにおいて素晴らしい方でした。同性でも見惚れるほどで」
「だから何だ? また自分は身を引くと? ……いい加減聞き飽きた」
「ああ、いえ、身を引くというより、そもそもここに身があること自体が最初からおかしなことでした」
チカ、とエリマスの背後の窓辺に灯りが揺れた。
「……何を、」
エリマスが何かを察したように、ほんの一瞬だけ息を呑んだのが分かる。
「──ランパス!」
約束通りに火の玉が目の前を走り、絡みつき、足元の重力がふっと消える。
エリマスの表情が驚愕に染まり、その瞳に炎が映りこむ。
思わずその幻想的な美しさに、一瞬言葉を失った。
「お世話になりました、メレアグロス公爵閣下」
それ以上の言葉はいらない。
独特の浮遊感と共に、一気に全身が炎に包まれ──前回同様、視界を白で塗りつぶす閃光が弾けた。
世界が裏返るような感覚のあと、はっと気づけば、私を覗き込んでいるのはメガイラの不安そうな顔。その奥には、ゆっくりと流れていく星空が広がっていた。
「……本当にこれでよかったんですか?」
「ち、ちょっとまってください、ちょっと、よ、酔いました」
せり上がる異物感に、うぷ、と口元を覆う。
身体を起こし呼吸を整えると、眼下には炎の軌跡が尾を引き、向こう側には地上の灯りが遥か下で点のように瞬いていた。
「あの、貴女、信じられないくらい何も言わずに出てきましたよね」
「いえ、……本当に何も思いつかなくて」
「普通もう少し押し問答があるかと」
「前に一度やったことがあるので……そうすると負けるんです」
──今から数時間前。
オルフェンの見舞いの後、私は一か八かで再び王都に舞い戻り、メガイラを召喚していた。
呼べば来る、というティシポネの言葉を思い出しての賭けだったが、まるですぐそこにいたかのようにメガイラは現れた。
そして私は、冥王側につくこと、王城から連れ出してほしいことをかくかくしかじかと説明し、渋られながらもなんとか承諾を勝ち得たのだけれど。
「……これでこっちが人間側の敵だとか言われたりしません?」
「そうならないようにちゃんと私の意思で出て行くところを見せてきたんですよ」
メガイラは困ったように眉を寄せる。
その表情は、どんな人間よりも人間らしい。
「その辺の神々よりよっぽどあの方の方が怖いんですが」
私もきっと、このまま人間サイドにいればそれなりに幸せに生きていけるだろう。
しかしそれでは根本的な解決には繋がらない。
人間には異形を打倒する力がないのだから。
「もちろん、貴女が我々と行動を共にして下さるのは助かるのですが……ステュクス神があの方を依り代にしているうちはまたお会いすることになるかもしれませんよ」
その言葉に、私は肩を竦めた。
「その時にはエリマス様が子宝に恵まれて良き夫、良き父親になっていることを祈ります」
「貴女ほんと、人間だとは思えないくらい歪んでますね……」
私が突然いなくなったからといって、アルカヌム家を罰するようなことはしないだろう。
それにしても婚約話を城内の内示に留めておいてよかった。エリマスにいらぬ恥をかかせてしまうところだった。
それから、半年ほどが過ぎ──
「──月に三度までしか使えないのって不便だな……」
夏を楽しむ間もなく、また冬が来て年を越し、今は雪が吹き荒ぶ中、私は海の真ん中にいた。
商船を幾度となく沈めてきた海の怪物、カリュブディス。『ペルセポネの冥戦』の後半に登場する、それなりの大物だ。
それもつい先ほど、鋏の餌食になったばかりだけれど。
【お疲れさまでした】
「ありがとう。うぅ、ふ、冬の海、寒すぎる……」
私を乗せてふよふよと漂う火の玉、ランパスはなんと人語を話せたらしい。メガイラの能力と親和性があるため普段は行動を共にしているが、時折こうして私にも同行してくれる。
鋏は月に三度まで、という制約の中で、私はメガイラやティシポネたちと行動を共にしながら、アーテが率いてきたというならず者の退治に勤しんでいた。
私は当然人外の化け物担当だ。
【本日はこのままご自宅まで戻られますか?】
「ああ、うん、お願いします」
"自宅"。
それは当然あの王城でも、アルカヌム家でもない。
私が俗世からすっぱり縁を切ったことに驚いたらしい冥王が、急遽用意してくれた身分──それはグラナトゥム王国南端の小さな村に住む、フローラという平民の立場だ。貴族の家から暇を出された元侍女という新しいプロフィールをもらい、小屋のような家でひっそりと暮らしている。
国を出たいと最後まで駄々をこねたものの、化け物退治の効率を考えればこの場所がベストだと押し切られてしまった。ランパスがいれば距離など関係ないだろうと思ったけれど、どうやら長距離をひとっ飛びするには身体への負荷が大きいらしい。
(結局、災厄がグラナトゥムに集まってくる理由については有耶無耶にされたし……)
アーテの尻尾はまだ掴めていない。
そして定期的に王都の様子を窺っているティシポネは、顔を出すたび、聞いてもいないのに城内の様子をだらだらと教えてくれる。
『彼、結局例のご令嬢とも婚約してないみたいよ』
可哀そうだから帰ってあげればいいのに──そう言う彼女に鋭い視線を飛ばせるくらいには、気心は知れるようになった。
(エリマスも今年で二十八なのに……)
そして化け物退治では普通生計は立てられない。のだけれど、表に立って仕事ができない私に配慮してか、毎月ある日に目が覚めると満足に生活できる程度の金貨が置かれるようになった。
なんと優しい冥界の使者たち。人間界ではこうはいかない。
「よっこいしょ、」
小さな暖炉に薪を放りこみ、火をつける。
今の暮らしは王城に比べれば当然不便だった。けれどあれだけ張り詰めていた何かがぷっつりと切れ、頭の中はようやく静かになった気がする。
化け物を退治したことで、被害を受けていた各領地が再起しはじめている──そんな噂も耳に届くようになった。
本来なら力に目覚めたオルフェンの役回りだ。
しかし王城から人目を忍んで出ていくよりよほど気が楽だった。別に誰かに感謝されたいわけでも、後世に名を残したいわけでもない。
ただ、静かに暮らせればそれでいい。
(来月にはネメアの獅子を探さないと……)
ここまで大きな怪我はせずにやってこれている。怪物の出現場所に合わせてランパスと共に駆け付け、ばっさり始末するだけ。リスクはほとんどない。
一度メガイラが『うっかりしました』と大怪我を負って運び込まれたことがある。その時はさすがに胸がざわついたものの、私の力は王城にいた頃と変わらず働き、彼女の傷はすぐに塞がった。
やはり私は人でありながら、人ではない。
しかしその冷たい事実に向き合っても、もう痛みは感じない。
硬いパンを齧りながら、胡坐をかき、薬草の図鑑を開く。本や物資は福利厚生が充実している冥界一派が度々仕入れてくれる。
『ペルセポネの冥戦』でも同じように扱われていたなら、あの世界での私もきっと、違う道を歩んでいたかもしれない。
──と、控えめに扉が叩かれた。
この家に来客はそう多くない。時々集金にやってくる村長か、常識的なメガイラくらいだ。ティシポネはいつも気が付けば背後に立っている。
「? はい」
返事がない。気のせいか、と無視していると、もう一度叩かれた。
「……誰? メガイラ?」
隙間風が窓枠を揺らす。治安は悪い方ではないはずだけれど、油断は禁物だ。
「ランパス」
呼べば浮かび上がる火の玉は、ふよふよと宙に浮く。
【どうされました?】
「……扉の前にいるの、人間?」
【人間ですね】
強盗か、あるいは暴漢なら厄介だ。こちら側は、生かすか殺すかの両極端な選択肢しか持たない者ばかりなのに。
「……もし私が危ない目に遭ったら、適当に吹っ飛ばしてもらえます? 私の方でも相手の方でもいいです」
【構いませんが……】
この反応、どうやら相手は危険な人間ではないのだろう。
忍び足で扉に近付き、鍵を開ける。そうっとノブを回し、じわじわと扉を開けて──
「えっ」
反射的に全力で扉を閉めようとして、しかしその間に差し込まれた革靴が邪魔をして、扉はびくともしない。
怖い。
「らららららランパス! ランパス、ちょ、た、助けて!」
【いえ、実はメガイラ様から今日の命令は聞かないようにと……】
「は!? なんで!?!?」
この人相手に、力勝負で勝てるはずがない。思いっきり腰を引いて、容赦なく革靴を蹴る。
「は、ッ離して下さい! 足砕きますよ!?」
無言の圧力。一言も返ってこない。
おそらく本気を出せば、この扉くらい簡単に開けられるのだろう。
手加減されているのは分かる。分かるからこそ、負けられない。
歯を食いしばり押し問答をすること数秒、何か物騒な音がしたかと思えば──扉の番が、まるでチョコレートのように叩き割られていて。
「え?」
扉を引っ張っていた私は、反動で背中から倒れるはずだった。
しかし次の瞬間、逆に扉側へと引き寄せられ、無重力に放り出されたかのような感覚に襲われ──そして。
「…………」
何が起きたか分からなかった。
分からなかったけれど、ただ本来ぶつかるべき扉にはぶつからず、私はごわごわとした外套の塊に力いっぱい抱き込まれ、息ができなかった。
(……どっちが人外なんだか……)
脱力して、観念する。
氷のように冷えた耳が頬に触れ、思わず目を細めた。
「……あの、一旦、家の中に……」
いや、こうも扉が叩き壊されては、室内に入ったところで防寒になるかどうかは怪しい。
「エリマ、……ッん゛」
やっと呼吸ができると顔を上げた瞬間、唇を噛むように塞がれた。鋭い痛み。唇が切れた感覚が走り、しかしその傷はすぐに塞がっていく。
また息ができない。胸を叩くと、角度を変えてさらに深く噛まれた。
このまま力加減を誤られれば、首を折られてもおかしくない。やっと離れたかと思えば、そのまま肩に頭を埋めて動かなくなった。
ここから逃げる気力はもう、今は湧かなかった。




