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(……しかし、まさかエリマスが本当に同行することになるとは……)
「もう少し近場で探せ」とエリマスに強引に軌道修正され、王都から二時間ほど離れた小領地へ向かっていた。
馬車の窓から吹き込む風は乾いていて、遠くに広がる畑はどこか色を失っている。
この一帯では田畑を荒らす大猪が出没し、特産の薬草が採れなくなったことで税の免除申請が出ていたらしい。騎士団が捕獲に挑んだものの、罠ごと破壊され、それ以来、誰も手出しができていないという。
「猪に突進されたら、私の鋏が間に合わない可能性はないですか?」
「その時は私が足止めする」
「えぇ……?」
馬車から覗く街並みは、フラウス村ほどではないにせよ寂れていた。
かつては栄えていたのだろう店先の暖簾はほとんど下ろされたまま。昼間だというのに人影はまばらで、風が吹くたびに埃が舞い上がる。
エリマスの指示通り、わずかに開いている果物屋や八百屋を渡り歩き、香りの高い食材を買い込んだものの──街の沈んだ空気はどうにも胸に重くのしかかった。
やがて、事前にエリマスが聞いていたという山林の麓に辿り着く。
畑は一度荒らされたらしく、地面は抉れ、作物の影もない。持ち主に許可を得て、領民の手を借りながら買ったばかりの果物をばらまく。
あとは、地味に待機するだけだ。
「都合よく顔を出してくれればいいんですが……」
時刻は深夜、日付が変わった頃だろう。なんと物騒なデートだろうか。
うっそうと茂る木々が風に揺れ、不気味にざわめく。
「……普段はどうしているんだ」
「普段ですか? 出てくるまで練り歩きます。なんとなく出てきそうなところが分かるので」
「…………二度と一人で行かないように。二度と」
一帯の領民はすでに避難済みだ。
待機し始めてからそう時間は経っていない。しかし森の奥から吹き抜ける風が、僅かに冷たく感じられた。
ふと、エリマスが姿勢を変える。
「……忙しい君に気を遣って先方から来て下さったらしい」
その視線の先を追うと──木々の間で、何かがゆっくりと動いた。
風が止み、森のざわめきが一瞬だけ凍りつく。
「? あれは普通の猪では」
「後ろだ」
「え」
目を光らせている猪の、その背後。
成獣の猪の数倍はある巨体。背後にそびえる針葉樹と体高がほとんど変わらない。
夜闇に浮かぶ濁った金の瞳は、自然のそれではなかった。
いっそ神々しいほどの異形に、わずかに怯む。
だが相手の動きは鈍い。
(やるしかないか……)
静かに両手を地面に這わせた。
そろりと化け物の頭上に浮かぶ、黒い巨大な鋏。
隣のエリマスが、僅かに息を呑む。
「さようなら」
刃が大きく開き──鈍い金属音が空気を裂いた。
巨大な猪は呻き声一つあげずぐらりと揺らめき、轟音と共に地面へ沈む。
ぐっと目を凝らすと、その身体からさらさらと砂鉄のような黒い粉が空へと舞っていく。
苦戦の余地もない。
これがもし漫画だったらあまりにも面白くない展開だろう。私が作中ですぐに退場させられた理由も分かる。
「……エリマス様?」
私が逆の立場ならドン引きだ。
固まっているエリマスの顔を覗き込むと、我に返ったように私を見下ろした。
「いや……分かってはいたが、本当に……相手の強さも格も関係ないんだな」
「ですがご存じの通り、神の力が及ぶものには一切歯は立ちませんよ」
どこか高揚したようなエリマスと共に、倒れた異形の残骸を確認する。
黒い粉はすでに風に溶け、地面には巨大な影の名残だけが薄く残っていた。
(……相変わらず、恐ろしい力)
本人は不本意そうだったけれど、化け物退治をしたのはエリマスということで始末をつけた。
囮に使った作物については領民たちに「好きに分け合ってほしい」と伝える。彼らは胸を撫でおろし、何度も頭を下げながら、安堵の息を吐いた。
その様子を見届けてから、私たちは夜も明けないうちにその場を後にした。
夜風が吹き抜け、先ほどまでの緊張がようやくほどけていく。
「──せっかくのお休みでしたのに、申し訳ございません」
王都に入ると、王城には戻らずエリマスは慣れた様子で一軒の宿の前に馬車を泊めさせた。
王城が目の前なのに勿体ない、と口にした私に『目の前にいるのが誰だかまた忘れたか』と嫌味を放たれ、封じられる。
宿、とは言ってもそれはエリマスの言葉を借りただけで、掲げられた看板には屋号も紋章もない。王都にはこういった、相応の家格か、紹介がなければ扉が開かない店や宿がいくつも点在している。
表玄関ではなく、建物の脇にある目立たない扉から中へ通される。
時刻はすでに夜中の二時を回っているはずなのに、迎えに出てきた従業員たちは眠気どころか疲れの色すら見せなかった。
声を潜めて交わされるやり取りは手慣れていて、この時間帯の来客も、その格の相手も、彼らにとっては想定の範囲内なのだと分かる。
廊下はやけに広く、客室の扉は少ない。まさにここも、泊めるべき相手だけを泊めるための宿らしい。
「? どうした」
「いえ、格の違いを思い知り、尻込みしているところです」
「……いずれ慣れる」
この客室数で儲かるということは、一体いくらの宿泊費だろうか。勤め人としての古い本能が働き、つい電卓を弾きたくなる。
そして当然のように寝台はひとつしかない。
時間も時間だ、涼しい顔をしてさっさと湯室に消えていったエリマスに続き、私もいそいそと寝る準備を始める。
「毎月に一度、日を決めておこう。今後君がひとりで行くのは禁止する」
そう提案されたのは、髪を乾かし終えて寝台に身体を乗せた瞬間だった。
「え」
「別に規模は問わないのであれば私も事前に各領地の被害報告を確認しておく。相手は雑魚でもいいんだろう。あのクラスの相手をするのはいくら能力があるとはいえ──」
「ま、毎回同行なさるつもりですか……?」
ぎょっとすると、胡乱な表情で睨まれ、盛大な溜息と共に腕を引かれる。
次の瞬間、勢いよく胸板に額をぶつけ、清潔なガウンの香りがふわりと鼻をくすぐった。
「もし一人で行って誰かに見られたらどうする。並みの人間にあの鋏が見えないとはいえ、今度こそ神か何かだと祀り上げられるだろう」
抱きすくめられながら交わす睦言にしては、随分治安の悪い会話だ。
「大体鋏を使わないことの代償が癒術の能力低下だと言うなら、そもそもどちらも使わなくて良いようになればいい話なんだが」
「流石に今の状況では、万一のことがあるので……」
とはいえエリマスが他意なく不意打ちで口付けてくるおかげか、私自身の体力ゲージは常に最上ではある。
ありがたいやら恥ずかしいやら、しかし今のコンディションですらオルフェンのあの傷には手も足も出ない。
ふとその現実を思い返し、喉が詰まる。
「とにかく今日はもう遅い。今後についてはまた話そう。……私は明朝先に出るが、君はゆっくりしていけばいい」
耳元で規則正しく呼吸する気配が、腹部に回されたエリマスの腕の重みが、じわりと心を締め付ける。
この温度に甘えてしまえば、きっと動けなくなる。
(……無茶をするならエリマスの寵愛を受けられているうちに終わらせないと)
胸の奥に沈んだ棘を押し隠すように、私は静かに目を閉じた。
◆ ◆ ◆
翌朝、エリマスがそうっと出ていくのを寝たふりをして見送り、私は王都が動き出す時間を見計らって宿を出た。
支払いについて怯えたものの、おそらくそういう庶民じみた心配は無用なのだろう。従業員は何も言わず、にこやかに私を送り出してくれた。
しかし休みを二日残した私をあのエリマスが完全に野放しにするはずがない。
となれば、公爵家付の護衛か騎士に尾けられていると考えたほうがいい。
不死相手にあり得ないほどの過保護だ。もしや私が何者か忘れている可能性すらある。
とはいえ、せっかくの休日。
悶々と考えていても解決しない以上、人並みに王都を散策するのも悪くない。
花屋、文具屋、本屋、薬屋──この時代の最新のものを取り扱っているだろう表通りを歩く。
(そういえば、)
この世界にも誕生日というものが存在する。
私は当然エリマスの生誕祭を盛大に祝った側なので把握している。ああ見えてエリマスは夏生まれだ。
ウィンドウ越しに宝石店の奥を見やった。タイピン、カフス、あるいはと考えて、しかし思考は止まる。
形に残るものを渡すのはいかがなものか。
「……やめとこ」
世話になっている侍女に何か贈り物でも、と菓子店に入り品物を眺めていると、会計を終わらせたらしい女性の足元に何かがきらりと光った。
視界の端に残る白銀の美しい髪に気取られて一瞬反応が遅れる。慌ててそれを拾い上げ、店を出る。数歩先に彼女はまだいた。
「あの、ご令嬢……! こちら落とされましたよ!」
声を上げると、数人が振り返った。叫ぶなんてはしたないだろうが、仕方ない。
ゆっくりと振り返った白銀の令嬢は、目を瞬かせた。
息を呑む。私よりも一回り小柄で、まるでビスクドールのような肌、長い睫毛、血色の良い唇。
「先ほど、このお店から出て行かれる際に……」
「まあ! ごめんなさい、ご親切にありがとうございます」
同性でもどぎまぎするほどの美貌。人懐っこく駆け寄ってくると、私の手からそれを大事そうに受け取り、白百合のような笑みを綻ばせた。
「とても大切なものだったので、本当に助かりました」
その一瞬一瞬に、目を奪われる。
「ぜひお礼をさせていただけませんか? あっ、私を追いかけてきてくださったからお買い物できていらっしゃらないですよね? でしたら」
「い、いえいえ、とんでもございません」
服装、持ち物からして貴族令嬢であることは明らかだ。一人で出歩くなんて、と周囲を見回せば、息を切らした侍女がこちらに駆け寄ってくるところだった。
「メンテお嬢様……! ああ、どこに行ってしまわれたかと!」
「だけど見て、迷子ついでに美味しいお菓子を買えたのよ。一人でお会計もできたわ」
(……"メンテ"?)
侍女の制服、その胸元に小さく刻まれた紋章が目に入る。
無花果をモチーフにした、繊細ながら豊かさの象徴ともいえる独特の家門──そして彼女の白銀の髪に、向日葵のように鮮やかなヘーゼルの瞳。
次から次へと、まるで漫画のようなタイミングで現れる。
「ああ、申し遅れました。私、オルトシア侯爵家のメンテと申します」
──エリマスの、婚約者候補だった女性だ。
だとしたらここは、素直に名乗るべきではない。
「……フローラと申します。王城の、侍女で」
咄嗟に借りたのはアルカヌム家の養母の名だ。
「そうなの? てっきり貴族のご令嬢かと思ったわ」
「とんでもございません。ではこれにて御前を失礼……」
「待ってフローラ。王城の侍女ってことは、エリマ……じゃなかった、メレアグロス公爵閣下にお会いすることはある?」
しまった。王城関係者だと名乗るべきではなかった。
「っ私のような下働きではほとんどお目にかかることは……」
「いいの! ねぇフローラ、これも何かのご縁だと思うの、私たちお友達になれない?」
侍女が鋭く窘める声が飛ぶけれど、メンテは子供のように唇を尖らせる。
「侯爵令嬢様とお友達など、滅相もございません」
「お友達に身分なんて関係ある? 貴女は私の大切なブローチを拾って届けて下さった優しい方。それ以外私は知らないわ」
後光が差している。あまりの眩しさに目がくらんだ。
「フローラ、まだお時間はある? おすすめのお店があるんだけどお礼にご馳走させて下さらない? ケーキひとつなら貴女も受け取ってくださるでしょう?」
「あ、えっと、」
「ささ、行きましょう!」
月のような外見をして、太陽のような性格のご令嬢──まさに評判のまま。
そしてその容姿はどんな絵師を以ても描き切れぬほどの美貌というのもその通りだ。
(……このご令嬢との縁談を断るって、エリマスはちょっと変なのでは……)
「──それでね、フローラ」
香りの高いお茶に、ふんだんに果物が乗った高級ケーキ。
店内は落ち着いた色調でまとめられ、昼下がりだというのに客は少なく、静けさを保つために席数をあえて絞っているのが分かる。
そんな中に流されるままに連行された私は、エリマスの元婚約者候補の前で引きつりながらケーキを口に運んでいる。
「貴女もご存じかもしれないんだけど……私、さっきお話したメレアグロス公爵閣下と婚約するはずだったのに、白紙にされてしまって」
「お、お嬢様……っ」
隅に控える侍女が慌てて遮るけれど、メンテは素知らぬ顔だ。
「それらしい理由を並べ立てられて、どうも納得いかないの。手紙を出しても返ってこないし」
「オルトシア侯爵令嬢様は、」
「メンテって呼んで?」
この瞳に射抜かれて、囁かれて、惑わない男性がいるだろうか。
「……メ、ンテ様は……、その、閣下とのご婚約をまだ望んでいらっしゃると……?」
「幼い頃から婚約者候補だったんだもの、今更急に取りやめだって言われても実感がないわ」
(幼い頃から?)
聞いていない。
口に入れた木苺の酸味すら、舌に伝わってこない。
「噂では他の方と懇意にされているとかお聞きするんだけど、それならそうとおっしゃって下さればいいのに」
「……」
「だからフローラも何か聞いていないかと思って。侍女ってそういう噂に敏いでしょう? 社交界にもほとんど顔を出されないから、何も情報が入ってこないの」
よもや彼女は目の前にいる人間が、昨晩猪の化け物を一撃で瞬殺した恐ろしい生き物だとは思っていないだろう。
「……申し訳ございません。私はそこまで、存じ上げず」
「そうよねぇ。そういうことを表に出されない方だもの。気になさらないで」
メンテは眉を下げて、けれど嫌味なくころころと笑う。
こういうキャラクターは本来、もっと意地が悪くて嫌な高慢令嬢であるべき役どころだろうに、どこまでも現実は面白くない。
「さっき貴女が拾ってくれたこのブローチ、ほら。この青い石。エリマス様の目と同じ色だからって、私の十歳の誕生日に贈ってくださったの」
全てが刺さりすぎて、顔が上げられない。
確か彼女は私の一つ下。貴族令嬢なら結婚適齢期で、更にそれだけ幼い頃から交流があるというなら、候補と言いつつ実質婚約者同然だったはず。
候補以上に踏み切れなかったのは、エリマスの王位継承権の問題があったからだろう。
「……素敵です。本当に」
「あ、でも違うの、だからって未練がましく追いかけようなんて思ってなくって、ほら、その……」
言いよどみ目を泳がせ、気まずそうに手を擦り合わせるその姿も、窓から差し込む夏の日差しも、全てが絵になる。
「メンテ様もご存じの通り、王城はもちろんこの国も異形の脅威に晒されています。閣下はそのような情勢の中でメンテ様を危険に晒すこともできず、身を引かれたのかと」
「……そんなの、私、いくらでもお支えするつもりだった」
素性も分からないこんな女の前で、彼女は素直に目を潤ませる。
「剣技を習えばお傍に置いて下さったの? 私に癒術が使えたら? あの方のためなら、命だって差し出せたのに」
「お嬢様……」
隣の侍女まで声を震わせている。
愛されているのだろう。
(……もしかしたら私はどう足掻いたところで、悪役にしかなれないのかも)
「フローラ、お願い。これを最後にするから、そう伝えていいから……私の想いを届けて下さらないかしら」
そうしたら私きっと、どこかで必ず貴女の力になるから──
私はそれを、拒めなかった。
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