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◆ ◆ ◆
『……話の続きは、聖殿での用件を無事に終えてからだ』
そう言って話を切ったエリマスと午後の段取りを詰め、そして──迎えた約束の時間。
「ノーナ様!」
聖冠の神子の恰好に着替えたラミアと、伯爵令嬢相応の装いの私。
ラミアは私の服装を気に留めることもなく、つらつらと私が心配だとか、どうでもいい世間話をしながら隣を歩く。
聖殿での用件はまずアドラストス猊下との謁見。
ラミアが私の後ろに見える黒いもじゃもじゃとやらの説明をし、猊下に診ていただくという筋書きだ。
場には万一に備え、癒術師と騎士団数名が端に控え、オルフェンの護衛筆頭であるエリマスは今日に限り、あくまでラミアの保護という立場で同席する。
どんな万一を想定しているかは定かではないが。
(……大司祭は、猊下には聖冠の神子を見抜く実力がないと言っていたけど)
聖殿の巨大な扉が、儀礼めいてゆっくりと開く。
中は相変わらず薄暗く、天井に音が吸い込まれていくようだった。最奥には、いつもと変わらぬ姿勢でアドラストス猊下が鎮座している。
形式的な挨拶を済ませ、猊下の言葉を待つ。
ちら、と目をやった先には、正装のエリマスが涼しい顔で立っていた。
「……して、聖冠の神子ラミアよ。そなたが申しておった相談事について、子細を説明頂きたい」
「はい、実は──」
ある時から私の背後に黒いもじゃもじゃが見えるようになったこと。
今も見えており、得体が知れず手出しができないこと。
どうしたらこれが消えるのか、消していいものなのか分からないということ。
ラミアがつっかえながら説明する間、私は神妙な顔を作るのに必死だった。
「癒術師の方にも、他の方にもおそらく見えていないようで……ですよね?」
彼女がそう周りを見渡す。同席者は一様に困惑したような面持ちで、しかし聖冠の神子が言うならばと奇妙なものを見るような目がこちらに向けられる。
「残念ながら、私にもそのような影は感得できぬ」
「……そうなんですか……」
「しかしノーナ・アルカヌムは一度、冥界の境へと触れた特異の身。その折に、何らか影響を帯びた可能性はあろう」
猊下がさっと手を上げると、まるで合図を待っていたかのように脇に控えていた神官たちがわらわらと動き出す。
「悪しきものが憑いていないかどうか、判断はこの聖水に任せたい」
聖水。
いきなりチープそうなアイテムのお出ましだが、この世界はもちろん『ペルセポネの冥戦』ですら聞いたことがないワードだ。
教官が仰々しい盆に載せて持ってきたのはやたら装飾だけは立派な、ラムネ瓶じみた青いガラス容器だった。
「……恐れながら猊下。こちらの聖水なるものを、私が飲めばよいということでしょうか」
「左様。悪しきものでなければただの水、そうでなければ藻掻き苦しむこととなる」
(……これはこれは)
一昨日の模擬戦で私が起こした騒動のパクりだろうか。
「仮に悪しきものが憑いている場合には、何かそれを除く処置をしていただけるのでしょうか」
「私の目にも見えぬもの。ステュクス神の加護を得た聖冠の神子の祈りに託す他なかろう」
つまりこの怪しい飲み物を飲んで私がのたうち回った場合、ラミアが祈ってなんとかしてくれるということだ。
このパターンも想定しなかったわけではないけれど──
『万一私が聖殿で命の危機に陥った場合、私が死に至る前に手を貸していただきたく』
それは今朝、エリマスと取り交わした約束だ。
回避すべきは不死の発動、すなわち死からの生還。
復活して化け物と呼ばれるルート、そしてラミアの力のおかげだと彼女の伝説が増幅するルート、いずれも困る。
『……手を貸すと言うのは』
『都合よくお力を利用するようで恐縮ですが……昨日同様、救命の一環として口付けを頂けると助かります』
その時のエリマスの表情は──どうにも記憶に靄がかかって思い出せないけれど。
「…立場も弁えずお願い申し上げる非礼を、どうかお許しください。一昨日私は果実水に毒を盛られ、命の危険に晒されました。それ以来、殿下より賜った茶でさえ口にできぬほど、恐怖が胸に刻まれております」
我ながら名回答だろう。
僅かにアドラストス猊下の眉がぴくりと動く。
「それは痛ましいことだ。毒見役を付ければ、いくらか心安らごう」
「私のような者にまでお気遣いを賜り、恐懼に堪えません」
猊下が軽く手を上げると、控えていた神官が恭しく一歩進み出る。
青い瓶から器へと聖水を注ぎ、ためらいもなくそれを呷った。
「ご覧の通りでございます、ご令嬢。かような尊き聖水を試す栄誉を頂き、恐悦至極に存じます」
「……安堵いたしました。ご助力に深く感謝申し上げます」
(この程度のやり取りは織り込み済みか)
互いに芝居がかっている。
大した時間稼ぎにもならなかったか。舌打ちしたくなる気持ちを堪え、私は聖水とやらがたっぷり入った瓶を手に取る。
どうやら、このまま直に飲めということらしい。伯爵令嬢に対して随分な扱いだ。
入っていたとしても、殺す類の毒ではないだろう。ただし、この公衆の面前で藻掻かせる程度の即効性はあるはずだ。
毒見役の器に何らかの仕掛けがあるとして──問題は、ここからどう逃げ切るか。
なんとなく、エリマスのいる方向から目を逸らした。
息を呑む。
瓶の縁に口を寄せ、傾けかけたその時。
「──御機嫌よう」
柔らかく妖艶で、けれどどこか可愛らしい高い声が響く。
その一室にいる全員が四方を見やり、どよめきが走った。
数名の悲鳴。
外部の侵入から厳重に守られているはずの聖殿の入り口から、異形らしくもなく、堂々と徒歩で入ってきたのは──
「あ、赤い令嬢……!?」
誰かの叫びが伝播し、入口近くの騎士団が怯えたように雪崩れ、奥へと退く。
鮮やかな赤褐色の髪に赤いドレス。今日はそこに赤いレースのトーク帽を被り、まるで高位貴族の正装だ。そして聖殿には不似合いなほど、大振りな黒褐色の薔薇の花束を抱えている。
こんな襲撃は聞いていない。
かといって、ここで親しげに声をかけるわけにもいかない。
私も聖水を握りしめたまま、思わず二歩、三歩と後ずさる。
「ここは聖殿だぞ!?」
「結界が解かれたのか……!?」
(……結界?)
確かに『ペルセポネの冥戦』でも、聖殿が襲われたシーンは描かれなかった。
聖水といい、初耳の単語がよく出てくる日だ。
はっと見上げた先には、腰を上げてうろたえるアドラストス猊下。
ティシポネに視線を戻すと、不敵な笑みを浮かべていた。
「大司祭殿が臥せっているとお聞きして、お見舞いに参りましたの」
不気味なほどに静まり返る聖殿。怯え逃げ惑う暇もなく、誰もが彼女に睨まれまいと息を殺している。
「と、思ったら、そうでしたわ。臥せっていらっしゃるのであれば、こちらにはお見えにならないのに。私ったら」
「……貴様……ッ」
忌々しげに顔を歪めた猊下を興味なさげに一瞥し、ティシポネはゆっくりとこちらを振り返る。
一瞬、目が合った。
けれどその視線は、私ではなく──私の後ろ。
「……まぁ。随分上手に人間の真似事をなさることね」
つられて振り向く。
そこには、青ざめて今にも崩れ落ちそうなラミアがいた。
「その細腕で何人殺めたのかしら。まぁ本当、趣味が悪くていらっしゃるわ」
「……は、っ」
コツ、コツ、とティシポネの足音が響く。誰もが彼女に目を奪われる。
先に膝をついたのはラミアだった。
彼女を見下ろしたティシポネは花束を抱きなおし、優美に腰を下ろし視線を合わせる。
「"人喰い"が随分偉くなったものねぇ。そんなことより私、貴女の飼い主に用があるのだけれど」
彼女に聞いてから引っかかったままだった、その言葉。
ティシポネは真っすぐラミアを見たまま、確かにそう言った。
「わ、わたしは……ッ」
「へえ、人喰いごときが癒術が使えるなんておかしいと思ったの。なるほどね」
膝に頬杖をつき、子供のような顔をしたティシポネが無抵抗のラミアの顎を指先で掬う。
「しかし困ったわ……始末しようにもこれじゃ駄目だわ、どうしたらこうなるのかしら、あの子の言った通りね」
ぶつぶつと呟きながら、優美に立ち上がったティシポネが、私を振り返る。
まっすぐに射抜かれて、私は動けなくなった。
ティシポネは敵ではない。
だが、善良な生き物でもない。じわりと手の平に汗が滲んだ。
「フレゲトンの晩餐会以来ね」
(……店で再会したことについては伏せてくれるのか)
しかし、ここで愛想よく笑うわけにはいかない。
「……ミス・ティシポネ。一体この聖殿に、何の用ですか」
腹を探り合う、上辺の会話。
「取引よ」
歌うような声が響く。
「取引……?」
「貴女でしか救えない私の身内を一人、助けて頂きたいの」
生身の人間よりも澄んだ瞳が、私を正面から映す。
「身内とおっしゃられるということは、貴女の同胞でしょう」
「ええ」
「……我々人類に仇なす貴女の仲間を助けることはできません」
ティシポネは目を丸くし、そしてぷっと噴き出した。
「仇だなんて。清らかな貴女を欲望のままに弄ぼうとする人間たちの方が、よほど浅ましくていらっしゃるわ」
抱えていた黒褐色の薔薇の花束をぐしゃりと潰す。
生花ではなかったらしいそれは、薄い硝子のように粉々に砕け散り──彼女が力いっぱい振り回すと、血を吸った雪のように赤い粉が宙を舞う。
ふっと息を吹けば、その赤い粉は渦を描きながら一瞬で方々に散り、端で震えていた人々の身体に降り注いだ。
鼻孔を擽るのは甘い薔薇の香り、ではない。
(しまった……!)
それは錆びたような──血の臭い。
「ティシポネ……ッ!」
「そんなに慌てなくとも、多くの者にとってはただ花弁を浴びただけではなくって?」
彼女の血に触れれば、そして人の命を奪ったことがあれば彼女の術からは逃げられない。
この聖殿の中では騎士はまず該当してしまうだろう。
思わず振り返った先──エリマスの肩にも赤が滲んでいる。
「……私が引き受けなければ、彼らの命を奪うと?」
「やだ、物騒だこと。念のためよ」
ティシポネは猫のように目を細めた。
「それで、助けてくださる? どうかしら」
「……」
「ああ、報酬が釣り合ってないのね。じゃあ、」
蹲っているラミアの黒髪を掴む。
悲鳴とともに顔を上げたラミアの唇に赤い花弁をねじ込むと、にったりと妖艶に微笑んだ。
「ちょっとここじゃあ始末できないから、この女を然るべきところに追放して差し上げるわ。それでどう?」
「……質問に質問を返すようですが、人喰いとは何ですか。始末できないとはどういう意味かご説明ください」
話題を逸らして、時間稼ぎをしなければ。
ティシポネは唇を尖らせ、僅かに逡巡し、ラミアの頭を揺らした。
「ああそうだ。貴女、この前ヒュドラを始末したでしょう? この女の中に入っているのは、あれと同じようなものよ。人を騙して喰うのが仕事の化け物」
「……同じ……?」
だとすれば大した生き物ではない。
困惑が顔に出たのだろう、ティシポネはわざとらしく首を傾げた。
「そこに神々の世界から追放された厄介者が目をつけて、ここまで見事に成り上がったの」
「厄介者、」
つまりそれもまた神だということ。
なるほど、だとすれば確かに私の手にも負えない相手だ。正体は概ね予想通り。
「では、ラミア様……ラミアは、貴女の仲間ではないと?」
「……まあ。貴女、レーテのせいで記憶が適当って話、本当なのねぇ」
『忘却の神です。貴女の魂は冥界で洗われ、何度も糸績みとして生まれ変わっているでしょう。その魂を濯ぐのがレーテです。つまり、本来失われてはいけない記憶まで消されてしまったのでは』
メガイラの声がふっと頭を過ぎる。
「良いこと? 私やメガイラ──いいえ冥王様の命題はたった一つ」
ティシポネが雑に手を離すと、ラミアががくりと崩れ落ちる。
傍目には、か弱い女性が痛めつけられているようにしか見えないだろう。
そのままティシポネは数歩進み、床に散った薔薇の花弁を拾い上げ、無言の置物と化したアドラストス猊下の頭にはらりと振りかけた。
屈辱を前に、猊下は口元を震わせるだけで、何も言わない。
「この人間界で規律違反を繰り返す厄介者……狂気のアーテを捕えて、然るべき罰を与えること」
「アーテ……?」
「この女に手を貸した罪神のことよ」
(そんな話、そんな神の名前、)
レーテに、アーテ。
聞いたことがない。
「……冥王は、だって、ペルセポネの……」
「? ペルセポネ様が何?」
だって、この世界は──
「ペ、ペルセポネが人間の男と不義を働いて、それで冥王は人間の世界を憎むようになって……復讐するために、永い眠りから目覚めても、そのために」
「…………なぁに、それ。人間が作った話?」
「貴女だって元は人間でしょう!?」
「人間だった頃にも聞いたことないもの」
ティシポネは不機嫌そうに眉をしかめると、アドラストス猊下の肩にそっと手を置き顔を寄せる。
「ふうん。仕掛けはよくわからないけど、どうにも悪いことをしているようね」
猊下は口を真一文字に結んだまま、青ざめているだけ。
「仮に貴女の話を信じたとして、辺境伯領やスパルトイ子爵領……ドムナール伯爵邸の件はどう説明するつもりですか」
「アーテの配下になった者は生かしておけないもの。あれこそむしろ人間の敵でしょう」
「へ……辺境伯領では罪のないご子息の命まで奪っておいて──」
「あの子供を殺したのは私じゃなくてよ。貴女、私の術の発動条件をご存じでしょう?」
す、とその目から温度が引いていく。
「はぁ、困ったわ。道理で貴女と話が食い違うわけね」
この世界は、『ペルセポネの冥戦』で。
「冥王様が人間界を襲おうものなら、死人が増えれば冥界の負担が増えるだけよ。普通に考えたらお分かりでなくて?」
冥王を倒さなければならない。
私はそう、信じて疑わなかった。
「さあ、おしゃべりもそろそろ仕舞いになさって」
──ここは、どこだ。
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