23
「せ、聖冠の……ノーナ様が!」
「大丈夫ですか!?」
「顔色が……!?」
とはいえ、洒落にならないほどには苦しい。
ぐるぐると目が回り、吐きたくても吐き出せない苦しみで思わず嗚咽する。
意識を飛ばさないギリギリを狙ったつもりだが、とっとと駆けつけてほしい。
さすがに目の前で倒れられては無視できないのだろう。
人だかりができていく気配が伝わる。
「何かお怪我を!?」
「いいえ、見たところ何も……」
「意識はおありのようだ」
「運ぶか!?」
「しかしこの様子では」
申し訳ないが、当然試合は中断。
読み通り癒術師たちと侍医が駆けつけ、声が飛び交う中、私の意識は遠く壇上へ向かっている。
「む、胸が苦しくて……」
大袈裟に息を切らしながら、うっすらと目を開ける。私の顔を覗き込んでいたのはヘメラだった。
「何があったのです!?」
「果実、水を、飲んだら、急に息が……」
「やはり毒の類……!」
酒もある種毒でも薬でもあるのだけれど。
「誰か応援を呼んで! ノーナ様は以前にも癒術が効かないことがあったから……」
良い前振りだ。そう、今回も癒術が効かないのではと思ってもらって構わない。
そして予定通り、壇上のオルフェンが周りに制止されながら降りてくる。
心配して当然だ、オルフェンがノーナ・アルカヌムを気にかけていたことは周知の事実なのだから。
「一体何があった!?」
「の、ノーナ様が果実水を飲まれた直後に……」
迫真の名演技。オルフェンは正装が汚れることもいとわず膝をつき私の顔を覗き込むと、周囲に向けて声を張り上げた。
「貴方がたは何を呆けている!? ただちに癒術を!」
「すでに施しております! ですが……!」
緊張が肌に刺さるように伝わってくる。
なお、エリマスにはこの作戦を共有していない。
彼は現れるだろうか。それとも、ラミアの傍を離れずにいるだろうか。
「血は吐いておられないようですが……」
「ノーナ様が口をつけられたグラスを探せ!」
「解毒剤を片端から持ってこい!」
動揺と混乱の中、そしてオルフェンがこう叫ぶ。
「聖冠の神子ラミア……! 貴女の力を借りられないだろうか!?」
さあ──どうする。
その場の観衆の視線、意識、全てが壇上へ向かう。蹲る私には、彼女の表情は見えない。
騎士たちは、護衛たちは見たいだろう。
素晴らしい聖冠の神子が、すでに栄光から遠ざかった旧聖冠の神子にその深い慈悲で手を差し伸べる姿を。
自分たちの仲間である騎士グレアムの窮地を救った、その尊き力を目に入れたいだろう。
期待を込めた沈黙。
ラミアの可愛らしい、しかし意思を持った返事を待ち息を呑む音。
「わ、私では、とても……」
戸惑うような、細い声が耳に届いた。
(貴女はここで断るわけにはいかないでしょう)
「先日の者たちの重症に比べれば、彼女はまだ意識もある。ただどうも、普通の癒術は効かないようで」
「ですが、」
「ノーナを助けてやってくれ……! 以前の彼女の献身を知らない者はいないだろう?」
私を踏みつけ、そして見せつければいい。
その類まれな奇跡の力を。
ああ、我ながら最高に、──性格が悪い。
聞こえないはずなのに、ラミアの足音が聞こえる気がした。
胃の中がひっくり返されるような気持ち悪さ。今にも吐きそうなのを、根性だけで押しとどめる。
「う……ッ」
「大丈夫かノーナ……!」
私の呻き声に、縋るように身を寄せるオルフェン。演技に力が入っている。
そう、私の顔に近づけば酒の臭いに気づかれる。隠すためにも、しばらくはここにいてもらわなければならない。
ラミアの気配が近づく。
群衆は道を開けていた。それはさながら、モーセの十戒のごとく。
ラミアが本当に私を友人だと思うなら、オルフェンに呼びかけられる前に駆け付けるべきだった。
きっと声をかけられるまで遠巻きに見ていたのだろう。あるいは、危険だからと退場させられる時を待っていたかもしれない。
「ラ、ミアさまのお力を、借りるなんて、」
「そうは言っていられないだろう!」
互いに白々しいことは承知だ。オルフェンと目が合う。
それは、何かを確認し合うような一瞬だった。
「ノーナ様……」
ざり、と砂利を踏む音。
視線を上げると、怯えるような表情で私を見下ろすラミア・ヴェスペルがいた。
「やってみますが、力が及ばない可能性も……」
「ああ、解毒剤が届くまでの間だけでいい!」
なるほど、断らずに一旦受ける方を選んだか。
さすがにこの場で断れば分が悪いことは理解していたらしい。
ラミアはオルフェンの隣に腰を下ろすと、私に向かって手をかざした。
くらむ視界の中で、その指先から目を逸らさないようにする。
願うようにラミアが目を閉じると──そのどこか清らかな雰囲気には似合わぬほど、おどろおどろしい黒いうねりが湯気のように立ち上った。
隣のオルフェンが青ざめ、息を呑んだのが分かった。
そして周囲は、その黒い何かに全く気付いていない。
(間違いない、)
【──ご苦労だった糸績みの魔女!】
そう叫んだ目玉と、同じ気配、同じ動き。
ぐ、と歯を食いしばる。
このままこれを受け入れて良いものかわからない。
しかし黒い影はまるで私の身体に入ることを拒むようにするすると周りを這い、薄く広がっていく。
まるで生暖かい吐息をかけられているような心地に、全身が粟立つ。
酷い酔いも呼吸も忘れ、覚悟をしたその矢先──落ちていた影がふいに消えた。
「え、」
思わず、唖然とする。
ラミアを遮り、冷たい目で私を見下ろしていたのはエリマスだった。
「エリマス……!」
慌てた様子のオルフェンを、エリマスは鋭く睨み返す。
その手にはラミアの細い手首が捕まれている。さっきまで立ち上っていた黒い影は、気づけば跡形もなく消えていた。
「殿下。そちらのノーナ・アルカヌムの治療は侍医たちに預けてください」
低く抑えた声が、場の空気を一変させる。
周囲に動揺が広がる。
ラミアの表情は、エリマスの影に隠れて見えなかった。
「め、メレアグロス公爵……いくら貴方と言えども、ラミア様をそのように扱うなど」
「ラミアは今朝がたから体調が悪かった。とてもじゃないが癒術を使わせられる状況ではない」
諫めた騎士の一人に、エリマスが淡々と返す。
私を助けに来たわけではなく、ラミアを庇いに来た。それが分かると、張り詰めた空気はわずかに緩んだ。
「そうだったのか。……そうとは知らず無理をさせた」
切り替えたオルフェンが硬い声でそう返すと、ラミアは怯えたように小さく首を振る。
なんと可憐で、痛々しいことか。
ラミアを庇い、私を咎めるこのエリマスの態度も、おそらく演技なのだろう。
──本当に?
じくりと胸の奥に沈む軋みを払いのけるように、エリマスから目を逸らし、私はすぐ傍にあったオルフェンの手に縋った。
「皆様、ご迷惑をおかけし申し訳ございません。……治療院まで、お願いしたく」
惜しいものの、とにかく今日のところは目的を果たせた。
ここは潔く撤退するに限る。
(あの黒い異形はラミアに寄生しているとして、あの時私の霊液を奪ったことで……)
頭が回らない。
それもこれも全部酔いのせいだ。
どこかで思い切り嘔吐させて頂こう。考えるのはその後でいい。
◆ ◆ ◆
こうなることに備えて食事を控えていてよかった。
恐ろしく効くという下剤を飲まされ、腹の底をひっくり返して吐き出したのはほとんど胃液だった。
そしてよもや私が酒で倒れたとは思っていない侍医たちには最後まで見抜かれず、この国の医療のレベルに改めて愕然としたのだけれど。
女性用の厠でおぞましい程呻いていた甲斐あってか、それなりに症状が重かったと判断されたらしい。ただ私の懇願の甲斐あって、夜のうちには例の集中治療部屋を脱しなんとか自室に帰してもらえた。
とにかく頭の中を整理したかった。
周りに癒術師や侍医がいては気持ちが乱れそうだったから。
「しんど……」
ほとんど肌着のまま寝台によりかかった。
むしろ毒の方がマシだっただろうか。しかしそんなものを持ち出したことが知れれば別の咎めがあるだろう。
熱と吐き気は引いたけれど、まだ僅かに目が回る。頭痛と胃痛で立っていられない。できれば今日明日、誰とも会話したくない。
しかしこれを代償に引き出せたものは大きい。運ばれてすぐ見舞いに来てくれたオルフェンの表情が忘れられない。
互いの目で確認した、あの異形の姿。
そして他の人々の目には映らない、不気味な黒い何か。
できればあの場でグレアムに変化があったか見ておきたかったけれど、それは叶わなかった。
水差しに手を伸ばし、だらだらと水を飲む。
以前の私ならきっと本物の毒を呷ることも、あるいは短剣で腹を切ることも考えただろう。
それを今回は酒の一気飲みなんていうアイデアで乗り切った。
癒術が効かないことの苦しみを実感するようになったからでもあるけれど、化け物のくせに自分を傷つけることに後ろめたさを感じるようになったのは──
浮かんだのは私を冷たく見下ろすエリマスの瞳だった。
(なんだっけ、ファンタジーとかでよくある魅了の魔法とかそういう……)
ラミアに媚びろと命じておきながら、いざあの対応をされるとしばらく立ち直れそうになかった。
あれが演技ならいい。
けれどもし本当に、他の使用人たちと同じように、すでにラミアの手中にあったなら。
『自ら捨てられる程度の命なら、私に賭けろ』
とっくに賭けている。
揺れそうになる感情を殺して、常に俯瞰して。互いに生身であることを意識してはいけない。
あくまでエリマス・メレアグロスは創作の中の虚像。人工的に作られた、この無茶苦茶な世界の登場人物。
分かっていたはずなのに、随分深入りしてしまっている。
(早く解決して、出て行かないと)
身体が動くようになったらもう一度王都に出よう。
メガイラかティシポネに会って、もう少しヒントをもらいたい。
水差しを置いて、溜息を吐く。すでに時間は深夜を回っている。
身体に籠った熱を逃がそうと、よろよろと窓辺に手をかけて──ふと思い出す。
フレゲトン王国でのティシポネ急襲後に、エリマスとひと悶着があった時に窓から飛び降りてやりそこねた"あれ"を。
「……さすがに無理か」
霊液とやらが半分になっているらしいこの身体に、今どこまで無茶が効くか分からない。
それはアルカヌム家にいた頃、一度だけ成功したもの。
手の平に意識を集中すると、ふよふよと白い糸が浮き上がる。糸というよりはもう少ししっかりとした、綱に近いだろうか。
淡く光るそれは風のない部屋の中で天井へと向かっていく。
我ながら神秘的だ。敵の中ボスにしておくには勿体ないほど──と、ぼうっとその糸の行く先を眺めていたのも束の間。
「え」
窓を叩く音。
人影。
すごい形相のエリマス。
「え?」
何か口をぱくぱくと動かしているエリマスが、窓の外にいる。
ここは一階じゃない。
慌てて糸を消し、がたつく窓に手をかける。そして勢いよく開けると、どこか湿っぽく温い風が吹き込んでくる。
そして幻のようなエリマスが咳き込みながら転がりこんできた。
「えっ、あ、な、なんで、」
「今のは何だ!?」
それこそ、こちらの台詞である。
エリマスは自分と一緒に入ってきた本物の綱をぐるぐると器用に巻きながら「また何か無茶をしようとしていたな!?」とんでもない剣幕で息巻いている。
「どうして窓から、というかこんな時間に」
「扉から入れば怪しまれる」
「窓から入った方が怪しまれますよ……」
化け物とはいえ未婚の女性だ。窓から侵入していいはずがない。
というか私が起きていなかったらどうするつもりだったのか。窓を叩き割りかねない。
意味不明なエリマスの行動に、けれど彼のあまりにいつも通りの態度に、何故か私はほっとしていた。
「まず昼間のあれは何だ、あの様子だと殿下も一枚噛んでいるだろうと思って場は収めたが──」
と、思い出したように私を見下ろして一瞬固まり、エリマスはぐるりと身体を明後日の方向へと向けた。
「……悪い。何か羽織るか着替えるかしてくれ」
「あ、失礼しました」
こちらが詫びる謂れはひとつもないのだけれど、便宜上ということで私はガウンを羽織った。さすがに人として、肌着姿の成人女性は目に毒だったらしい。
妙な沈黙。もういいですよ、と声をかけると、エリマスは窓の近くの壁にもたれ掛かった。長居するつもりはないらしい。
「どうしてこんな時間に?」
「……大司祭の体調が芳しくないので連れ添っていた。ひと悶着あって今はうちの邸で療養していただいている」
質問の答えになっていないが、まあいい。
聖殿の重鎮を公爵家に連れ帰るなど、それなりの事件だ。ひと悶着どころではないだろう。
「そんな最中にわざわざお越しいただかなくても」
「昼間は目立つ」
「ですから、窓から入る方が目立ちます」
笑いを誘っているわけではないらしいのが余計に怖い。公爵家当主がやっていいことではない。
そういえばいじめ騒動の時もとんでもない突撃の仕方をしていたことを思い出す。さすがは護衛筆頭、ということにしておこう。
「……まず最初のご質問ですが、自分の力の確認をしていただけで怪しいことはしていません」
エリマスの表情を見る限り、ここはひとまず合格らしい。
「それから昼間の件はおっしゃる通り、殿下と示し合わせてのことです。私があのような場で倒れた場合のラミア様の言動を確認しておきたく」
「私にも協力を仰げばもう少しスムーズに進んだだろう」
「相談するタイミングがなかったので」
仮に心配して顔を見に来たにしても、もう少し方法はあるだろう。調子が狂う。
「私も彼女が聖冠の神子になってから初めて癒術の現場に同席したが、……あんな黒い靄、以前にはなかった」
(やっぱりエリマスにも見えていたか)
ほっと息を吐く。




