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「傷が残るにしても、背ではなく正面でよかったです。一人の男としては」
「何をおっしゃいますか……」
オルフェンは寝台の上で穏やかに笑んだ。
傷そのものには癒術が効かなくとも、付随する不調だけでも和らげられればと、私はここに配備されている。もちろん完全に二人きりではなく、壁際には使用人と侍女が控えていた。
(……やっぱり力が入っていかない)
どれほど加減しても、癒術が指先から漏れていく。
状況はグレアムの時に似ているが、あれはただ効かなかっただけで、今回のように拒まれているような感覚ではなかった。
壁際の彼らには会話は届かないだろうと判断し、私は声を潜める。人前で防音の術を使えば、かえって不自然だ。
「殿下、その、テルクシノエの次期ご当主がおっしゃられたことはどうか気に病まれず──」
「あのような噂が貴族たちの間で囁かれていることは以前から承知しています」
表情は、変わらない。
「え、」
「陛下が幼少期に高熱を出し、侍医が"そう"診断したことも事実。私の髪の色が代々の王家の男児と異なり、王妃殿下の血が強く出ていることもまた事実です」
国王やエリマスのプラチナブロンドに対し、オルフェンの髪は鮮やかな橙色だ。
「しかし、ただそれだけのことです。当てつけですよ。母上──王妃殿下が無名の子爵家の出であることが気に入らないんでしょう」
「え? 王妃殿下は公爵家のお生まれでは……」
「婚約の前に、格を上げるため養子に入られたんです」
思わず言葉を失っていると、オルフェンが小さく笑った。
「それよりもノーナ。あの男とはお知り合いで?」
「あ……いいえ、全く」
「そうですか。てっきり彼の中に何か見えたのかと思いましたが……それよりも喧嘩別れでもした知人に再会したような反応でしたから」
恐ろしいほどの観察眼だ。
オルフェンは水差しを口に運び、静かに息を吐く。
「アルカヌムの家にいたころの知人に、似ていたもので」
しどろもどろになりながら、その青磁の瞳から目を逸らした。
あの世界でもケイロンは既婚者だったのだろうか。いや、そんなややこしい描写はなかったはず。
「……きっとこうも貴女の癒術が効かないのは、彼ではなく私側の問題なんでしょうね」
何かを諦めたような声色に、胸がどきりと跳ねた。
「ラミアの黒い靄が見えるようになったのも急でした。他の者には見えていないのに」
オルフェンは自分の手のひらを見つめ、目を伏せる。
「もし本当に私の身体の中に何かがいるなら──」
「だとすれば冥王から何も指摘を受けないはずはないかと」
「……確かに、それは……そうかもしれません」
短く呻き、起こしていた上体が崩れるように寝台へ沈んだ。
慌てて手を伸ばすが、そっと制される。
「これほど苦しいとは……貴女にも以前癒術が効かない時がありましたが、辛かったでしょう」
「いえ、私もここまで大きな傷は経験がありませんし」
苦しそうに揺れる瞳が、まっすぐ私を見上げる。
「……すみません。他の癒術師と交代していただけますか?」
面食らう私に、オルフェンは弱く微笑んだ。
「これ以上貴女に醜態を晒すと、恰好がつかないので。……せめて意地を張らせてください」
私は彼に、不幸になってほしいわけではない。
「──殿下の容態は?」
「……熱が上がってきたようです。先ほど他の癒術師と交代しました」
無力さに肩を落として部屋へ戻ると、少し遅れてエリマスが扉を叩き、顔を覗かせた。
「やはり全く力が効きません。解熱剤は飲んでいただきましたが、今晩は厳しいかと」
「例の人喰いのように霊液とやらを吸い取られている可能性はありそうか」
冷静にその可能性を挙げるエリマスに思わず怯むけれど、背けてはいけない。
「……特に何も見えませんでした。ただただ、何か殻に覆われているような感覚で……」
小さく息を吐くと、エリマスがこちらを覗き込む。
反射的に退いた頬に、長い指先がそっと触れた。
「あまり思いつめるな」
「しかし、」
「今回命の心配はない。痛みはあるだろうが、時間が経てば塞がる傷だ」
一度廊下に姿を消したエリマスは、すぐに給仕車を押して戻ってきた。
立ち上る甘い香りに、張り詰めていた肩の力が抜ける。蜂蜜の香りだ。
「明日から当面テルクシノエ家への査問が続くだろう。悪いが君には殿下の護衛を頼みたい。レミジオもそちらに配備する」
「……もちろんです」
テルクシノエ公爵家が厄介な相手であることは、想像に難くない。
慣れた手つきでエリマスは茶を濯ぎ、私に差し出す。恐縮しながら受け取ると、彼はふっと表情を緩めた。
「……今日ケイロン・テルクシノエが言っていたことは戯言だ。……あまり深く考えないように」
長椅子に座る私の隣に腰を下ろし、エリマスの声が沈む。
「殿下からも少しお話を伺いました。それを踏まえて、私も戯言だと思っております」
「ならいい。ただ、残念ながらああいう貴族が存在することは承知しておいてほしい」
ずくりと、胸の奥が痛む。
ケイロン・テルクシノエ──ただ思い出したというより、閉ざされていた扉を無理やりこじ開けられたような感覚だ。
あの言動が彼の本質だというなら、物語の中の私は上位貴族の傲慢にまんまと操られていたのだろう。
だとして。
(でも、最終的に、あの世界で私から不死を奪えたということは)
随分歪んだ関係だ。
今の私は極力関わりたくない。
「そういえば、今回騒動の発端になったご夫人は今どちらに?」
「ケイロンとは別の棟の牢にいる。身分詐称も重罪だからな」
「テルクシノエ公爵家はどうなるんでしょう……」
「良くて家格降下か。妥当なのは伯爵……いや、王太子への侮辱罪まで追加すれば子爵まで落ちる。次男がいるから家は続くだろうが」
エリマスが肩を竦め、背もたれに身を預けると、長椅子が小さく軋んだ。
「家を守るためならご当主の方からあの男の死罪を申し出るだろう。理を弁える方ならそう判断する」
「死、」
「王太子への暴行と血統の侮辱は国家への反逆に等しい」
『ペルセポネの冥戦』で私を討った彼は、結局冥王軍によって始末される運命だった。
「……そう、ですよね」
人の死を願うなどあってはならないのに、心の端でどこかほっとしている自分がいる。
胸の奥がざらついて、おさまらない。
◆ ◆ ◆
オルフェンの容態は三日も経てば落ち着き、侍医に見せられた傷跡は赤黒く痛々しいものの、しっかりと塞がっていた。
大司祭も度々様子を見に来たけれど、やはり私と同じ意見で、変わらず異形の気配は感じられないという。
一方、テルクシノエ公爵家の査問については急速に進んだ。
エリマスの言っていた通り、現当主はケイロンの厳罰を求め、一方で家格降下は侯爵までに留めてほしいと酌量を願い出てきたらしい。
ケイロン本人は相変わらずぞんざいで、自暴自棄になっているものの、どうやら自分が死罪になるとは思っていないようだ。というのは尋問に同席したレミジオの談だけれど、その愚痴だけで一時間は続いたほど、彼も随分腹を立てていた。
「──あの男が……私に用があると?」
そう告げてきたエリマスもまた、露骨に気に食わなさそうな顔をしている。
「何故私に? 先日同席した際には見向きもされませんでしたが」
「…………どこから話がどう漏れたのか、君が聖冠の神子だと知られたらしい。腹が痛いので君に癒術をかけてほしいと」
城外には知らせていない。ということは囚われている間に王城関係者から聞いたのだろう。
「私が伯爵家の、どこの馬の骨とも分からない養女だとお伝えいただけましたか?」
「……いずれにしても行く必要はない。ただ、黙って断るのは道理に反すると思っただけだ」
「いえ。化けの皮がもう一段剝がれる可能性があるのであれば、参りましょう」
エリマスと大司祭のみを同席させ、人払いをした上でもう一度ケイロンの牢へと向かう。
仮に彼が本当に死罪になるのであれば、これが最後の会話になるだろう。なら覚悟を決めるしかない。
「先日はご挨拶もせず、真に失礼しました。……聖冠の神子殿」
黒い瞳に鈍い光が宿っていた。堅牢な格子越しとはいえ、ぞくりと悪寒が走る。
これで本当に異形の力がないというのなら──人間の醜悪さを思い知り、息を呑んだ。
「……聴取に影響が出るほどに、ご身体が優れないとお聞きしました。恐れながらこの格子の中には入れませんので、無理のない範囲でこちらへお寄りください」
素直に立ち上がり、わざとらしくよろめきながら格子を挟んですぐ目の前に腰を下ろしたケイロンは、私を真っすぐに見上げる。
(落ち着け、)
エリマスに視線を送り、互いに頷く。私のすぐ隣で剥き身の剣を構えたエリマスが、万一の暴挙に備える。
私は意を決し、格子の隙間から手を差し入れた。まるで折の中の猛獣にでも触れるような気分だ。
『最悪、君に害を為すようなことをすればその場で斬る。関係各所の許可はもう下りている』
ここに来るまでに言われたその言葉に背を押され、そっとケイロンに触れる。先方に動きはない。ほっと胸を撫でおろし、加減して力を籠める。これはケイロンに異形が潜んでいる可能性を考えての作戦だった。
腹が痛いなどというのはおそらく虚言だろう。衰弱している様子もない。事実、力を籠めはじめてから一瞬で火花が弾けた。
「……どうでしょうか。お加減は」
「ええ。大変よくなりました。罪人にも関わらず寛大な処置を賜り、誠にありがとうございます」
至近距離で、目が合う。
何も映さない漆黒の瞳──頭に電流が走ったように、身体が固まった。
あれは漫画の中の話だ。
考えるな。
「聖冠の神子様、私たち、……どこかでお会いしたことがありませんか?」
「……っ、あ」
反射的に退き、目を逸らす。
エリマスが剣の柄で鉄格子を叩くと、金属音が鈍く響き渡った。その轟音に私も我に返り、ケイロンはにたりと笑って身を引く。
「……ノーナ下がれ。よくやった。……大司祭、彼女を上へ」
あり得ない。
あの漫画はラミア視点の世界だった。
私にここまで同化するはずがない。
しかしまるで魂に掴みかかられたような、そんな感覚だった。
「──大司祭様、あの、私、」
地上に上がると、窓から差し込む光に目が眩む。
うまく言葉にならず、大司祭に縋るように視線を向けると、歩き出した彼は深い溜息と共に私を見やった。
「……テルクシノエの血筋の者は、何代か前の……糸績み様と深い関わりがありました。互いに既視感があったとて、不思議ではありません」
なぜそんな重要なことを今まで言わなかったのか──おそらく私は咎めるような目を向けてしまったのだろう。大司祭は困ったように眉を下げた。
「ご記憶のない貴女にお伝えするほどでもないと思いました。事実、それを知ったところで何かが変わるわけでもございません」
「ですが」
単に漫画の影響ではなかったということなら、この動揺にも合点がいく。
「彼には明日にでも正式な沙汰が下されるでしょう。一個人として……いえ、冥府の一裁判官として妥当な結末と見ております」
「……」
「参りましょう、ノーナ様」
その夜は珍しく、エリマスが私の部屋に寄ることはなかった。
そして翌朝──大司祭の言った通り、ケイロン・テルクシノエの終身刑、すなわち死に絶えるまで聖殿管轄の神罰塔に幽閉され続ける刑が正式に確定した。
ケイロンの錯乱を“異形の関与あり”と判断したことで、テルクシノエ公爵家の家格降下は伯爵家までに留められたのだという。
生かしておくことを決めた背景には、オルフェンの進言もあった。
彼の症状の原因が明らかになるまでは、証人の一人であるケイロンの命を奪うのは得策ではない。
しかし全てがどろりと蟠りを残していて、後味が悪い。
ただの一件落着ではない。
◆ ◆ ◆
「……あの、今日はお休みのはずでは」
「それを言えば君もだろう」
エリマスと私の休みが被ったのは意図的ではない。
テルクシノエ公爵家の一件で互いに本来の休みが取れず、ずらした結果こうなっただけだ。
当然私はもう一度休みを変えようとしたのだけれど、あらゆる方面から邪魔が入り、今度はエリマスの休みを動かそうとしたものの、それは本人に阻止された。
「そうでしたね。私は日頃の疲れを癒すべく王都から少々離れたところまで散策の予定です。しかも私は三連休、エリマス様のお休みは今日だけでしたよね? いえ、一緒に過ごすことができなくて残念だなと」
「へえ、人目を忍んで誰も同行させずわざわざそんなみすぼらしい恰好をしてか。曲がりなりにも伯爵令嬢が?」
王城からの外出許可書を門番に提出しようとしたところで捕まった。つまり序盤も序盤。
「……御者は予約していますし、ちゃんと馬車で行って帰ってくるつもりで」
鋏を使うために、そして憂さ晴らしをかねて化け物退治に出かけます、などと誰が言えるものか。
「前回ひとりでふらふら出かけて帰ってきたかと思えば伯爵邸放火の疑いで捕まったのをもう忘れたと?」
とんでもない顔で睨まれた。
そんなことも、あったような。
「大体以前と今とでは君の立場も違う。内示とは言え君は私の婚約者で、万一それを知る者に君が人質に取られれば私は身動きが取れない」
「……」
ぐうの音も出ない。
書きかけた外出許可証をそろそろと隠し、私は目を泳がせる。
「どうしても行きたいと言うなら私が同行する」
「ど、どうしてもというか……」
確かに今回は私があまりに浅慮だった。しおしおと勇ましい気持ちは萎んでいく。
「ただの買い物なら王都でいいだろう。何なら王城に宝石商でも仕立て屋でも呼んでやる」
さすがの公爵閣下の尋問だ。私はいよいよ白旗を上げた。
「ちょっと最近、は、鋏を使えていないので」
「鋏? ……ああ」
「なので、さくっとそのあたりで、ひと狩りしてこようかと」
「狩り?」
「化け物退治的な……」
「………………は?」
当然怒られた。
小一時間、ちくちくと延々と。
素直に言えば怒られないだろうというのはあまりに甘かったらしい。




