34
◆ ◆ ◆
穏やかな日々は、長くは続かない。
その朝、胸の奥に小さな棘のような違和感があった。
「……ひと雨降りそうですね」
曇り空は重く沈み、窓の外は湿り気を孕んでどこか息苦しい。
昨日からオルフェンとエリマス、護衛の精鋭たちはある事件──メレアグロス公爵家に次ぐ名門、テルクシノエ公爵領で起きた騒動の対応で王城を出ていた。
テルクシノエ公爵家は現王の祖父の代に正妃を輩出した歴史ある大貴族。血統を重んじ、侯爵家以下の身分は決して受け入れないという超貴族主義だという。
が、私にとっては全てが初耳だった。『ペルセポネの冥戦』ファンブックを隅々まで読んでいたけれど、小話の一つにも出てこなかった。
つまりこれは未履修の事件だ。
聞くところによれば、半年前にテルクシノエ公爵家に嫁いだ夫人の身分に偽りがあり、邸で流血沙汰の乱闘が起きたらしい。
幸い死人こそ出なかったものの、公爵家主催の晩餐会での事件とあって他の貴族も巻き込んでしまった。更に邸も王城からほど近くということもあり、その鎮静化のためオルフェン自らが赴くことになったという。
(よく分からないけど悪役令嬢の断罪イベントみたいな感じなのかな……)
私はというと、おそらくテルクシノエの関係者から煙たがられる可能性を考えてだろう、こうして王城で留守番をさせられている。
とはいえ何もしないのも暇だということで、癒術師の手伝いをしているのだけれど。
「……やっぱり明らかにノーナ様の肌艶が良くなっておられます。一体、どんな夜をお過ごしで……?」
「ええ、王都で最近化粧品を新調しまして、その影響かと存じます」
ゆら、と視線を逸らしながら、貧血で倒れたという侍女を迎え入れる。
苦しそうに青ざめている侍女に手をかざし、力を込めると──みるみるうちに顔色が戻っていき、私はほっと胸を撫でおろした。
その瞬間、けたたましく扉が叩かれた。
「ノ……ノーナ様はこちらにお見えですか!? ああ、よかった……!」
「こちらにはまだお休みになられている方もいらっしゃるの、に……」
飛び込んできたのはエリマス達に同行していた癒術師だった。しかしその姿を見て、私は言葉を失う。手や腕に血が滲んでいた。
「追ってご説明いたします。とにかく今は急を要しまして──」
「殿下……!」
「あぁ……申し訳ない。王城が近くて助かりました」
オルフェンを囲んで顔面蒼白になっていた癒術師たちが道を開ける。その中にはヘメラの姿もあった。
左肩から腹部にかけて服は切り裂かれ、赤黒い血が滲んでいる。侍医の話では、幸い内臓までは達していないらしい。
ただ──どれだけ癒術が注がれても、傷がまったく塞がらない。
それが私が呼ばれた理由だった。
彼らが公爵邸で関係者の話を聞いていた矢先、突如錯乱し剣を振り回したのは次期当主、つまり今回身分を偽った女性の夫にあたる人物だったという。
本来ならエリマスを始め護衛たちが四方を固めていた。だが注意は騒ぎを起こした女性と乱闘を起こした当人たちに向けられ、まさか奥に控えていた次期当主が暴れるとは誰も予想していなかった。
「あ、こう見えてエリマスも結構腕をざっくりやられたんですけどね」
確かにエリマスの右腕は服が切れ、血が滲んでいる。
しかしその下に覗く肌には傷一つない。
(……加護が、効いたのか)
喜ばしいことだけれど、今はそれどころではない。
「癒術は何度か受けているんですが、今回は確かに全く効いている気がしませんね。ノーナの方はどうですか?」
「……いえ、確かに」
生死には関わらないとはいえ、痛みはあるはずだ。それでも口数が減らないのは、彼なりの意地なのだろう。
しかし遠慮なく力を注いでいるのに、まったく手応えがない。
試しに手を擦りむいた護衛に力を向けると、一秒も経たずに癒えた。
──となれば、これは私の問題ではないということ。
まるで逆さにしたグラスに水を注ぎ続けているような、途方もない感覚。
「エリマス様、そのテルクシノエ公爵家次期ご当主は今どちらに?」
「すでに憲兵が確保して王城の地下で拘禁されている」
「先にそちらを確認したいです。殿下には一般治療で、止血を急いでください」
周りには王城関係者が詰めかけている。ここは私が冷静に応酬しなければならない。
ちら、とエリマスに視線を送る。
およそこちらの意図を理解してくれたのだろう、小さく頷いた。
「すぐに案内しよう」
エリマスと護衛数名を連れ、私はオルフェンから離れようと──して、ふと足を止めた。
頭をよぎったのは、グレアムの件だ。
あの時は確かに致命傷だったとはいえ、癒術がまったく効かないことに強烈な違和感があった。
傷口から立ち上った、あの黒い渦。邪悪な声。
そして死者をも操る力。
「……申し訳ございません、エリマス様。……やはりここに、その方をお連れ頂くことは可能ですか」
周囲がざわりと揺れ、互いに顔を見合わせる。
「の、ノーナ様、さすがにそれは……」
「やはり私は今のオルフェン殿下から目を離せません」
この違和感には目を瞑れない。
だとして一か八かだ。
オルフェンか、それとも──次期当主とやらか。
「次期ご当主が殿下に刃を向けることの重大さを理解していないはずがありません。そして、こうも癒術が効かない傷を与えられたというのは妙です」
つまり、いずれかに人ならざるものの力が働いているのではないか。
言葉の外の意味を理解したのだろう。場の空気が凍りついた。
「……でしたら私がノーナと共に、彼の元へ行きましょう」
そう声を上げたのは、手負いのオルフェンだった。
痛みに歪む気配すら見せず、何でもないような顔をして私を見上げていた。
「え、あ、いえ、それは、」
「万一ここまでの護送で暴れられても困ります。しかもこの程度で大袈裟ですよ、……余裕で歩けます」
癒術師、侍医たちがそれぞれ目配せをする。
エリマスも何か言いかけようとして、しかし算段がつかないのだろう。何も言わない。
当然だ、この国の王太子はオルフェンただ一人。ここで何かあれば、たとえ本人の許可があったとしても──誰も責任を負いきれない。
「……ノーナの癒術が効かないというのは異常事態です。私自身がすでに何らか異形に取り込まれている可能性もある。であれば、聖冠の神子と護衛筆頭について頂く他ありません。……両名、何かあれば私の首を斬る覚悟でいてください」
その言葉を詰まらずに口にできる覚悟に、私は言葉を失い、ただただ感服した。
万全を期すため、簡易的な車椅子に乗せられたオルフェンの周囲は、エリマスを始め護衛の精鋭たちが固める。止血は施されたものの、傷は痛むだろう。唇からはやはり色味が消えているが、気丈に振る舞う姿勢は崩さない。
この対応について国王から簡易的な承認は得られたものの、この国唯一の王太子の一大事。聖殿からは大司祭ラダマンティスも召喚され、一行は大所帯となった。
(確かに、大司祭がいるのは私も心強い)
動揺せず落ち着き払った年長者であり、冥界の重要人物。私よりもこの世界を理解している。何かが起きてもうまく始末してくれるだろう。
王城の地下、処分を待つ留置場のような牢に通される。話は通されていたのだろう、監視の兵たちはオルフェンを見るや否や一斉に退き、頭を下げる。
地下牢とはいえ、相手は上位貴族。鉄格子こそあるものの、そこは漫画にあるような湿った石牢とは程遠い。床には厚手の敷物が敷かれ、冷気が直接伝わらないように配慮されている。
簡素ながら清潔な寝台と机が置かれ、空気は乾いていて、ただ罪人を閉じ込める部屋というより、判決を待つ貴族を一時的に隔離するための静かな一室といった趣だ。
「──テルクシノエ公爵家令息、ケイロン。面を上げろ」
項垂れたように椅子に座る男に、エリマスが声をかける。黒髪がぴくりと揺れ、ゆっくりと顔が上がった。
「え」
その顔を見た瞬間、喉の奥から短い声が漏れた。
それは、私自身の声だった。
どうしてここまで、一度も思い出さなかったんだろう。
(どうして、)
あの世界で私を討ったのは、オルフェンでも主人公のラミアでもない。
当然だ。私は不死の、糸績みの魔女なのだから。
信頼して力を授け、しかし裏切られれば死ぬ。
信じた相手に殺される──そんなドラマチックな演出のために作られた存在。
「……ノーナ?」
オルフェンの、わずかに不安を含んだ声に、私ははっと我に返った。
ここは、あの世界じゃない。
「これはこれは……今ここに火でもつければグラナトゥム王国は一日にして傾くでしょうね」
ケイロンは仄暗い笑みを浮かべた。私は思わず、その顔から目を背ける。
『ペルセポネの冥戦』で、私を討った相手。
それが今、目の前にいるこの男だと──頭の奥が警鐘を鳴らしている。
名前を聞いても何も感じなかった。
それどころか、ここに至るまでその存在ごと記憶からごっそり抜け落ちていたはずなのに。
身体中の血液が逆立ち、どくどくと胸が不自然に鳴る。
冷静に、ならなければ。
「……戯言を吐く余裕があるなら殿下への謝罪でも述べて減刑を乞え」
「メレアグロス公爵閣下ともあろう方が、これはまた。立派な血をお持ちなのに、坊ちゃんの御守りがすっかり板についておられる」
大司祭の方へ視線を向けると、その穏やかな目と目が合った。
ゆっくりと小さく首を振る。
目の前の男には、少なくとも表面上は異常が見られないということだろうか。
相手にとって私は初対面のはずだ。
けれど、どうしてもまともに顔を見ることができない。
今まで忘れていたことさえ忘れていた記憶が、映像が、濁流のように流れ込んでくる。
あの世界ではケイロンという名でしか認知していなかった。同じようにテルクシノエ公爵家の嫡男だったのかどうか、私は知らない。
私という存在に価値を見出し、信頼を勝ち取り、人間でありながら冥王軍に与し、私を巧みに操り、──そして最後には、人間を裏切れずに私の不死を終わらせた男。
ただの、紙面上の記憶だ。
感情は乗らない。
なのに。
「身分を偽ったご夫人への怒りから気が触れたか」
「夫人? ……ああ、あの女のことなど取るに足りませんよ。始末し損ねたのは惜しまれますが」
エリマスとケイロンの問答が、頭に入らない。
「お辛そうですね殿下。王城には国随一の癒術師がおられるでしょうに、その程度の傷も治せないとは」
嘲笑が響く。はっとオルフェンを見下ろすけれど、その表情は動じず凪いでいた。
「いくらテルクシノエ公爵家が現王家の遠縁とはいえ、今回の件、陛下も非常に重く見ておられる。今頃ご当主の心労はいかほどのものか……」
オルフェンが無感情にそう告げると、ケイロンは喉を鳴らした。
「おや、私の罪はそれほどでしょうか?」
「……何?」
「だって殿下。──貴方には尊き王族の血が流れておられないではないですか」
空気が歪む気配に、ぞくりと悪寒が走る。
「貴方は紛い物。私の妻と同類です。ご自身がよくお判りかと」
エリマスが柄頭にかけた手を、オルフェンが静かに制した。
「ええ、年甲斐もなく取り乱しましたこと、まずはお詫び申し上げます。紳士たるもの、若い方に手を上げるなど本来あってはならぬこと。……ただ、いかなる事情であれ"偽物"に当家の沙汰を仰がれるとなりますと穏やかではいられず。どうかその点、お汲み取りいただければ幸いです」
「貴様……」
(……オルフェンが偽物?)
そんな話も噂も、聞いたことがない。
「メレアグロス公爵閣下だってご存じの通り。陛下は幼少の頃に病で子種が──」
風を裂く鋭い音。続いて金属が金属にぶつかる硬い衝撃が鼓膜を震わせた。
思わず顔を上げると、ケイロンの頬のすぐ横、石壁に短剣が深々と突き刺さっていた。
「……なるほど。貴殿も何らか異形に心を操られているものとみた」
エリマスの声は低く、硬く、この場を強引に終わらせようとする意図がはっきりと滲んでいた。
目で合図を送ると、オルフェンの車椅子を押していた護衛が慌てて踵を返す。
ケイロンの視線から逃がすように、オルフェンは強引に背を向けさせられた。一方ケイロンは俯き、肩を揺らしてくつくつと笑う。
愉快で仕方がない、とでも言うように。
「大司祭。この一区画であれば結界を張っていただくことは可能か」
「ええ、その程度でしたら」
狂気の言葉として、ここでは記録にも記憶にも残さない。
それが、この場に立つ者の取るべき唯一の処置だった。
「──殿下、申し訳ございません。御身を危険に晒しておきながら、何の成果も得られず……むしろ不快な思いをさせてしまい」
その夜、オルフェンは治療の場を自室に移し、その手当にあたるのはごく限られた者だけになっていた。
そこは王太子の私室でありながら、静謐さを重んじた造りは彼の人柄を表している。
余計な装飾はなく、深い藍色の絨毯が床一面に敷かれ、整えられた机と書架、そして寝台──どれも質素ではありながらひとつひとつが上質で、王家の品位を静かに物語っている。
「とんでもない。こちらこそ、お恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
「そんなこと、」
痛々しく巻かれた白い包帯が、首元から覗く。
あの後、大司祭とエリマスが徹底的にケイロンの身辺を洗ったものの、結論は"何もない"だった。一方でオルフェンの身体にも、傷が治らないという事実以外に異常は見つからず、大司祭でさえ首を捻っていた。
「それよりもエリマスを同席させなくてよかったんですか? 貴女が私と二人きりになるとやきもちを妬くのでは」
「……さすがに状況が状況ですので」
容態が変化してもすぐ対応できるよう、複数の癒術師が控えている。
出血は止まったものの、侍医の見立てでは今晩にも熱が上がるだろうとのことだった。




