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 私とティシポネが互いに口を動かすだけで声が聞こえないことに気付いたのだろう、エリマスの刺すような視線を感じて、私は術を解いた。


「あと、もしケルベロスがここで復活しても、私たちの頭がかじられるようなことだけはないように何卒……」

「もちろん」


 手のひらと指先に意識を集中させ、腕の中の温もりへ力を注ぐ。

 相手は冥界の猛獣。犬猫どころか、獣に施術した経験すらない。何がどうしてこうなったのかも分からない以上、加減が分からない。

 大司祭に施した時の感覚を頼りに、細い針に糸を通すように、身体の奥の力を探る。


(……そういえば)


 ケルベロスも確か、ゲリュオン同様に頭が三つあったはずだけれど、この子犬はそうではない。

 何らか複雑な術でもかけられているのだろうか──

 

 暗闇の中に一筋の光を見つけたような感覚が走る。

 そこへぐっと力を籠めると、子犬がぱちぱちと光を放ち始めた。


「えっ」


 失敗は許されない。

 花火のように眩い光を散らしながら、子犬が私の腕からふわりと浮かび上がる。


「……素晴らしい」


 ティシポネの低い感嘆が落ちる。


「えっ、ちょっ、大丈夫ですかねこれ……!?」


 私の声に誰も応えない。

 手の届かない高さまで浮かんだ光の塊を、全員がただ見上げていた。

 後ずさった背中がエリマスにぶつかり、(かば)うように肩を抱かれるが、今はそれどころではない。


 私が助けたのは本当に、犬だったのだろうか。


 刹那、夜闇を裂く閃光に思わず目を(つむ)る。

 視界が白む中、そろりと瞼を上げると──二メートルを優に超える、漆黒の(さなぎ)が宙に浮かんでいた。


 誰もが息を呑み、言葉を失う。

 解き放たれたのは、ケルベロスではない。

 喉が震えるのに、声が出ない。

 視界の端で、大司祭がその声に膝を折った。


【……長年の奮戦ご苦労であった、ラダマンティスよ】

「とんでもございません、我が主」


 こんな展開、聞いていない。


 蛹の殻が剥がれ落ちるように黒い欠片がぱらぱらと散り、私も、エリマスも、オルフェンも、指先ひとつ動かせなかった。

 現れたのは血の気のない青白い皮膚、黒檀の装いに包まれた長身。

 例えるなら蝙蝠(こうもり)か、烏か──纏う空気は、世界そのものの温度を変えるようだった。

 薄い瞼が静かに開かれる。

 黄金の瞳は獰猛類のように鋭く、しかしどこか穏やかさを湛えていた。


「神々が揃って畏れ逆らえぬというその実力、確かなようだ」


 魅入られる。

 年齢などという些末な尺度では測れない、しかし円熟した、壮年紳士然とした出で立ち。


「騙すような形でお力を借りることになり、申し訳ない。運命の女神よ」


 冥王が腰を折る。

 私は間抜けに首を横に振るしかなかった。

 目の前にいるのはまさしく、ここに至るまでずっとラスボスだと思っていた相手──冥界の王。


「なぜ、あ、貴方が……」


 こんな相手に人間ごときが、勝てるはずがない。


「いやぁ、油断してうっかり犬にされてしまってね……困っていた。全くティシポネ、もっと穏便な方法はなかったのか」

「どうにもポベトールを使って訳の分からない悪夢を刷り込まれていたようです。陛下が敵だと信じて疑わず」


 『ペルセポネの冥戦』において、冥王を討つことができるのはステュクス神から選ばれたオルフェンただ一人。

 エリマスやレミジオ、ラミアはオルフェンをなんとか冥王の元へたどり着かせるためのいわば尊い犠牲。

 本来、神を打倒するなどあり得ない。


「曰く、陛下がペルセポネ様が人間の男に浮気したのを怒って、人間界を滅ぼそうとしていたことになっておりました」

「えっ僕が? 自ら過労になろうと?」

「でしょう。いかにも下賤が考えた戯曲(シナリオ)ですこと」


 ティシポネと冥王の軽快な会話に、私は完全に置いて行かれていた。

 ふと、エリマスが柄頭に置いていた手をそっと下ろすのが見える。


「……ミス・ティシポネ。そちらの御前はどなたでしょうか」


 すでに答えは分かっている。

 けれど、確かめるように発せられたオルフェンの声は、わずかに震えていた。



「冥界を統べる王──ああ、貴方がたにとって長年恐るるべき仇となっていたその方よ」



 美しい銀の総髪。

 目尻の皺は穏やかで、とても人類を脅かす存在には見えない。

 『ペルセポネの冥戦』で常に禍々しいオーラを纏っていた姿とは、あまりに違う。

 昼間対峙したアドラストス猊下の方が、よほど仇らしい顔つきをしていた。

 冥王は視線をオルフェンへ、そして私の隣のエリマスへと移し、静かに目を細める。


「おや」


 自分に向けられた意識に、エリマスがわずかに構えた。


「……なるほど」


 冥王がエリマスへ指を向ける。

 ぽう、と応えるようにその指先が灯り、冥王は納得したように頷いた。


()()ステュクス。加護の身代を隠れ蓑にするとは、中々妙案だ」

「え」


 ステュクス。──盟友?


「それは……どういう、意味でしょうか」


 エリマスの声がわずかに上擦る。

 冥王は愉快そうに鼻を鳴らしながらも、どこか寂しげに眉を下げた。


「ステュクスは神々の戦いで随分弱ってしまってね。今や我々のように実体を保つことすらできぬ身体となった。このラダマンティスは人間界に紛れ、唯一彼女を救える"聖冠の神子"を探していたのだよ」


 大司祭は小さく頷いた。

 何もかもが、嘘のように思える。


「しかしその今生の聖冠の神子はアーテに先を越されてすでに命を奪われた後……だがその身体に宿っていれば、しばし英気を養うことはできよう」


 オルフェンと私はほとんど同時にエリマスを見上げていた。

 エリマスは何か言おうと口を開いて、けれど呆然としたまま動かない。

 私は思わずティシポネへ視線を向ける。

 だが彼女も知らなかったらしく、目が合うと人間のような表情で「今知った」と口をぱくぱくさせた。


「せ、聖冠の神子は過去にもいらしたはずでしょう」

「左様。ただ聖冠の神子であれば誰でもよいわけではないのでね。ゆえにかれこれ千年、まだステュクスに救いの手は差し伸べられていない」


 千年。

 それはまさに、私たちが今日まで伝説として信じてきた時間軸と同じ。


「にしても、本当に記憶がないのだね。困ったものだ」


 はっと我に返り、私は冥王を見上げる。


「その……私が失っているという記憶は、忘却の神レーテに交渉すれば取り戻せるのでしょうか」

「どうにもアーテに持ち出されているようでね。いやはや、貴女には干渉してはならない取り決めだし、本当に困っていた」


 なんだそれは。


「干渉してはならないとおっしゃられるなら、どうしてこんな」

「それはラダマンティスのおかげだ。彼は神々にも大いに信用されている。彼が嘆願するならばとこの場は設けられた」

「であれば、その、あのように脅したりせず……」

「ほうら見ろ、ティシポネ。だからメガイラに任せた方がいいと僕は言ったろう」

「だって──」


 信じられない。

 かといって騙されているとも思えない。

 圧倒的強者を前に、抗う術などない。そして相手からは一切の敵意が感じられない。

 まるで久しぶりに会った親族のような、あるいは恩師のような眼差しが向けられていた。


「アーテを確実に仕留めるには、本来ステュクスの力が必要だ。しかしこの通り……今は人間の身体に宿り、わずかに力が残るだけ。あの愚か者のことは我々でなんとか生け捕りにするけれど、それまで君たちには迷惑をかけるかもしれない」

「……私の力でも、ステュクス神はどうにもならないのでしょうか」


 自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。

 冥王の目尻の皺が優しく、深くなる。


「貴女にそう言ってもらえるのは大変ありがたいが……人間の医師に得手不得手があるように、こればかりは力の及ばぬ領域だよ」


 その言葉は突き放すようでいて不思議と温かく、胸の奥がじんと痛んだ。

 冥王の視線が、そっと私の表情を探るように動く。

 その静かな眼差しに、言葉が喉で止まる。何も言えない私の目の前に、大きな手が差し出された。


「それにしても……何代にも渡って貴女の魂を見てきたけれど、今生は特別苦労が多かったようだ。ここまでよく耐え抜いてこられた」


 手を取るべきか惑う私の手の平が掬われる。死の世界を司る王の手は、驚くほど温かかった。

 ちら、とその目が私の背後へ向けられ──何かを確かめるように、静かに戻ってくる。


「偉大なる魂に、どうか幸運が訪れますように」


 その言葉が胸に落ちるより早く、大きな羽音が立ち、黒い羽が無数に眼前に広がった。

 風圧に目を瞑り、そっと瞼を上げた時には、冥王もティシポネも、床に転がっていたトランクさえも跡形もなく消え去っていた。



 現実の方が夢のように思えるほどの静けさが残っていた。

 私は腰が抜け、よろよろと地面に手をついた。見上げれば満点の星空が広がっている。


 しばらく誰も言葉を発せなかった。

 柔らかな夜風だけが、静かに肌を撫でていく。


「……大司祭。貴方は……」

 

 緊張した面持ちのオルフェンが大司祭を前に身を屈めると、何かから解き放たれたような表情の大司祭──ラダマンティスが微笑む。


「オルフェン殿下、……己が身分を申し遅れたこと、深くお詫び申し上げます」



◆ ◆ ◆



 気づけば、東の空が白み始めていた。


(徹夜か……)


 冥王とティシポネが去ったあと、私たちは怒涛のように後処理へ追われていた。


 まず幸いだったのは、ティシポネに続いて冥王までもが、私を“運命の女神”と称したくだりを、オルフェンに聞かせなかったことだ。

 あれは彼らなりの気遣いなのだろう。

 あるいは人間、とりわけ権力者を信用していないからこそ、私が利用されることを危惧したのかもしれない。



 その後、残った大司祭──ラダマンティスから、大まかな真実を聞かされた。



 神々の世界で追放され、人間界へと落ちたアーテは、弱い人間に付け込み人間同士を争わせることに快楽を感じているようになっていた。

 度を越すたびに連れ戻されては罰され、しかしまた人間界に干渉する。そんな悪循環を繰り返すうち、アーテはついに一部の神々を仲間に引き入れ始めた。


 アーテのせいで人間界の死者が増え、困り果てた冥王は、唯一神々を罰する権利を持つステュクスを伴い、アーテを奈落へ投獄した。

 だが千年前、神々の戦で重傷を負ったステュクスの隙を突き、アーテは脱獄。仲間を連れて再び悪行を繰り返すようになった。


『以前は神々を癒す名医、パイアン殿がいらしたのですが』


 しかし彼もまた上位神を怒らせ、その力を封じられた。

 とはいえ名医を失って困るのは神々自身。

 妥協として、彼の力を継ぐ者──聖冠の神子を定期的に人間界へ生まれさせることにした。

 ただし治療を受けられるのは、聖冠の神子から信頼を得た神のみ。

 それは、アーテのように罪を重ねた神が、その力をさらに強めてしまわないようにするためだという。


 そう聞いた瞬間、私は思わずエリマスと顔を見合わせた。

 糸績みの魔女とまるで同じような条件だ。力が働くのは、信頼を結んだ相手だけ。


『そういう訳もあって、とにかく私は冥王陛下の命を受けてからというもの、時には身分を変え、ステュクス様が崇められる世界にと尽力したのです』


 こうしてステュクス教が生まれ、子どもたちは生まれた時から、ぼんやりとステュクスの名を心に宿すようになった。


『しかし昨今、先ほどお話にもあったポベトール殿がアーテの手を取ってしまい──』


 悪夢を司る神ポベトール。

 彼によって、冥王を討つべしという伝説が、まるで古来からあったかのように、人々の頭へ刷り込まれてしまった。




『──何もかも、にわかには信じがたいですね』


 話を聞き終えたオルフェンは頭を抱えていた。


 話を繋ぎ合わせれば一つの結論に行き着く。

 つまり、ステュクスに封じられていた冥王が復活してティシポネたちが動き始めたのではない。

 冥界側でアーテを抑えていた冥王が封じられた──その空白こそが、今回の異変の始まりだった。


『しかし、ああして冥王が元の姿に戻ったということは、少しは状況は好転するのではないでしょうか』

『よく考えたら私たち、本当の冥王復活をこの目で見てしまったわけですね』


 エリマスの真顔に、へらりと笑うオルフェン。

 冗談めかしたその笑みは、今の誰の心にも届かなかったらしい。

 シン、とその場は静まり返った。


『とはいえ、この話をそのまま持ち帰っては私たちが冥界に魅入られ、騙されていると思われてもおかしくはありません』


 ただでさえ聖殿での騒動で、王城内は揺らいでいる。


『エリマスの身に本当にステュクスが宿っているというのもまた信じがたい。加護の身代……というのは、ノーナの力を得ているからという意味ですよね』

『……と、いうことかと』

『なるほど』


 寂しげに頷いたオルフェンは、困ったように眉を下げた。


『やはり叔父上には、神をも操る才がおありのようだ』




 しかし私たちは、明星と共に驚くことになる。

 昨夜からわずか数時間で、王城はまるで別の場所のように変わり果てていた。



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