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 引き摺られるように馬車から降りた先には、空いた腹を鳴らすには十分すぎる香りが漂っていた。鼻腔をくすぐるのは、焼いた貝の香ばしさと、白ワインの酸味が混ざった湯気。

 せり上がるのは郷愁。食欲をそそる香りに、思わず私は呆けてしまう。


「ここは……」

「君は魚介類が好きだろう。王城の食事でも明らかに反応が違うと聞いた」


 正面から入ると給仕がすぐに駆け寄り、さっと奥の通路へと案内してくれる。いわば上客用の席なのだろう。あれよあれよと個室に通され、薄明るい照明の下、私はまるで先日のリベンジでも食らっているかのようだった。

 メニューを見せられても並ぶ言葉の羅列に馴染みがなく、全ての選択をエリマスに丸投げした。

 料理に思いを馳せるほど、この状況に余裕がなかったとも言える。


「──明日にでも殿下には断りを入れる。場合によっては君も同席させるからな」


 食前酒に口をつける仕草も一級の貴族のそれだ。

 何故か見てはいけないものを見たような気がして、思わず目を逸らす。


「……あの、エリマス様」

「私は君がこれ以上自分の宿命や情勢に悩むことがなくなってから求婚しようと思っていた」

「求、」


 先ほどのやりとりから、文脈から、分からないふりをしたつもりだった。脳は理解を拒絶するのに、唇の端が震える。

 あり得ない。


「そうでないと私がいくら何を言おうが、自分の利用価値がどうだとかよく分からない被害妄想をして突っ走るだろう君は。何を言っても無駄だろうと」

「……」

「こちらが慎重に考えているところをまぁあのバカ王子、焚きつけたいんだか喧嘩を売りたいんだか……」


 その時、運ばれてきたのは色とりどりの魚介料理。

 白身魚のポワレは皮目に香ばしい焼き色が乗り、貝の蒸し物からは海の香りがふわりと立ち上る。皿の縁に落ちるソースの艶が、灯りに照らされて揺れていた。

 給仕が下がると、胸の奥で張り詰めていたものが、どろりと溶ける音がした。


「人間、腹が空くとろくなことを考えない。まずは食べろ」

「……はい」


 いそいそとナイフを入れ、そっと口に運ぶ。

 王城に来てから何度も味わったはずの高級料理なのに──舌に触れた瞬間、ふっと記憶が引き戻された。

 

(結婚式で、食べた味だ……)


 何度目の式だったか、誰の披露宴だったかは思い出せない。

 煌びやかな高砂に向かって拍手をした、朧げな景色。スマホを向け、動画を撮り、集合写真を撮り、新郎新婦の肩に手を載せて。


 忘れていた。

 私は、この世界の人間じゃない。


 なんて、今更言ったところで、誰が信じられるだろうか。


「……おいしいです。今までで、一番」






 しんみりしておきながら遠慮なく料理をたいらげた私は、店を出て大きく息を吸い込んだ。

 雨あがりの、夜の匂いだ。濡れた石畳は海面のように眩く、灯りがきらきらと反射して映る。


「エリマス様」


 その手を取り、馬車に乗り込む。

 私も、エリマスも、互いにこの世界で生きている。


「これは決して己を卑下するが故の判断ではありません。その上で聞いてください」

「……何だ」


 緊張が伝わってしまっただろうか。エリマスが怪訝な顔をする。

 今度はそのセレストブルーから、逃げないように。


「あの、やはり、エリマス様からのお申し出を受けることは」

「しつこい。君はやはり自分の立場が分かっていない」

「え」


 エリマスはぞんざいに足を組み直し、窓枠に肘を置く。


「私はメレアグロス公爵家当主であり、前正妃の実子で現王の弟。君もよく理解している通り」


 その瞳に、呆れが滲む。


「そんな私の申し出を伯爵家の養女ごときが断れると思うな。君の意思は聞いていないし、聞くつもりももうない」

「いや、あの、」

「こちらが散々事情を汲んでやってもこうだ。全くアルカヌム伯爵は一体どんな教育をなさった? どうしても逃げたいなら、親愛なる冥王陛下にでも掛け合えばいい」


 嫌な笑みですら、恐ろしく絵になる。

 呆気に取られた私は何も言い返せなかった。


「私を狂わせた責任は生涯かけて払って頂こう。魔女殿」


 私はずっと、正しい選択をしてきたはずなのに。




◆ ◆ ◆




「……というわけで彼女は殿下の元へは下れません。今後お戯れで翻弄なさるのはやめて頂きたい。良くも悪くも素直なので振り回されます」


 その翌日、本当にオルフェンとの謁見を取り付けたエリマスの隣で、私は小さく縮こまっていた。

 ほとんど息継ぎもなく事の次第を説明しきったエリマスの台詞に、オルフェンはぱちりと目を瞬かせ──しばらく呆然としたあと、天井を仰いで笑い出した。


「あっはっは! そうですか……ああ、ノーナ、さすがです。この叔父上相手によくここまで行動させましたね。感服しました」


 目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、オルフェンは私たちに向き直る。


「ええ、分かりました。ノーナのことは諦めましょう。貴方だけは敵に回したくないですから」


(あの時のオルフェンの言葉が冗談や挑発だったとは、思えないけれど)

 しかしこの場でそんなことを言えるわけもなく。


「それで? お二人の婚約発表はいつになさるんです。ああ、まずは王城内だけでも内示を出しておきましょうか。噂が先行しても厄介だ」

「ぜひそうなさってください。アルカヌム家にはもう早馬を飛ばしましたし」

「え゛っ」


 思わず蛙を踏んづけたような声が漏れた。


「しかし残念です。この数日、ノーナとの生活に思いを馳せていたのに」

「そうですか。金輪際想像なさらないで下さい」


 ぴしゃりとそう言い放ったエリマスは、まだ湯気が立ち上るカップを呷り飲み干すと、余韻もなく腰を上げた。


「それから、今後よほど用がない限りノーナと二人になることはお控え下さい。護衛とはいえ、彼女の攻撃力はほとんど並みの人間と変わりありませんから」


 愉快そうに微笑むオルフェンに見送られながら、私は何度も頭を下げ、エリマスと共にその場を退席した。



「あの、……エリマス様」


 言い出したところで、もう遅いことは分かっている。

 エリマスが本気を出せばほんの数時間で事は進むのだ、確かに今まで加減や遠慮をしていたというのは確かなのだろう。


「? なんだ」

「実は昨日、メガイラに会いました。会話をしたのはほんの少しですが」


 外廊の真ん中、じんわりと暑くなってきた日差しが差し込む。

 裏庭の木々は青々と茂り、湿度を含んだ風が頬を撫でる。


「それで、その。確かめたところ、やはり私の霊液(イコル)は戻っていないようで」

「……そうなのか」

「おそらく普通に生活する分にはあまり影響はないと思われるのですが」


 しかしこのまま進めば、後に引けなくなるのはお互いだ。

 意を決し、顔を上げる。


「唯一支障があるとすれば、このままですと子を為しづらいそうで……」


 エリマスは、固まっていた。


「…………子?」

「為しづらいということでしたから、全くというわけではないのでしょうが」

「いや、君、……子供を為せるのか?」

「え、あ、ああ、確かに彼女に言われるまで、私も同じように……」


 互いに顔を見合わせて、そしてはたと我に返る。


 エリマスもまた、私に子供ができないかもしれないと思っていたのか。


 それでいて、私に求婚しようと?

 天下の公爵家当主たる彼が?


 ゆら、とエリマスが姿勢を崩したかと思えば、まるで気が抜けたように、その頭が私の肩に寄りかかる。

 癖なのだろうか。慌てて踏ん張ると、往来の真ん中だというのにその手がするりと背中に回った。


「……そうか……」

「あの、え、……エリマス様」


 顔を見られなくて、都合がよかった。

 近くにいた侍女がはっとしたように目を逸らし、逃げるように通り過ぎていくのを、私はぐっと目を瞑って堪えた。









(……とはいえ、オルフェンのことは心配だな)


 自分のことを棚に上げていることは分かっているけれど、しかし気がかりだった。


 あれから恐ろしいほどにトントン拍子で事は運び──エリマスとの婚約の内示についてはアルカヌム家から光の速さで快諾と祝辞が届き、懸念していた国王陛下からも、オルフェンとの件を何ひとつ追及されることなく了承を得た。


 ただ、正式に婚約してしまえば私はオルフェンの護衛を下り、公爵夫人としての準備に入らなければならない。

 それだけは固辞し、もうしばらく時間がほしいと訴えた。

 その結果、危うく王城の荷物をメレアグロス公爵家に強制送還されかけたところをしがみついて阻止し、なんとか彼の居室の隣に移す、というところまで妥協させることに成功したのだけれど。


「……いい加減ご自身の部屋でゆっくりお休みになられては?」

「自分にどれだけ前科があると思ってるんだ。君に隙を与えると失踪しかねない」


 エリマスはよほど仕事が遅くならない限り、私の部屋に転がり込んで眠るようになった。

 とはいえ、手は出されていない。

 正しくは危うく出されそうになったタイミングで『その瞳の奥からステュクス神に見られているかもしれないでしょう!?』と叫び、それ以来事なきを得ているのだけれど。


「そういえば聖殿の禁書庫に行っていただろう。何を探していた」

「あ、ああ……いえ、実は、気がかりなことがあり」


 この違和感が、エリマスに通じるだろうか。


 しどろもどろになりながら、何故これほどまでに災厄がグラナトゥム王国に集結するのか、その理由がどうしても腑に落ちないことを説明する。

 そしてもう一つ。


「エリマス様が私の糸や、ラミア様の黒い靄を目視できたのが……私の加護の影響ではなく、内に潜むステュクス神の力だとしたら、です」


 未だ、答えが出ない疑問。


「オルフェン殿下も……私があの黒い異形から霊液を奪われ、ラミア様が聖冠の神子として認められたあの頃から見えるようになったと」


『彼女が聖冠の神子になってから癒術を使う時、妙なものが見えるようになったんです』

 彼自身も戸惑っているようだった。 


「……殿下にも?」


 エリマスは眉を顰める。


「大司祭様に集る黒い蛆も見えていらっしゃるようでした」

「ああ……私には見えなかったが」

「この理論で行くと、殿下にも何らか人ならざるものが干渉していると考えるのが自然ですが、あの場にいた冥王もティシポネも、殿下には何も反応していませんでしたよね」


 ずっと近くにいた大司祭ですら、オルフェンについては言及していない。


「むしろ殿下と同じように、他に見えている人間がいないか探した方が良いんじゃないか」

「ですが、だとすると私が糸を振りまいて歩くくらいしか案が浮かばず……」


 見える人間はきっと腰を抜かすだろう。エリマスが「それは現実的ではないな」と半笑いで肩を落とす。


「しかし、一つ目の疑問については私も妙だと思っていた。最初に君が赤い……ティシポネに出会ったのはフレゲトン王国だっただろう。つまり彼らの行動域はこの国に制限されているわけじゃない」


 だが実際にティシポネたちが断罪して回っているのは、アーテに影響されたグラナトゥム王国の人間ばかりだ。


「この国か、あるいは場所そのものが何か彼らにとって因縁の土地なのか……か」

「と、思って禁書庫を探したのですが、それらしい文献は見つけられず」


 まるで絡まった鎖を引けば引くほど、さらに絡まっていくようなもどかしさ。


「それこそ冥王に聞けば分かるんじゃないか」

「しかし聞いたところでこちらが何かできるわけではないですからね……」


 頭を抱えた、その瞬間だった。

 ふいに腹部にぐるりと腕が回り、私はそのまま寝台へと引き倒される。


 未婚女性にかける技ではないだろう。思わず受け身を取りながら「何するんですか!?」と憤慨すると、エリマスは突っ伏したまま肩を震わせて笑っていた。


「そ、そんな、綺麗な受け身を、取るとは……」

「散々貴方が訓練だなんだと扱いて下さった成果でしょうね!? もう、こっちが真面目な話をしている時に!」


 綺麗なプラチナブロンドに枕を投げる。それでもエリマスはまだ笑っていた。


「はぁ……ただ、私たちに力が及ばないことがあるとはいえ、少なくとも今の殿下は精神的に危ういとは思っていた。君に縋ったのも半ば嘘ではないんだろう」


 ようやく呼吸を整えたエリマスは、寝台の上で足を崩し、頬杖をつく。


「悪いものに取り込まれないように気を配った方がいいだろうな。改めて私は王位に興味はないと伝えたが」

「……とは言っても、それこそ対策のしようがないというか……」

「殿下には年の近い友人もいない。兄上……陛下が相当過保護に育てたせいだ」


 溜息が重なる。


「この状況で万一君が懐妊してはまた王城が混乱するだろうし、私としても殿下にはそれらしいご令嬢と円満にくっついて頂きたい」

「な、何を、」


 すり、と骨ばった手の甲が腹部を撫でていく。


「……健全な夜はそう長く続かないだろうし、今のうちに感謝して眠ると良い」


 全身の肌が粟立ち、私はリネンを引っ掴んで丸まり寝台の端で背を向ける。


「出た。なんなんだ君のその無駄な抵抗は。子供か」

「ステュクス神が見てるんですから……」

「ステュクスは君の親か?」


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