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『ペルセポネの冥戦』の主な舞台となるこの国の名はグラナトゥム王国。
現王家の歴史は四百年にのぼる。が、ステュクス神を敬うステュクス教は国教としてそれ以上に長く浸透している。
人間同士、国同士の戦争はここ数年落ち着いているものの、それよりも『ステュクス神の予言』──封印されし冥王が近々再び目を覚まし、この人間界に災厄をもたらすという予言が王国民を脅かしている。
というのが、いわばこの世界の大前提の設定だ。
日本の暦で言えば、今は十月。
転生した中でも不幸中の幸いか、日本の四季を踏襲したこの世界は私の肌によく馴染む。空気は乾いていて風は涼しく、陽射しは柔らかい。王城の石畳も朝露を吸った芝も、どこか見慣れた秋の景色に似ていた。
現在、ここは王国騎士団の訓練場。
エリマスが騎士団長の隣で何やら耳打ちし合っているのを、私はぼんやりと眺めていた。
陽光を受けて、彼の美しいプラチナブロンドの髪がさらりと揺れる。その背中は私がかつて紙面越しに見ていたものよりずっと現実味があった。
──国王およびその他諸々の承認はひとまず滞りなく通り、私はエリマスと共に王太子オルフェンの護衛の一人として任を受けることになった。
滞りなくというには語弊があるかもしれない。
客人であり恩人であり神子でもある私にそんなことはさせられないという異議申し立ては各方面からあったものの、それこそ神子らしい偽善的な台詞を並べ立てて全て跳ね除けた。
事実、あのエリマスが右目を負傷したことも大きいだろう。次期国王の命を狙う者が多い中、護衛を志望する者などなかなかいないはずだ。
『ペルセポネの冥戦』における中ボスとしての私の能力は、不死だけではない。俗っぽく言えば、味方の防御力を無尽蔵に底上げするチートスキルを持っている。
これが私が詐称した"聖なる加護の力"の正体だった。
ただしこの能力には発動と維持に条件がある。
対象を心から信頼していなければならない──つまり、脅されていたり操られていたりする状態では、発動も維持もできない。
悪役の能力にしては妙にファンタジックな設定だと思う。
主人公ラミアとオルフェンは私の登場に苦しみ、結果この戦いだけで一巻近くを消耗したわけで。
(まあ実際、右目が治ったのが何よりの証左だろうし、放っておいてもいいんだろうけど)
「ノーナ」
それにしても、同僚になった役得が大きすぎる。
推しに名を呼ばれるようになるなんて、転生者冥利に尽きる。
「なんでしょう、エリマス様」
働くことには多少の懸念があったが、侍女たちに交じって働くよりはずっと過ごしやすい。
護衛とはいってもオルフェンの外出に付き従うのが主な任務で、よほどのことがなければ無言の同行者に近い。
この立場に就いた私の目的は二つ。
一つは、エリマスの防御力がどこまで増幅されているかの確認。
もう一つは、私が良いタイミングで退場するための機会を探ること。護衛にでも就けば、適当にオルフェンを庇って死ぬのがスムーズだろう。
王城に立てこもっていては、死亡フラグも立てようがない。
「十日後、同盟国フレゲトンで行われる次期国王陛下の即位式にオルフェン殿下もご出席されることになった。午後はその会議に出席するように」
「承知しました」
エリマスの態度は私を特別扱いすることもなく、同僚らしくさっぱりしている。
それが今の王城での私の過ごしやすさに直結している。
一方、私も私で『ペルセポネの冥戦』にいた最推しエリマスと、今目の前にいる彼は別物だという結論が出ている。
元々コスプレや二.五次元にあまり興味はない方だった。
私が好きだったのは、あくまで平面世界、二次元の中のエリマス・メレアグロス。実写版はまた別コンテンツ。
概念としては推しているけれど、その姿を見る感情は、もはや孫に向けるものに近い。孫を持ったことはないが。
「──お身体、冷えていませんか? もしよろしければ、紅茶か何かお持ちしますが」
「ガレネ卿、ありがとうございます。お気遣いなく」
副騎士団長レミジオ・ガレネは、物腰柔らかで礼儀正しい美男で、人気投票では堂々の八位。
にもかかわらず、彼もまた九巻で冥王軍についたティシポネの奇襲により、あっさり退場する。
あまりに悲壮な死だったせいで、しばらくはレミジオ追悼ショート動画を目にしない日はなかった。
頬杖をついて眺めていると、演習場の空気が一変する。どうやら訓練が再開されたようだった。
号令が響き、騎士たちの掛け声が重なり、剣が打ち合う音が耳をつんざく。
秋の乾いた風が砂埃を巻き上げ、視界が濁る。思わず目を瞑ると、柔らかい声が落ちてきた。
「あの、ノーナ様」
隣に立つレミジオは演習が始まっても微動だにせず、少し間を置いてから気まずそうに言葉を続けた。
「ご実家に査察が入ったと伺っておりましたが……潔白が晴らされたようで、何よりでございます」
彼の言う通り、私の育ての親たるアルカヌム伯爵家には、昨日まで王家直下の査察使一行が入っていた。
「……さすがお耳が早くていらっしゃいますね」
「エリマス様も心配しておられましたから」
予想していなかったわけではない。
特異な力を持つ私、そしてアルカヌム伯爵家が、王弟であるエリマスを擁し、現王太子オルフェンからの王位継承権を簒奪しようとしているのではと疑われるのは想像通りの展開だった。
もちろん実際に怪しまれていなくても、王太子派の貴族たちを安心させるためには建前として査察を入れる必要がある。
それくらいの政治的配慮はさすがに理解している。だからこそ、これに備えて一点の曇りもないように立ち回ってきたわけで。
結果、当然ながら答えはシロ。そうでなきゃ困る。
「それにしても、さすがは聖冠の神子様。昨日見せてくださった癒術の速さと正確さ、宮廷侍医も驚いておりましたよ」
「とんでもございません」
私が護衛の任を得られたのは聖冠の神子が本来持つ癒術──正確にはそのモドキの術を使えるからに他ならない。
エリマスにかけた力ほどではないにしろ、それっぽく振舞うことはできる。
あとは主人公が登場するまでは慎ましく、穏やかな退場の準備を進めるのみ。
「しかしこんなことを申し上げるのは憚られるのですが……てっきりノーナ様はエリマス様とのご婚約を望まれるものとばかり」
その疑問は順当かつ自然なものだろう。思わず口角が上がる。
「滅相もないことです、ガレネ卿」
それはあり得ない。
「私が望むのはエリマス様の最大幸福の実現に他なりません」
「最大幸福……?」
「そのためなら、私は死をも恐れませんよ」
そう。
エリマス・メレアグロスのその腕に、愛する者を抱かせることこそが至高。
私に課せられた使命、それはそこまでのレッドカーペットを美しく整えること。
私がこの世界に飛ばされた理由、そして存在意義。
「……痺れるほどに深い愛情ですね、それは」
ぽつりと呟いたレミジオの言葉に、私は何も答えず、ただ視線をエリマスへと戻した。
そう、愛だ。
しかしそれは、カップリングの右側に自分を置かないタイプの──だけれど。
◆ ◆ ◆
さてこの世界、細かい設定に矛盾があるとは薄々思っていた。
不死のくせに老いると言うことは、例えば私が150歳になり、肌も内臓もボロボロになって尚死ねないのだろうかと。
つまり最初から私は主人公に倒される前提で存在している。
そんな未来を考えなくて良いように。
「随分と浮かない顔ですね」
ひょい、と視界に割り込んできたのは護衛対象の王太子、オルフェンだった。
私を含む王太子一行が同盟国フレゲトン国境の関所を通過したのは数刻前。先日予告されていた次期国王陛下の即位式とやらに出席するためだ。
各々が休憩を取っている中、ひとり団体から外れていた私を器用に見つけて追いかけてきたらしい。
「……殿下。エリマス様に従っていただかないと」
淡い橙色の髪に青磁色の瞳。国王とエリマスの容姿に、王妃の要素が丁度半分混ざったような華やかな容貌。
魅惑の王太子は穏やかな笑みを浮かべる。将来恋に落ちる相手との縁を、すでに私によって退けられていることも知らずに。
(それでも、もしかしたらラミアと惹かれ合うのかもしれないけれど)
いわゆる物語の強制力とやらで。
「何かあっても貴女の癒術があるでしょう?」
「お褒めにあずかり光栄ですが、万能ではありませんので」
この王太子オルフェン、悪い人間ではないもののやはりどこか緊張感がない。命を賭けて守られているその自覚がないというか。
作中では男主人公としてそれなりに活躍するものの、それもスタート時点からラミア視点の補正がかかっていたからなのだろう。
実物は金持ちのボンボンというか、フィクションで見る腑抜けた王子様というか。
「エリマスとの仲は進展しました?」
「そのような関係性ではございません」
「どうでしょう、エリマスも貴女に情くらい抱いてもおかしくありませんよ」
遠くで騎士たちの馬蹄が鳴る。
私はぼちぼち伏線を張らなければならない。自然に、かつエリマスに迷惑をかけずにこの状況からログアウトするための伏線を。
「では殿下も我々のような護衛に情を抱いてくださるのですか?」
見てはいなくとも、自分の意地悪い表情は想像がつく。
「なんて。盤上の駒が恋に落ちるはずがありませんよ」
「へえ。ご令嬢は随分と冷たい言い方をなさる」
「あるいは私が、殿下ではなくエリマス様を優先することを懸念されていますか?」
なるべく私は嫌な奴でいた方がいい。
「生憎そこまで愚かではありません。そんなことをすればまた我が家に査察が入るでしょう」
「しかし現に貴女は私ではなく、恩返しなどという薄っぺらい理由でエリマスに力を行使しましたよね」
にこりと穏やかな笑み。その瞳の奥は笑っていない。
なるほど、そういうことらしい。
「私に行使していれば、アルカヌム家は今頃公爵の爵位を授かっていたかもしれませんよ」
「あら本当。それは思いつきませんでした」
仰々しく立ち上がり、オルフェンと距離を取る。
「では殿下、こう申し上げればご納得いただけるでしょうか」
オルフェンは確か二十歳になるんだったか。そう思えば可愛いものだ。
こちらの精神年齢は三十歳。深夜三時に退勤してそのまま5時に出社したことなどなかろう若人よ。
「実は私、エリマス様を心からお慕いしているのです。それはもう強烈な恋心、いいえ愛と言いましょうか」
綺麗な形の目が、丸く見開かれる。
「殿下はこの愚かな恋を笑われますか? 実家の発展よりも、国への忠誠よりも、恋する相手の命を選んだ女を」
「…………」
「……なんですか」
「…………いや、なるほど。貴女は少々厄介だなと」
小生意気にそう宣った王子は薄く笑みを浮かべると、愉快そうに目を逸らした。
よく考えればエリマスも二十六歳、つまり年下か。道理で三次元になるとどうも食指が動かないわけだ。さすがに四歳も年下の男の子にときめくほどの余裕はない。
もっと言えばこの世界に生まれ落ちてから考えれば──
「貴女は今十九歳でしたか」
「ええ」
「これまで縁談もなかったと聞き及んでおりますが、それもエリマスを恋い慕うが故だと?」
それにしたって王子自らが尋問など、この世界はまだそれなりに平和らしい。原作が始まる前の世界なのだから当然か。
相手が化け物だとも知らずに、呑気なものだ。
「おかしいですか?」
「貴族のご令嬢としては、些か」
「ですが恋心の証明としては十分でしょう」
アルカヌム伯爵家からは当然縁談の打診はあった。けれど端から死を以て退場する計画を立てていた以上、相手が誰であろうが婚約者死亡のレッテルを授けるわけにはいかなかった。
オルフェンにとっては理解できない、底抜けに世間知らずの貴族令嬢として印象付けてしまえばいい。愚かであれば目のつけられようがない。
「羨ましいですね」
強く風が吹き抜け、背後の木々が揺れる。
その瞬間、高校生の頃の、体育祭の合間に校舎の裏庭でさぼっていた日のことをふと思い出す。その時誰が隣にいたかも、もう思い出せないというのに。
「私の自由さがですか? それとも頭のおかしな女に恋心を寄せられるエリマス様がですか」
「頭がおかしい自覚はあるんですね」
「一応は」
ぷ、と子供のように噴き出したオルフェンはしばらく肩を揺らし、けれど先ほどまで浮かべていたどこか薄ら寒い表情ではなくなっていた。
「エリマスには伝えないんですか?」
「いや怖すぎるでしょう。今まで接点のなかった女に命かけるほど好きですなんて言われたら」
「そうかなぁ。喜ぶと思いますが」
「んなわけ」
本当に私が恋心を抱いていたら、こんなに淡々とは口にできなかったかもしれない。
恋。随分離れていた感情だ。どんな温度だっただろうか。
「気が変わりました。貴女のことは当面信用します」
「当面ですか」
オルフェンも立ち上がると、私を見下ろしてにこりと微笑む。
「ですが何かあったら、一応私を優先してくださいね」
……嫌なフラグも、立てながら。




