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考えなくてはならないのに、頭が回らない。
目の前に迫る美しい異形は、私を見下ろしている。
ラミアの正体を暴き、それでいて冥王は敵ではないと語る赤い唇。
諸手を挙げて信じていい相手ではない。目的のためなら彼女は手段を選ばない。
「……彼女が、ラミアがそのアーテとやらの手引きで動いていると分かっていながら、今日ここまで何も干渉してこなかった理由は何ですか。以前の口ぶり……貴女には城内の事情を知る術もあったでしょう」
仮に冥王にまつわる話が作られたものだったとして、それを受け入れたとして。
では冥王を討つ者をステュクス神が選ぶという伝承は?
聖冠の神子が遣わされる理由は?
冥王を倒すはずだったオルフェンの存在は?
どこで辻褄を合わせるというのか。
必死で頭を回転させている私に、ティシポネが忌々しげに唇をゆがめる。
「できることならとっくに片を付けていたに決まっているじゃない。それを邪魔したのはここにいる人間たちよ」
猊下から離れ、ドレスの裾を翻しながら緩やかに歩み寄る。
「貴女を貶めようとしたこの愚者と共に堕ちていくのか、それとも私の手を取るか。お決めになって」
目と鼻の先に立ったティシポネは、静かに歌う。細く長い指先が天井を向き、私へと差し出された。
これは悪魔の囁きか。
『ペルセポネの冥戦』での私も、こうして乗せられたのではないか。
ちらりとラミアを見やると、戦意を喪失したようにぐったりと小さくなっていた。次に神官たち、猊下、怯える騎士たち、固唾を呑む癒術師たち。
「……その、救ってほしいという身内の方の容態によっては、私もお力にはなれませんよ」
「貴女が救えぬ者なんていないわ。それこそ、死者以外で」
私がここで断ればティシポネは容赦しないだろう。
彼女は人の命を奪った罪を断じる神の化身。人間よりよほど高潔で、よほど残酷だ。
「私は──」
差し出された手に触れようとした、その瞬間。
先にぴくりと反応したのはティシポネだった。だが私が振り返るより早く、身体の自由が奪われる。
──何が起きた?
私は思い切り後ろへ倒れ込み、何かに包まれていた。
はっと顔を上げると目の前には、いつか見たばっくりと口を開く、黒い異形。
つい先ほどまで立っていたその場所に、それはいた。
「あらやだ」
ティシポネが鼻をつまみ、飛ぶように退く。私は、私を引き寄せたエリマスの腕の中で呆然と腰を抜かしていた。
黒い異形の大元を辿ると、それは気を失ったように倒れるラミアの腹部からまるで浮かび上がるように顔を出している。
「何だ、あれは……」
頭上から落ちるのは、唖然としたエリマスの声。
口の奥にはぎょろりと動く目玉がひとつ。まさにあのグレアムから飛び出した異形と全く同じ。
ただ、以前のように語り掛けてくることはなく、いかにも弱っている。
【ァ……アァ……】
「ねぇちょっと、どうしてその色男にもこれが見えているの!?」
「どうしてって……」
響くように舌打ちしたティシポネの周りに、先ほど散らしたはずの薔薇の花弁の欠片が意思を持ったように集結する。
目の前の黒い異形は歪み、何かに苦しむようにうねりながら形を変える。我に返った私はエリマスから離れようとするけれど、羽交い絞めにされて動けない。
(ただの化け物ではない以上、かといって私には対抗する術はない……)
一か八か、鋏が効くか試すしかない。そろ、と地面に手を這わせたその刹那、私はエリマスによってそのまま床に転がされ──視界の端で、剣を抜いたエリマスが見えた。
意味がない。
相手は神の息がかかった異形。私ですら手が出ない相手に、エリマスが剣を向けたところですり抜けるだけだ。
「エリマス……!」
醜い目玉がぐにゃりと歪み、そしてエリマスの一太刀がその中央目がけて貫かれる。
それはほとんど防衛本能の産物だったのだろう。冷静であれば、あれを斬ろうなどとは思わないはず。
事実、エリマスは掛け声ひとつなく反射的に剣を向けたのだから。
すり抜けるはずの剣先が黒い異形に触れたその刹那。
「えっ」
「え?」
私とティシポネの声が重なる。
まるでスポンジのように、異形は真っ二つに斬り裂かれ──ぼこぼこと泡を浮かべたかと思えば、煙を上げながら霧散していった。
「……えっ」
当のエリマスもまた、その姿勢のまま硬直していた。
数秒、その場の全員が呆然とした。
異形が見えていた私たちの反応は、見えていなかった者からすれば、何もない空気に怯えているようにしか映らないのだろう。
ティシポネもまた、エリマスの剣先と彼自身を交互に見やり、眉をひそめていた。
「……彼、貴女が以前言ってた好きな人よね?」
「……何故今その話を?」
「いえ、まあ、いいわ。ひとつ手間が省けたもの」
情報量が多すぎる。
エリマスはそろそろと剣を下ろし、困惑した表情のままだ。
私は我に返り、倒れているラミアへ駆け寄る。
背後からエリマスが呼び止める声が聞こえたが、足は止まらなかった。
気を失っているように見える──けれど。
「…………やっぱり……」
唇から血の気は消え、そっと触れた頬は氷のように冷たく冷え切り、硬い。
閉じられた瞼は開かず、身体はぴくりとも動かない。
「……当然よ。はじめから、骸の人形だったんだから」
ティシポネの呆れた声。
分かっていた。予想していた。
それでも、胸の奥が黒く淀む。
言葉が出ない私の元に、足音がばたばたと近づいてくる。
振り返ると、青ざめたアドラストス猊下と神官たちだった。
「嗚呼……なんてことだ……」
猊下は私の前からラミアの身体を奪い取るように抱き上げ、その頭を胸に抱え込む。
どんな利害があったのかは分からない。だが、たとえ中身が異形であったとしても、娘のように可愛がっていたのだろうか──なんとも言えない感情が胸に広がり私は唇を噛んだ、けれど。
「ここまでの器には二度と見えぬだろうに……なんということを……!」
「げ、猊下、このままでは我々も」
ぶつぶつと小さな声でそうやりとりしたかと思えば。
「おのれ化け物共!!」
血走った猊下の目が、私と、ティシポネに向けられていた。
「は……?」
「ステュクス神に選ばれた聖冠の神子を害した大逆、聖殿は決して看過せぬ! 人間が憎いのなら、この命を持っていけ!」
何を、
言っているのか。
「やだ、血迷ったわね」
「猊下……」
正気ではない。
私に掴みかかろうとした猊下は、目の前に突き出された剣先に仰け反り、強かに尻餅をついた。
「……お言葉ですがアドラストス猊下。これ以上赤い令嬢を刺激し、この場の者たちを危険に晒すのはお控え願いたい」
冷静なエリマスの一言は隅で震えていた者たちを我に返らせるには十分だった。
「公爵ごときがこの私に……ッ」
「貴方も随分怯えておいででしたので、てっきり我々と同じ穴の貉かと思ったのですが」
エリマスの言葉に、ぷっと噴き出したのはティシポネだった。
うろたえる猊下は、わなわなと震えながら三下よろしく引き下がる。
「ご令嬢。無理を申し上げるようだが──まずは彼女を弔わせてほしい。どうか今は、この場をお引き取り願えないだろうか。後ほど、改めて正式な場を設けてお話ししたい」
私含め、周囲はどよめく。
ティシポネにとっても思わぬ言葉だったのだろう、しかしあどけなく目を瞬かせて、にやりと笑った。
「豪胆な公爵閣下の言葉に従いましょう。ただし約束を違え、逃げるような真似をなさったなら……冥王の御名において、冥界の川の本当の美しさをお見せすることになるわ」
その言葉の余韻がまだ空気に残っているうちに、聖殿の扉が轟音と共に開かれた。
正しくは、扉が片方まるごと吹き飛び、聞いたことのない呻き声が断末魔のように響き渡る。
「ちょうど外の用事も終わったようだし」
扉の向こうから顔を覗かせたのは、──怪物。
犬とも牛とも言い難い醜悪な頭が三つ。
皮膚は亀の甲羅のように硬質で、ぎょろりとした目は蛇のように鋭い。
牛蛙のような口には鋭い犬歯が並び、息をしているのかも分からないほど、口元からは赤黒い煙が立ちのぼる。
冥王の配下、怪物ゲリュオン。
紙面で見る迫力を遥かに上回る。私も思わず息を呑んだ。
聖殿の中は、これまでにない悲鳴で満ちた。騎士の一人が腰を抜かして崩れ落ちる。
どうやら、あれは彼らの目にも見えているらしい。
「……外の用事、ですか」
「貴女ほどの方が気づかなかったの? ここ、蛆が集ってたのよ」
よく見ればゲリュオンの口はむしゃむしゃと動いている。
その端からは、大司祭の身体を這い回っていたのと同じ黒い蛆が、うじゃうじゃと逃げ惑うように蠢いていた。
ふと振り返ったエリマスは、口を真一文字に結んだまま、僅かに青ざめている。
それも当然だ。
誰だって、あれを見て勝てるとは思わない。
「数刻の猶予を与えましょう。今日の零時、貴方がたが最も都合の良い場所へいらして。このティシポネ、どこへでも参りましょう」
ティシポネの言葉とともに、その足元から煤がふわりと舞い上がる。
返事をするより早く、ティシポネは怪物と共に、跡形もなく消え去っていた。
◆ ◆ ◆
聖殿の外──昼と夜の境目のような空に、細い月がひっそりと昇っていた。
喧騒の余熱だけがまだ肌に残っているのに、空気は妙に澄んでいる。
怒涛の混乱の中、エリマスの采配によって場の波はようやく引いていった。
関係者は避難させられ、気分を悪くした者は王城へ運ばれてゆく。ティシポネが去ったことで、ようやく人々は自分の足で歩き出せるようになった。
冷たくなったラミアの身体は、あれほど彼女を褒めそやしていた者たちでさえ遠巻きにし──抱き上げたのは、ただ一人エリマスだった。
あの時彼女から飛び出した黒い異形は、おそらく誰の目にも映っていなかったはず。
つまり、彼らはラミアを人喰いだと証言したティシポネの言葉を信じたのだ。
都合のよいはずの、望んでいたはずの結末。
なのにどうして、ここまで後味が悪いのだろうか。
エリマスに抱えられた彼女は、驚くほど小さく見えた。
歩みのたびにゆらゆらと揺れる足は、折れそうな枝のように細い。
『ノーナ様!』
どこまで彼女で、どこから化け物だったのか。
「エリマス様」
「……なんだ?」
「彼女は……あの、きちんと、弔っていただけるのでしょうか」
エリマスは一瞬だけ目を伏せ、硬い声で答えた。
「ああ。……時間はかかるだろうが」
『陛下のご裁可が下るまでは、猊下といえどもご自由にはなりません』
騒ぎの中に到着した騎士団長の声が響いた瞬間、醜く震えるアドラストス猊下と神官たちの顔色がさっと変わった。
まるでこの場の混乱を見透かしていたかのように──伝令鷹が、大司祭からの手紙を携えて王城に舞い降りたのだという。
宛先は、君主たる国王陛下。
そこには、大司祭が長年にわたり能力を搾取されていたこと、聖殿がすでに形骸化し、抗ったことで害されたこと、そして──ノーナ・アルカヌムによって身体の不調から解放されたことが記されていた。
さらに、大司祭自身が正しい裁きのために協力すると明言していた。
その手紙と、聖殿に居合わせた人々の証言が決定打となり、猊下一派は真実が明らかになるまで、王城の禁固塔へと封じられることになった。
ほんの数時間前まで、誰もが彼らの言葉を絶対と信じていたのに。
世界は、こんなにもあっけなく裏返るのか。
「──息吐く暇もないな……」
半ば走るように足を急がせるエリマスの低い呟きが、やけに現実味を帯びて響いた。
私とエリマスは、王城の中を駆けずり回っていた。
聖冠の神子と称えられたラミアの死。
その正体が、人間を害する卑劣な異形だったという事実。
王家に匹敵するほどだった聖殿の権威の崩落。
ティシポネと結ばざるを得なかった、あの交渉の約束。
そして──ひっくり返された冥王の伝説。
ひとつひとつが重く、息が詰まりそうなのに、立ち止まる暇すら与えられない。
ティシポネとの約束まで、もう時間がない。
猊下を封じ込めたことで身の安全を担保された大司祭が急ぎ王城へ向かっているというけれど、各所への報告と指示に追われ、思考する時間は容赦なく削られていく。
ラミアについては彼女を擁したヴェスペル家への報告を急ぎつつ、一方で家そのものの調査が始まるという。
その亡骸は、異形が取り除かれた後とはいえ脅威であることに変わりなく、騎士と志願した癒術師たちの見張りのもと、当面の間地下に封じられることとなった。
「エリマス様! ノーナ様……!」
背後から悲痛な声が飛ぶ。振り返ると、息を切らしたレミジオが立っていた。
「お聞きしました……ッあ、赤い令嬢と……再び相まみえると……!」
顔を上げたレミジオは、私の隣にいるエリマスを見て、深く腰を折った。
「殿下の護衛を任されながら、ラミア様の……聖冠の神子の偽りに気付くことができず、」
「それはいい」
エリマスは短く切り捨て、疲れを滲ませた溜息を吐いた。
「……報告は聞いた。グレアムのことは……気の毒だった」
「……、私は大丈夫です。皆、現実から目を背けていたのです。もう二度と同じ過ちを繰り返したくありません」
私が助けられなかった騎士、グレアムは──おそらく黒い異形が消滅したのとほとんど同時刻に、本来の姿に戻ったという。
これによりラミアの奇跡の力が改めて偽りだったこと、そして死者すら意のままに操っていた異形の恐ろしさを王城内に知らしめることになった。
「一方で彼の婚約者も、グレアムと共に倒れた使用人も目を覚ましたそうです。……悪夢ばかりではありません」
レミジオの暗い表情の中に、かすかな決意が滲んでいた。




