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「あれはやはり以前言っていた黒い異形か?」
「の、可能性が高いと私も踏んでいます」
「……君の力を吸い取ったという……」
しかし分かったところで倒す方法が見つからない。鋏を試してみてもいいけれど、失敗した場合のリスクが大きすぎる。
「そのラミア様にはお近づきになれましたか?」
そっと顔色を窺うと、エリマスは目を泳がせた。
「警戒はまだされているだろうな」
「警戒……やはりエリマス様に私の力が付与されているからでしょうか」
「大体、私が彼女に近づいたところで何がどうなる予定なんだ」
夜の色に濡れたセレストブルーが戸惑うように揺れている。
「ラミア様が人柄だけではない、何か特別な力で人を虜にすることができるのだとしたら、その仕組みを知りたいです」
人を操るという点ではアレクトの能力が遥かに勝る。
しかし使用人たちの状態を見る限り、そこまでのものはない。
「すでに仲睦まじそうだったので、てっきりエリマス様もすでにラミア様の魅力に取り憑かれたかと思いました」
「……やめてくれ、あり得ない」
「だとすると、例えば王族には効かないとか、そういう制約があるのかもしれませんね」
冷静にそう返すと、エリマスは目を細めた。
「……君の方も随分殿下と打ち解けたようだな」
妙に棘のある声色に、私は首を傾げる。
「打ち解けるだなんて不敬ですよ」
「あの殿下が本気で君の心配をしていた」
「あれは演技です」
「…………わざわざ私に、君が飲んだのは毒じゃなく酒だと言いに来た」
絶妙にすれ違う。暖簾に腕押しだ。
「? それはエリマス様の心労を思ってのことでしょう」
「念のため言っておく。殿下は信頼に値する人物だが、君の正体については明かさない方がいい」
「もちろん明かすつもりはありませんよ」
……なんなんだ。
「もしや私がこの混乱に乗じて王家に混乱をもたらそうとしているとでも、」
「思ってない」
疲労のあまりおかしくなっているのではないか。
顔を覗き込むと、わざとらしく逸らされる。
「……では、まさか私が殿下とお近づきになろうとしていると? 以前エリマス様がおっしゃられたではないですか。アルカヌム伯爵家の養女ごときがと」
レミジオと仲が良くなった時も頓珍漢な忠告をされたのだ。
思わず鼻白むと、エリマスが溜息を吐く。
溜息を吐きたいのはこちらだが。
「貴族として、家格の違いについては弁えているつもりです。私の態度が不遜だと思われるのであれば、それは己がただの人間ではないという自負からくるものです」
伯爵家は貴族社会の中でも決して地位が低いわけではない。それでも王族や公爵家には遠く及ばない。
私が遥かに格上のエリマスやオルフェンと気安く会話しているのは、この距離感が期間限定で後腐れがないものだと分かっているからだ。
「家格を理解しているのであれば君がヴェスペル男爵家のラミアと私の婚約を押し付けてきたのは理由がつかない」
「聖冠の神子であれば実家の格など関係ないでしょう」
「だがあれは偽物だろう」
「……まだ確定したわけでは」
確固たる証拠がないというだけだけれど。
しかし、なるほど。
「分かりました。エリマス様とラミア様とのご婚約の件、お願いをした私から陛下に取り消していただくよう進言すればよいのですね」
とはいえ、このタイミングでそんなことをすればますます王城内の空気は殺伐としたものになるだろう。
どうするか、と目を泳がせたところでエリマスが咳ばらいをする。
「それはあの女の尻尾を掴んでからでいい。そうでないと角が立つだろう」
「……お気遣い痛み入ります」
それにしても、エリマスの行動が読めない。
妙に危機感がないというか、彼もまたエリマス・メレアグロスらしくないというか。『ペルセポネの冥戦』とは違い、右目の失明が治ったことが影響しているのだろうか。
「ちなみにこの後どうやってここから出られるおつもりですか?」
さっさと会話を切り上げようと顔を上げると、エリマスは涼しい顔で窓を指さした。
何がクールビューティだ。
「……王族は窓で綱渡りをする練習でもなさるんですか」
「護衛としていかなる窮地でも脱出できるようにはしている」
「貴重な技術をこんなことで使わないでくださいよ……」
窓辺に近づき改めて外を見やり、下を覗き込む。ヒュ、と胸の奥が縮んだ。
ふと振り返ると、ずっと立っていたエリマスがすぐ傍にいることに気が付く。
目が合うと、しばらく逸らせなかった。
──美を追求され尽くし徹底された造形。
わずかな月明りで浮き彫りになる陰影は、儚さよりもむしろその際立つ存在感を演出する。人間ではなく神の遣いだと言われても違和感はない。
たった二頁ごときで、展開を巻き取るために急いで死んでいい人じゃない。
「……どうして君は、私に力を与えたんだ」
静かな、呟くような声だった。
「え、」
「ここまで散々はぐらかしてきただろう。不死の君が私に命を救われたはずがない。かといって恋情もない。執着しているのも私自身ではない」
一歩踏み出したエリマスの革靴の音が、やけに大きく響いた。
「『糸績みが心から信頼した者にはより強い加護の力を与え、更に双方愛し合ったなら、その者だけが糸績みの傷を癒し、不死を終わらせられる』」
伝説の一節を諳んじたエリマスの瞳に、私の間抜けな顔が映る。
「私が言いかけた時、間髪入れずにそれは迷信だと君は言ったな」
「それは……」
エリマスの手が窓台にかかる。逃げ場がない。
「君は以前自分に冥界に行く手段があると言った。つまり自分の不死を終わらせる条件も理解している」
「……」
「それもそうか、糸績みの魔女という仕組み上、その役目の本質の記憶は残されたまま魂が戻されるんだったか」
「……」
「では何故私を──"選べた"? 私は棺の前で会うまで、君の顔も知らなかったのに」
さすがは若き公爵。点と点を結ぶのも正確だ。
「……それを知ってどうなさるんです。貴方以外に私が自由に力の行先を変えられるのではと心配なさっているのですか」
冥界に行くためにやってみようと思ったことは確か。ただ成功するとは限らないけれど。
「別に君がそれを望むなら構わない。右目の光を取り戻した時点で私はすでに救われている」
「では己の身に人外の化け物の力が残ることが恐ろしいと」
「……そんなこと、一言も言っていないだろう」
何が言いたい。何を淀んでいる。
「この力で国を傾けるつもりもありません」
「分かっている」
「でしたら何が疑問ですか。……伝説の通りです。貴方の評判を聞き、信頼しました。だから力を与えるに相応しいと思ったまで。会ったこともない貴婦人から好意を寄せられたことくらいおありでしょう」
互いの息が交わりそうな距離に、喉が詰まる。
「その程度のことで私に自分の命運も賭けたと?」
「結果論でしょう。当時は冥王が復活するなんて思っていませんでしたから、あとは慎ましく不死の生を送るだけのつもりでしたよ」
「聖冠の神子になりきり聖殿も王家をも化かして、自ら己の首を掻き切ってまですることか?」
どうして、
(どうして、貴方の方が、泣きそうなんだ)
「……今更その話をするために、こんな時間にいらしたんですか?」
窓台が軋む。
「では何でしょう、実は私が貴方を好いていて、報いとして貴方の心が欲しいと言えば納得がいきましたか?」
あそこまで強い酒を飲む必要はなかったかもしれない。頭も、喉奥も痛い。
「以前にも私を引き留めるのに、見返りとして婚姻してもいいとおっしゃられましたね。とんだお戯れです」
引っ込めた意識を手の平に集中させる。
行き場のない白い糸が私の身体に纏い、夜闇に揺蕩う。
「私は糸績みの魔女。死を恐れぬ、そして死が救済になりえぬ憐れな化け物です。貴方がた人間とは感性も覚悟も違う。この数か月で、よく理解されたのでは」
互いにどこも触れていないのに、その視線の鋭さに身体が強張った。
「それともまた私を憐れんで、」
エリマスが動く気配に、思わず息を呑む。
胸倉でも掴まれるかと身構えたのに──頬に柔らかい髪が触れ、そして左肩に柔く体重がかけられる。
形のいい頭が、額が、肩に乗せられた。その重みがあまりに静かで、その温度に気づいた瞬間、金縛りにあったように動けなくなる。
「な、」
刹那、弱い稲妻のような青白い閃光が走る。はっと見下ろすと、それはエリマスの足首──例の契約紋から迸るものだった。
「……大司祭には、行動制約の契約の解除の代わりに公爵邸が匿うことを約束した」
くぐもった声が耳元で響く。
「何を……」
「アルカヌム伯爵家については当家が守る。殿下も協力して下さるだろう」
分からない。
「だから今夜、ここから逃げろ」
美しいプラチナブロンドの髪は、まるで天使の羽のように輝いている。
その光景が、どうしようもなく現実離れして見えた。
「君を……いいえ、貴女をここに留まらせていたのは私の独断です。糸績みの魔女をかように矮小な王城に捕え、見境を失った愚かな人間に害され続けるなど、神々も黙ってはいない」
身を引いたエリマスは、恭しく腰を折った。
軽くなった左肩が、ひどく冷たい。
「今夜、って、せめて私がラミア様とエリマス様の婚約を取りやめないと、というか、そのラミア様のことだって、」
「どれも貴女が心を砕くほどのことではありません」
ずっと求めていた、分かり切っていた言葉なのに。
「……人間ごときが冥王に、あの異形たちに対抗できると?」
「それで滅びるなら、そういう宿命でしょう」
宿命。運命。決められた展開。
分かっている。私が一番分かっていた。
それを捻じ曲げた張本人なのだから。
「この時間であれば衛兵も憲兵も手薄です。最短で国外へ逃げ切るルートもすでに調べました」
「最初から、そのつもりで?」
「……いいえ」
セレストブルーが、揺れていた。
「改めて貴女の話を聞いて、意思を聞いて、……このまま貴女はここにいれば、目的のために死を選んだり、身を傷つけることが容易に目に浮かびました」
「……」
「どこかで私が傍にいれば、心の闇を明かすことができると思っていたんですが」
凛としてどこか冷たく見える、聡明の色。
「この王城は、ただただ貴女を苦しめる材料にしかならない」
呼吸が、乾く。
肺が空気を拒むように、浅くなる。
「……私が敵に回ったら最悪だとおっしゃられたのはエリマス様でしょう。私を自由にして大丈夫ですか」
「貴女がそれを正しいと思われるなら、構いません」
「は、」
「むしろこんな虚構、壊れてしまった方がいいかもしれませんね」
ここにいるのはノーナとエリマス様ではなく、糸績みの魔女とメレアグロス公爵だった。
エリマスは窓に手をかけ、持ち上げた。
柔らかい風が入り込み、ガウンが揺れる。
「城の外までは私がお送りします」
据え膳だ。ここまで用意されて、何を拒むというのだろう。
「……結構です。この高さであれば私ひとりで出られます」
「翼でもおありで?」
「そこまで大層なものではありませんが」
いつかの、窓際での騒動の真逆だ。
飛び降りようとした私を止めたエリマス。
今度は私を窓から逃がそうとしている。
意を決せば、手の平から舞い上がっていた糸が互いに絡みあい、そして窓の外へ、地面へと勢いよく降りていく。
エリマスは息を呑み、幻想的な糸の先を目で追っていた。
彼が考えたという逃亡ルートが書かれた羊皮紙を受け取り目を通し、躊躇いなく窓台に足をかけると、戸惑ったようなエリマスの声が追ってくる。
「荷物は、」
「? 特に必要なものはありません。お手数ですが私のものは処分しておいてください」
まさかこんなに突然出ていくはめになるとは思っていなかった。
かといって今からどうしても持っていきたい荷物なんてひとつもない。
確かにとっとと出ていってた方が話は早いだろう。いちいちエリマスの許可を取る必要もなくなる。強いていうならちょっと身体がだるいくらいだ。
(ティシポネやメガイラに合流した方が冥王の動きが知れるかもしれないし、ラミアの件も手がかりが掴めるかも)
何よりエリマス側から手を離されるということであれば、これ以上の状況はない。
「お世話になりました、メレアグロス公爵閣下」
私たちにしか見えないはずの糸が、夜風に流されるようにゆらめく。
それは我ながら、天女の羽衣のようだった。
「出て行った後の始末に関しては全てお任せすることになり申し訳ないです」
「それは、もちろん」
「ありがとうございます。二度とお会いすることはないでしょうが、」
さようなら、エリマス。
「どうか、長生きしてください」
そう言って、手を放したはずだった。
糸を伝って、降りて、着の身着のまま逃げ出して、エリマスの言う通りあの外壁に沿って走り、手薄になっている裏口を抜けて、彼が手引きした御者の馬車に乗って──
「い、った……」
痛い。容赦なく額と鼻をぶつけた。
何が起きたか分からない。
確かに私の身体は窓の外に向かっていたはずなのに、とんでもない力で引き戻されたかと思えば、間抜けな音と共に床に転がり落ちていた。
実際にはエリマスが下敷きになり、私は強かに彼の胸板に激突しただけなのだけれど。
「なんの、つもりで」
自分には最強の防御力があるからと無茶をしているだろう。
顔を上げて文句を言おうとして、けれどそれは叶わなかった。
頭ごと抱えるように抱きすくめられて、身動きが取れない。じんじんと痛む鼻の奥を、彼の制服の清潔な香りが擽る。
出ていくなと言ったり、出ていけと言ったり、意味が分からない。
災厄にもなりうる脅威が自由になろうとしていることに怯えたか。
非難しようと上げた声は押しつぶされて届かない。
「分かっている、」
細身に見えて、けれどさすがは護衛、身体は厚い。多少私が身を捩ろうとしたところでびくりともしない。
「ここには君を縛る理由なんてないことも」
その声が僅かに震えていて、私は思わず息を呑んだ。
「私ごときが追い縋って良いような存在じゃないことも」
腕の力が緩み、そこでようやく私は呼吸の仕方を思い出した。
床を探して手をつき、顔を上げる。
一見すればまるで私が押し倒しているような構図だった。
(私だって分かっている)
エリマスが私を引き留めるのは、やがて襲い来るであろう脅威に怯えているからであって、藁にも縋る思いだからであって。
王弟であり公爵当主である矜持と自覚と、エリマスという青年が抱えるには重すぎる責で揺れているからであって。
「……エリマス様」
糸は知らぬ間に消えていた。
見下ろせば当然、目が合った。
骨ばった手が伸びる。指先は恐る恐る私の頬をかすめ、触れる。首筋が粟立ち、思わず顔を逸らす。
状況の気恥ずかしさから離れようとして、けれど上体を起こしたエリマスのせいで叶わない。
「矮小なのは、私の方だな」
エリマスは薄く笑う。
ぞっとするほど美しい、彼の方こそ人間ではない。
その間合いを誤魔化そうと口を開こうとして──叶わなかった。
あり得ないと思っていた、寸分の猶予が与えられたのに逃げられなかった。
呆気なく唇が重ねられたことに呆然として、何かの間違いだと思って、けれど、動けない。
そして我に返るより先に、体内をぱちぱちと泡が弾けるような感覚に戸惑う。
思わず胸を押し返して離れると、まるで線香花火のような小さく白い光が身体の周りで散っていた。意識もしていないのにするすると細い白い糸が現れ、渦のように身体を包み、踊る。
「え、な、なにこれ」
突然口づけられたことにももちろん、何よりも目の前の現象が理解できない。
「……綺麗だな」
エリマスの感嘆の声にもうまく反応できなかった。
──理解できないはずがない。
さっきまで残っていた酔いも、頭痛も、いつかの足の傷も、軋むように残っていた古傷も全て消えていく。
指先から爪先から、何かが満ち溢れてうねるような感覚。
『糸績みが心から信頼した者にはより強い加護の力を与え、
更に双方愛し合ったなら、その者だけが糸績みの傷を癒し──』
全快、という言葉が正しいか。
皮肉なことに思考はすっきりと冴えわたり、全ての不調が消え失せていた。
思わず裾をたくし上げ、太腿に残っていたはずの傷跡を確かめる。
(ない……)
傷一つない足を見て呆然としていると、乱暴に裾を引き下げられた。
「え」
「人の腹の上でいきなり足を出すな」
真顔のエリマスに凄まれて思わず「……すみません」口角が引きつる。
沈黙。
私に何が起きたか、言わずとも分かる。
「……それで、何が迷信だとおっしゃっていたんだったか? 糸績みの魔女」
「いや、その」
理解する。
首が、耳が、熱い。
思わず俯いて顔を覆った手を引き剥がされ、覗き込まれる。
「ちょちょちょっと、待っ、待ってください、整理ができておらず、私もその、意味が分からなくて」
「それにしても、随分ロマンチックな仕様だな」
エリマスは困ったように笑う。
「……いかにも神々が好きそうだ」
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