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 一方、私の立場は非常に微妙なものになっていた。


 ラミアという象徴が偽物だったと分かった中で、私は冥界側との取引の命運を握る謎の女。

 大司祭を救い、更にはあの赤い令嬢が助けを縋る相手という、いかにもな存在。


 王城内ですれ違う人々は皆どこか畏れるような、遠巻きな視線を寄越してくる。

 一方ラミアに傾倒していた顔ぶれは、さっと私から目を逸らす。

 これもティシポネとの交渉の次第によっては──


「彼女が君の力を借りてまで助けたい身内というのは、誰だと思う」

「……全く見当がつきません」


 約束の時刻まで、あと二時間を切っている。

 私とエリマスは、落ち着かない心地をごまかすように、王城の回廊を歩き続けていた。

 昼間は侍従や文官が行き交う場所だが、夜はほとんど人影がなく、窓の外の月明かりだけが床石に淡く揺れている。


 国王陛下との緊急の謁見を終え、今晩のティシポネとの約束に向けた準備はおよそ整った。

 万一の場合の被害を考慮し、騎士団、護衛の類は一切同席させない。

 その場に立つのは私、エリマス、そしてオルフェンと大司祭だ。


 私とエリマスは最後までオルフェンの同席を反対したけれど、父親である国王陛下とオルフェン自身が譲らなかった。

 いかなる結果になろうとも、王族が証人として立たねばならないと。


「冥界側の、彼女らの同胞かとは思いますが……」


 ティシポネの言葉をどこまで信用するか。

 ここまで信じて疑わなかった伝説の根幹が揺らいだ今、何が事実で、何が虚構なのかすら分からない。


「冥王にこちらを攻撃する意図がないというのが事実ならいいが」

「しかし彼らが人類を害したところで得をしないというのは一理あります」


 至って当然の道理だ。


「それよりも彼らが追っているというアーテという神、私にも全く覚えがなく」


 『ペルセポネの冥戦』にも一度も出てきていない。

 ティシポネ曰く、ラミアに手を貸し、人間界の規律を乱す厄介な神。言葉を借りれば、罪伸だと。


「君の記憶に違和があると言っていたか」

「……曰く、忘却の神、レーテという方が何やら私の記憶の処理を間違えたようで」

「どちらもとんでもない神だな……」


 上位神であることは間違いないだろう。

 そしてアーテが力を貸し魂を闇に落とした貴族たちを、ティシポネやメガイラが断じて回っていたと。


「ところでエリマス様は、どうしてあの異形を討ち取ることができたのでしょう」


 エリマスは私を見下ろし、困ったように息を吐いた。


「私が聞きたい」

「少なくとも私の力の影響ではないと思いますが……」


 元々その素養があったのか、変異したものなのか。

 異形を叩き斬ったエリマスを前に、ティシポネは驚いてはいたものの、怯える様子、あるいは敵視する気配はなかった。


(私の欠けた記憶は、おそらく本来の私のものなんだろう)

 それがあればもう少し理解が進むのだろうか。レーテに頼めば記憶を取り戻せるのか──分からない。


「……ノーナ」


 足を止めたエリマスのセレストブルーに、私が映る。


「? はい」

「彼女との取引は、君が正しいと思う方に投じろ」


 静かな声が、誰もいない回廊に落ちた。


「え? いや、さっき散々陛下やオルフェン様と……」

「君が言った通り、あのティシポネとやらは存外話の通じる相手だった。欲に濡れ目を曇らせた人間より、よほど」


 痛いほどの皮肉。

 目を伏せたエリマスの長い睫毛の陰が、頬に淡く宿る。


「どちらに転んでも、おそらく君のことは悪いようにはしないだろう。先方も、君のことは敵に回したくないようだった」

「さすがに自分の一手が人類の命運を握ることになるような局面で、適当な判断はしませんよ」


 誤魔化すような薄い笑みに、思わず私はエリマスの腕を掴んでいた。


「──私の方こそ、」


 この世界が、何であろうが。


「欲に濡れた、邪悪な生き物ですよ」


 私は救世の乙女なんかじゃない。

 伝説一つ疑いもせず、危うく世界を転覆しかけた女だ。



「エリマス様さえ不幸にならなくて済むのなら、貴方を連れて冥王の配下に転職しても良いと思う程です」


 

 偽りのない本心。

 その言葉に(てら)いはなかった。


 エリマスは何か言いかけて目を丸くして──次の瞬間、顔を手で覆った。


「え」

「……真顔で恐ろしいことを言うな。君の能力がなければ他人に聞かれて即死罪だ」


 くぐもった声でそう言うと、追い払うように空いた方の手をひらひらと泳がせる。


「で、ですからこれは冗談ではなく、かねてから申し上げている通り私こそ欲望の塊で」

「やめろ。追い打ちをかけるな」

「エリマス様は私を聖人か何かだと勘違いされているでしょう」

「分かった、そうだ、君は私利私欲に満ちた危険な生き物だ、分かったから」


 手を取るか、取らないか。

 刻一刻と迫っていく。月明りが作る柱の影は伸び、まるで異形の指先のように床を這っていた。



◆ ◆ ◆



 普段は封じられている王城の屋上は、息を潜めたように静まり返っていた。

 緊張感にそぐわないほど柔らかく温かい風が頬をかすかに撫でては、すぐに夜の闇へと溶けていく。

 この世界には夜景などない。

 零時ともなれば、遠くの街並みは闇に呑まれ、ただ王城の高みだけが、月光に白く晒されていた。

 まるで、この場所だけが時間から切り離されたかのように。


 約束の刻。まだ彼女は来ていない。

 この場にいるのは、私、エリマス、オルフェン、そして駆け付けた大司祭の四名だけ。


 広い屋上に対して、あまりに心許ない人数だ。

 風が吹くたび影が揺れ、私たちの存在がいっそう小さく感じる。

 ティシポネを迎え撃つには静かで、孤独な夜だった。


「そういえば最近王都の東通りに美味しい海鮮のレストランができたそうですよ」


 場にそぐわないほど明るく穏やかな声で口火を切ったのは、王太子としての正装に身を包んだオルフェンだった。


「……殿下。またお忍びで行こうとされていませんか」

「なんだかんだエリマスだって私の護衛だからと渋々のような顔をして、毎度遠慮なく食べているじゃないですか」


 オルフェンの言葉に応えたエリマスの表情が僅かに緩む。

 固い表情だった大司祭も、二人のやりとりに目を細めた。


「糸績み様」


 私にしか聞こえないような小さな声で、大司祭が呟く。


「きっと貴女は、あの少女の死をも悼んでいるでしょう」

「……」

「全ては私の弱い心が生んだつけでございます。どうかご自身を責めないでください」


 先ほど合流したばかりの大司祭からは、聖殿にかかっていた結界がアドラストス猊下に強いられて施した彼自身の業であることを明かされた。

 そして私の手によって身体は回復したとはいえ、すでに聖殿の広域で、ティシポネをはじめとする異形たちを弾くほどの能力は戻らないことも。


(この人の方こそ、かなり高位なのでは)


 『ペルセポネの冥戦』では名前すら出てこず、全巻通じて数コマ出たかどうかの脇役だったというのに。



「──あら、随分と寂しい画ね」


 風に乗って漂う、鉄のような血の匂い。

 空気がわずかに震えたかと思うと、ティシポネは人外らしく空に突如姿を現し、羽根のように軽やかに舞い降りてきた。

 聖殿での装いとは打って変わり、彼女はどこかすっきりとした赤いドレスを纏っている。

 その姿は異形というよりも洗練された貴婦人のようで、かえって不気味なほど人間らしかった。


「これはこれは……グラナトゥムの瑞光、オルフェン王太子殿下。お待たせして申し訳ございません」


 オルフェンにとっては初対面のはず。あまりにも貴族然とした振る舞いに、彼は一瞬だけ言葉を失っていた。


「……ミス・ティシポネ。ご足労いただき、感謝申し上げます」

「ふふ。一国の王太子殿下に礼を尽くされるだなんて」


 ティシポネはその手に大きなトランクを抱えていた。

 漆黒の革張りに銀の入り組んだ細工が施されたそれは、まるで人間一人が丸まればすっぽり入りそうな大きさだ。


「それで? 結論は出たのかしら。アルカヌム伯爵令嬢ノーナ様」


 この場で私を糸績みの魔女、そう呼ばない気遣いがむしろ恐ろしい。

 彼女には何もかも筒抜けなのだろう。オルフェンにはまだ正体を明かしていないことも。


「……私に、その方を救ってほしいという理由をお聞かせ願いたいです」

「へえ、理由?」

「貴女がたが我々にとっての脅威でないという保証がなければ、手は貸せません」


 握りこんだ指が、手の平に食い込んだ。

 ティシポネの赤いドレスが風にはためく。すると彼女はすうっと視線を大司祭に移し、にやりと笑った。


「随分と小さくなられたことねぇ。息災のようで何より」

「……貴女様こそ、変わらずお美しくていらっしゃる」


 大司祭の声は穏やかだが、緊張が滲んでいる。

 ティシポネはトランクを足元に置き、恭しく開錠した。隣のエリマスが、警戒するように身体を強張らせる。


「冥王様に無理を言って連れ出したのよ。貴女に力を貸してもらうためにね」


 新たな異形か──思わず半歩下がった私たちは、トランクから現れた"それ"を見て、言葉を失った。


「…………ミス・ティシポネ?」

「随分可愛らしいでしょう」


 彼女の腕に抱かれて現れたのは、ぐったりと目を閉じた黒い子犬。


「そ、その、わんちゃ……犬が、貴女の身内だと?」

「あら。こう見えて冥界最強の番犬よ?」


 柴犬ともチワワとも言い難い容貌。あまりに愛らしい姿に、私はごくりと息を呑む。


 冥界の番犬──ケルベロス。

 冥王に忠実で、冥界の入り口を護る最強の怪物。冥界を逃げ出そうとする者は等しくこのケルベロスに嚙み砕かれる。

 『ペルセポネの冥戦』でも冥王戦の前に登場している、その実力は折り紙付きだ。


「こうなってから、冥界の門番が人手不足なの。それなりの実力者しか務められないし、手が回らなくて」

「……しかし私もさすがに、獣の類を助けたことはなくて……」


 助けた瞬間に頭を噛み砕かれてもおかしくない。

 愛らしいその姿に手を伸ばしかけて、私は身震いした。


 エリマスやオルフェンを見ると、構えたほどの内容ではなかったせいか、ほっとした表情を浮かべている。

 一方の大司祭は、どこか暗い影を落としていた。


「……冥界の番犬が、何をしてこうなったのです」


 大司祭の低い声に、はっとした。

「まあ、大司祭殿は勘が良くておいでだわ」

 ケルベロスは眠っているように見える。


「実は一度アーテを捕えて、裁く直前だったのだけれど……散々暴れて冥界でも被害は甚大よ。今度こそ奈落に追放するはずだったのに」

「……アーテという神は、それほど恐ろしいと?」

「あいつ自体は大したことないの。人間界で好き勝手したい化け物共を従えてるから厄介なだけ。それこそ今回の人喰いみたいにね」


 ティシポネに差し出され、私は躊躇しながらもその子犬を腕に預かる。

 子犬にしては筋肉質で骨ばっているけれど、温かくてやわらかい。紙面いっぱいに描かれた恐ろしいケルベロスの姿とどうしても重ならない。

 こちら側の三人の顔を見るけれど、一様になんとも言い難い顔をしていた。


「アーテは今どこにいるのでしょうか。仮にこの……ケルベロスを助けたところで、諸悪の根源が逃げまどっているようでは」

「分かれば苦労しないわ。何せ人間界に随分馴染んで、私たちでも掴めないくらいだもの」


 ティシポネの言葉に、虚飾は感じられなかった。

 そもそも彼女が人間相手に巧妙な嘘をつく必要などない。

 ティシポネがその気になれば、この王城を今すぐにでも壊滅させられるだろう。それこそ、人ひとり殺めたことがないものだけを残して。


「……分かりました。このケルベロスの治療、お引き受けします」


 そう告げると、ティシポネの顔がぱあっと明るくなる。


「そうこなくちゃ、」

「ミス・ティシポネ」 


 まだ、彼女を信用しきれない。

 その表情は猫のように気まぐれで、月明かりを背にした美貌は、いっそう妖しく映えていた。


 呼吸を整える。

 神から力を付与された者は、意識すれば自分との一対一の会話であれば第三者の耳に入らない。


「以前貴女は私にこう問いかけましたよね。……私の好きな人だけは守ってもいいと」


 その唇は楽しそうに弧を描く。

 今の私の声が彼女以外に届いていないことを察知したのだろう。


「ええ。ミス・ノーナ」

「それを今回、私との取り決めとしてください。貴女に約束なんてものが通じるか分かりませんが──」


 ドレスの裾が風に揺れる。

 細く白い指が伸びてくるのに、私は退かなかった。

 そっと、冷たい指先が頬に触れる。


「……素敵。貴女の狂気には胸がときめくわ」



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