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◆ ◆ ◆




 天井に向かって手を突き出し、開いては閉じ、現実を確かめる。



 あの後、確かに私の傷も痛みも全てが癒えたこと、そして明らかにこれまでにない程に満ち足りていることを細かく説明させられ、エリマスは満足げにしていた。

 『ペルセポネの冥戦』で細かく描写されていなかった回復の演出がああだとは知らなかった。一生の不覚。


 もう一度口付けられそうになったのを気合いで拒み、とにかく今晩は出て行かないこと、そして考える時間が欲しいことを告げ、無理やり追い返した。


(……吊り橋効果って本当にあるんだな)


 回復したからだろうか、思考はいやに冷静だった。

 何も動揺することはない。

 高貴な貴族に脈絡なくうっかりキスをされただけだ。


 もちろん、この期に及んでエリマスから向けられた感情を偽物だとは思わない。


 けれど異常な危機感、緊張感が彼の精神に作用していることも、私は十分理解していた。







「──おはようございま、」


 翌朝、護衛の詰め所で最初に会ったのはレミジオだった。

 私の顔を見るなりぎょっとして、困ったように眉を下げる。


「今日は休みじゃなかった? 昨日あんなことがあったのに大丈夫?」

「いえ、この通りピンピンです。ごっそり吐いたおかげでしょうか」


 昨日まであれだけ避けていた彼の顔を真正面から見ることができる。 

 健康のすばらしさたるや。


「ならいいんだけど。うん、確かに顔色もいい」

「こちらこそ、皆さんが楽しみにしていた団長との決勝の舞台を台無しにしてしまい……申し訳ございませんでした」

「とんでもない。むしろ私が負けるところを見せなくて済んで助かったよ」


 柔和な笑みに、ほっと息をつく。

 レミジオもまたかつての使用人たちのように態度が変わってしまうだろうかと懸念していたけれど、面と向かってみる限りどうやら変わりない。

 護衛の他の面々も私の顔を見るなり、ぎこちなく挨拶をしながら二度見していく。

 こんなに身体が軽いのはいつぶりだろうか。幾分か世界が明るく見える。


「殿下も随分心配なさっていたし……犯人もすぐ捕まったと聞いて、安心したけど」


 さすがはオルフェン、後始末もぬかりない。

 存在しない犯人確保も完了してくれていたらしい。

 適当に苦笑しながら濁し、更衣室前で別れ、服を着替える。ケロイドのように醜くなっていた傷がすっかり綺麗になっているのは、何度見ても違和感がある。


 この状態なら、()()を救えるかもしれない。


 ただ手出しをしようとなれば、聖殿からの許可が必要になる。

 となればまず私が着手すべきは──



「──エリマス様」



 他の護衛との会話を終えたエリマスに声をかける。

 憎たらしい程に冷静な瞳とばちりと視線が交わる、けれど自然と心は凪いでいた。


「こちら、先日お預かりしていた書類です」

「? 何を……」


 預かっていた書類など当然ない。

 先ほど空いた時間に走り書きをした手紙を渡すと、エリマスの眉が僅かにはねる。


<早急に大司祭の容態を確認できないでしょうか。可能であれば癒術を施してみたいのですが>


 懸念すべきはラミアが今の私を見て何か勘づくかもしれないということだ。

 メガイラは私を一目見て不調に気づいた。今の私の霊液とやらの状態は分からないけれど、ラミアにも何らか察知する力があるなら厄介だ。

 となれば彼女と対面する前に事を急ぎたい。


「ああ、わかった」


 エリマスは小さく頷き、手紙を畳んで懐にしまう。


「レミジオ」

「なんでしょう?」

「急だが今日の午後、オルフェン殿下が我がメレアグロス公爵家に訪問される予定が入った。ノーナと二人で護衛に当たってほしい。他も数名同行させる」

「えっ」


 何故貴方が行かないんだ、と言いたげなレミジオの視線が私とエリマスを往復する。

 

「私は終日ラミア様に護衛の依頼をされている」

「そ、そうですか……承知しました」


 暗にその間、ラミアを監視しておくつもりだろう。そしてオルフェンを主にすることで、聖殿側に手出しをしづらくさせられる。

 オルフェンには事後承諾を取るのか、しかしよくこの一瞬でそこまで頭が回るものだ。

 どこか気まずそうなレミジオは私に小さく「よろしく」と口を動かし、逃げるように去っていく。


 そして私とエリマスは、当然何事もなかったかのように。



◆ ◆ ◆



(……さすが天下のメレアグロス公爵家……)


 もはや一国の城だ。

 王都からほど近いというのに、街並みを抜けた途端、視界の端まで広がるのは長い年月を耐え抜いた山脈のような外壁。

 荒々しい重みを湛えた石造りの壁が空を切り取り、両翼に伸びる建物は敷地の端が霞むほど遠い。門から玄関まで続く石畳は整然と並び、まるで美術館のアプローチのようだった。


 確か屋敷から離れた領地の経営は公爵家に代々仕える家令や臣下たちが代行しているはずだ。重要な決裁が必要な場面でなければ、エリマスはなかなか屋敷に戻れない──そんな話を思い出す。


「私も何度かお邪魔したことがあるんですが、とんでもないですよね」

「掃除するのに一週間はかかりそうですね……」


 急な予定にもかかわらず、オルフェンは快諾し、さらに伝令鷹まで飛ばして公爵家に受け入れの準備をさせたらしい。

 さすがエリマス、手段を選ばないにも程がある。


 そしてどうやら、この屋敷に大司祭が匿われていることはレミジオには知らされていない。同行者の中で事情を把握しているのは、私とオルフェンだけ。

 つまり──この広大な敷地で、私とオルフェンが抜け出して大司祭の元へ向かわなければならない。


 何人いるのか分からない侍女と使用人に丁寧に歓待され、へろへろになっていた矢先。


「体調は大丈夫ですか」

「お、どろかさないでください殿下……」


 ひょい、と顔を出したオルフェンに心臓が飛び出しそうになった。


「昨日の今日で貴女が動くと思っていなかったので驚きました。それに、貴女を駆り出すエリマスにも」

 

 周囲には誰もいない。


「今が好機です。私についてきてください」

「ですが」

「子供の頃から屋敷の中で隠れて遊んでいましたから。多少いなくなったところで問題ありませんよ」


 迷いのない足取りで進むオルフェンに、小走りでついていく。

 途中、侍女や使用人とすれ違ったものの、確かに誰にも咎められない。


(……現王とエリマスの年齢差は親子ほど離れていて)


 二人の父である前王は、オルフェンにとっては祖父にあたる人物だ。

 前王は一回り年下の正妃――メレアグロス公爵家の令嬢を迎えたものの、長く子に恵まれなかった。その間に側妃が先に男子を産み、その子が王位継承権第一位となった。

 そして、その子が成人したのち、ようやく正妃にも男子が生まれる。それがエリマスだった。

 正妃は出産後に体調を崩して公爵家へ戻ったが、穏やかで大らかな人柄の女性だったという。側妃とも仲は良好で、彼女の子である現王の息子、オルフェンのことも度々公爵邸に招き、エリマスと分け隔てなく、まるで兄弟のように可愛がっていた、と。以上、全て原作に書かれていた内容だが。



「ここです」


 一人で来たら二度と戻れないであろう入り組んだ廊下を、何度も曲がった先の扉の前に立つ。


「……私です。失礼します」


 オルフェンが慎重に扉を叩くと、くぐもった声が返ってくる。

 促されて中へ入った瞬間──足が止まった。


(なんだ、これは)

 オルフェンもまた私を振り返り、小さく頷く。きっと彼にも見えているのだろう。

 大量の黒い蛆のような“何か”が、寝台の上を無数に這い回っていた。本物の蛆ではないと分かっていても、悲鳴を上げそうになるほどおぞましい。

 深呼吸をして、喉奥に込み上げる嫌悪を押し込める。


 大司祭の虚ろな瞳が、ゆっくりとこちらに向けられた。

 オルフェンの姿を認め、そして私を見るなり、伏せられていた瞼が持ち上がり、その瞳の色が驚愕に染まる。


「あ、なた様は……」

「突然の訪問、お詫び申し上げます」


 その表情からは、副司祭から感じたような敵意は微塵もない。

 胸を撫でおろし、オルフェンと共に寝台へ近づく。


「大司祭様のご体調が優れぬ旨を殿下から伺い、かねてより案じておりました。急なことで見舞いの品もなく、申し訳ございません」


 黒い蛆のようなものの上にそっと手をかざす。

 すると、まるで極性の異なる磁石を近づけたかのように、ざわりと逃げていった。

 隣でオルフェンが小さく息を呑む。


「私のような者でよろしければ、癒術を尽くしたく」


 大司祭の目が細められ、口元が震える。

 縋るように伸びてきた痩せた手を思わず握ると、その目尻にじわりと涙が滲んだ。


 同意──ということでいいだろうか。オルフェンを振り向くと、強く頷かれる。


 ここまで調子がいい状態で行うのは初めてだ。

 何故か色々見えるようになってしまったオルフェンがいる以上、例の糸が見えないようにする必要はあるけれど──それでも十分だろう。 


 大司祭の胸元に手をかざす。黒い蛆は逃げ惑っていた。

 力を籠める。身体中に熱が駆け巡り、相手が年配であることを踏まえて加減しながらも、まるで乾いた大地に水を注ぐような流れが手の平から伝わる。


 チカ、と火花が舞う。それは完了の合図。


(……あり得ない)

 早すぎる。本来なら一時間は踏ん張る覚悟をしていたのに。


「……えっ、もう終わったんですか?」


 子供のような声を上げたのはオルフェンだった。

 黒い蛆は跡形もなく消え去り、土の色をしていた大司祭の顔に血の気が戻っている。


「な、なんか、いけましたね……」


 拍子抜けしたのは私もだ。

 大司祭は小さく咳き込むと、ぐっと身体を起こす。

 私とオルフェンが慌てて背を支えようとするが、軽く制された。

 見抜くような、清らかな瞳がゆっくりと私を捉える。


「……殿下。少し席を外していただけますか」

「え、あ、ああ。承知しました」


 弱々しいのに、よく通る声。

 オルフェンは気圧されたように腰を上げ、そそくさと部屋を出ていく。

 ぽかんと見送っていた私の手を、大司祭は改めて握り直した。


「……ここまでの無礼をどうかお許し下さい、──糸績み様」


 逃げられない。

 けれど、その視線はどこか心地よいほどに澄んでいた。


「大司祭様、」

「貴女が聖冠の神子を名乗り現れた時は、胸が凍る思いでした。よもや、糸績みのご自覚がないのではと」


 穏やかな微笑み。

 そして──はっと思い出す。


『まさしく大司祭様のおっしゃられた通り!』

『聖冠の神子の中でも千年に一度、聖なる加護の力の行使後も偉大なるステュクス神のお力で再び息を吹き返すという伝説──』


「……え、じゃあ、あの時、聞いたこともない伝説が急に出てきたのは」

「あのままでは、貴女が目覚めてしまい混乱を招くと判断し……この老いぼれが咄嗟に吐いた偽りでございます」


 大司祭はそう前置きし、手短に、しかし要点を外さず状況を語ってくれた。


 私の正体には当初から気づいていたこと。

 名乗らない理由も理解し、見守っていたこと。

 ラミアが聖冠の神子ではないことも分かっていたが、聖殿にねじ伏せられたこと。

 それでも彼女が癒術を使えること、得体の知れぬ存在であることから、しばらくは静観していたこと。

 しかし彼女が現れてから王城や聖殿に生じた“違和”に見かねて進言した矢先、突如あの黒い蛆に襲われたこと。


──アドラストス猊下や副司祭を含め、大司祭以外の聖殿関係者には私やラミアを見抜く能力などないこと。


「私が大司祭の席にいるのは、聖冠の神子を見定めるためでございます」


 悔やむように、その目が伏せられる。


「あの少女からは確かに聖冠の神子の気配を感じるのに、その器に別のものが入っているようで……恐ろしいことです」

「器……」

「貴女様もお気づきでしょう。ラミア・ヴェスペルが助けたというあの騎士がすでに──死んでいることを」


 息を呑む。

 そして導かれるように、頷いた。


「当初は私も、冥王の配下かと疑いました。事実、あの少女は聖苑の庭に入ろうとしない……いえ、入れないのでしょうが」

「……聖苑の庭って」


 高位聖職者と王族の血縁のみ立ち入りが許される、あの馴染みの庭だ。


「あの場所は立場さえあれば入れるのではなく……?」

「聖域でございます。紛い物は自ずと弾かれましょう」

「わ、私も紛い物ですが……」

「どうかご謙遜なさらず。貴女様は──我らの及ばぬ高位の御方」


 瞳に籠る静かな熱に、思わず閉口する。


「ただ私は聖殿に目を付けられ、あまり自由が利きません。お傍でお守りできぬことが悔やまれますが」

「私、例の騎士と共に襲われた使用人と、騎士の婚約者を助けたいんです」


 そして彼らからの証言が欲しい、そんな下心は飲み込む。


「ですが私は何故かこの二人への関与を聖殿に拒まれていて、」

「……おそらく、口封じでしょう」


 大司祭の声音は静かだったが、その奥に沈む怒りは隠しきれていなかった。

 握られた私の手に、先ほどまで臥せっていたとは思えないほどの力がこもる。


「ですが貴女様が望まれるなら、私もできる限りの手を尽くしましょう」

「……大司祭様」


 口封じ──はっきりとは言わなかったけれど、おそらく聖殿側の圧力がかかってのことだろう。


 『ペルセポネの冥戦』では冥王以外に敵なんていなかったはず。

 それすらも変わっているのか、それとも、はじめから"そう"だったのか。



「生きているうちに貴女様に力を使って頂けたなんて光栄……恩を返さずして、ゆめゆめ冥界などには渡れません」



 その穏やかな微笑に宿る決意に、私はただ静かに頷いた。

 



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