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(それにしても、……さすがに今回は無理かもしれない)

 

 周りの目を気にしているとはいえ、明らかに力が足りていない。

 伝承の通り、()を使わなさすぎたからか。

 王城に来るまでは定期的に化け物退治をしていたのに、それもめっきり減ってしまった。


「……っ痛、」


 出来上がったばかりのかさぶたを剥がされるような痛みが、体内に走る。

 エリマスには嘘を吐いたことになる。私の癒術に代償はないと言ったけれど、例外はあるらしいと。


 いや、違う。

 考えろ。


 そもそもこの傷は何だ?


 刃物でもなければ獣の爪でもない。

 口の大きな蛇に丸ごとかじられたような、歪で深い傷。

 人間業ではありえない。

 なら化け物の類か、けれどその場に冥王の印は残されていなかったという。


『人喰いには気を付けて』


 ティシポネの声が、ふいに頭の奥で反響する。


──しかし我に返るには、遅すぎた。


 手をかざしていた部分から黒い羽虫のような何かが群がり、おぞましい渦が無数に立ちのぼる。

 私だけが息を呑み、周囲の誰も気づいていない。

 渦はまるで蚯蚓(みみず)の束のようにうごめき、抵抗する間もなく私の腕に絡みつき、這い上がってくる。


「っやめ──」


 グロテスクな花弁がばっくりと開くと、その中央に目玉が現れる。

 悪夢の産物のような異形は、丸い眼球をぐにゃりと歪ませた。


【──ご苦労だった糸績みの魔女! 潤沢な霊液(イコル)をどうもありがとう!】


 口もないのに、頭の中に声が直接注ぎこまれる。

 ケタケタと笑うその響きは幼子のようで、底知れず邪悪だった。


【お陰で私は完成された!】


「は……ッ」


 侍医の数名が、不思議そうにこちらを振り返る。

 助けて、とは言えない。声も出ない。

 彼らには何も見えていない。

 見えないものに、どう抗えというのか。


 二歩、三歩、後ずさる。視線は逸らせない。

 (武器)を──と、床に手をつこうとして、しかし躊躇った。


 もし切り落としたとして、それはこの化け物だけに効くのか。

 あるいは、これに憑りつかれている騎士の青年ごと“切れて”しまうのか。

 それはほんの数秒の逡巡。

 僅かな隙に目玉は黒い渦へ沈み込み、ねじれながら萎んでいったかと思えば、渦ごと煙のように霧散した。


 何が完成された?

 霊液(イコル)って何?


 どっと力が抜け、膝が床につく。

 身体の奥からエネルギーを根こそぎ奪われたようで、浅い呼吸しかできない。

 混乱する頭を振り払い、ふらつきながら立ち上がり、もう一度青年へ手を伸ばす──が、足が竦んだ。


「……え」


 先ほどまでかすかに残っていたはずの灯が、

 そこにはもう、どこにもなかった。




◆ ◆ ◆



 その後どうやって自室に戻ったのか、あまり覚えていない。

 確かに自分の足で歩いたはずなのに、記憶に靄がかかっている。

 誰にも責められず、むしろ宥められていたような気がする。

 その優しさすら今は遠い。

 腰掛けから動けず、一睡もできないまま窓の外が白み始める。まるで私をあざ笑うように、穏やかな朝日が昇っていく。


 もう一人の使用人も、あれから意識は戻らなかったはず。けれどまだ息はあった。懸命に治療を続ける人々を背に、私は無様に部屋へと帰された。


 騎士の婚約者は、幼馴染のレミジオは、私を憎むだろうか。大層な力を持ちながら称えられながら、たった一人も救えない化け物を。

 最期は安らかだっただろうか。あの異形に苦しめられていなかっただろうか。


 何が悲しい。何が怖い。

 ひょっとすればこの世界も、今この瞬間も全部、一続きの長い悪夢で──顔を上げれば、味気ないワンルームがあって、取り込み損ねた洗濯物がそのまま干されているのかもしれないのに。


 私が欲をかいたせいだろうか。

 どうせ死ねない身体なら、無茶をしてでもエリマスを生かしたいと思ったから。

(今からでも、)

 オルフェンに力を乗せ換えれば、世界は変わるだろうか。

 そもそも乗せ換えるなんてことができるのかどうか、試したこともないのに。


──違う。

 世界なんてどうでもよかった。

 この大地が地獄の業火に焼かれようが、私は死ねないのだから。


(そう、どうでもよかったはずで……)


 漫画だったら、きっとこれは必要な試練として描かれるのだろう。

 貴女のせいじゃない、こんなところで挫けないで、彼の死を受け入れて乗り越えて、さらなる高みを目指して、そうしたらきっとあの異形を倒して仇を討ちましょう。


 レミジオの死もエリマスの死も、オルフェンを更に強くするためのステップの一つに過ぎない。


 本当に私の望みを叶えるためなら、ティシポネの甘い囁きに乗った方が良いだろう。

 エリマスさえ助かるなら、この王城が消し炭になったって構わないはずなのだから。

 そしてコンスタントに化け物なり人間なりを鋏で切り倒し、癒術を万全な状態まで取り戻す。

 私の本来の役回りに戻るだけの話だ。


 眩しいばかりの陽光から目を逸らし、腰を上げる。ふらふらと窓際に辿り着くと、遠くに霞む山々が見える。

 エリマスとの契約だけが厄介だ。

 私は彼に黙ってグラナトゥム王国の領地を出られない。


 軋む胸の奥を誤魔化すように溜息を吐く。

 背後で再びけたたましく叩かれる扉に、しばらく返事ができなかった。


「……はい」

「ノーナ様! あの騎士様が……奇跡の力で目を覚まされました! どうかすぐお越しになってください!」


「は?」



──あり得ない。



 よろめきながら、私は侍女たちに連れられて数時間前まで血の海だった治療室に足を運ぶ。

 景色はまさに一変していた。

 拍手喝采、窓から差し込む眩い光、涙ぐみながら微笑む人々。


 その中心にいたのは確かに瞳を開いている騎士と、その隣で椅子に腰を下ろしほっとしたように顔を綻ばせる、ラミアの姿。


「聖冠の神子様のお力が開花されたのです!」

「まさに神の所業……!」


 あり得ない。

 呆然と立ち尽くす私を、ヘメラが覗き込む。


「ノーナ様?」


「傷、は……?」

「それがあっという間に塞がって!」


 あり得ない。


 確かに騎士の瞳は開いて、瞬いている。

 生きていないのに、生きている。


 あり得ない。


「あ、ノーナ様!」


 ラミアが私を見つけると、まるで小動物のように駆け寄ってくる。


「ずっとご迷惑をかけっぱなしで……ですが昨日倒れてしまった時に、ステュクス神にぎゅっと抱き締められて──」


 違う。

(あれは、だって、魂のない人形でしょう)


 じゃあどうやって動いている?

 どうして誰も気づかない?


「ノーナ様?」


「え、あ……いえ、よ、かったです、本当に、」


 喉がカラカラに乾いて、目はぐるりと大きく回る。胃の中をひっくり返されそうな、強烈な不快感。


「ごめんなさい、私、寝ていなくて、ちょっと体調が」

「ああ、そうですよね、……ヘメラさん、ノーナ様をお部屋に。今までの恩返しができるよう、私頑張りますから!」


 決意したように小さな拳を握り、可愛らしく微笑むラミアの表情を、私の頭はうまく処理できなかった。

 喜びに満ちた空間で、ただ一人だけ異物になったような感覚。

 足元だけがぽっかりと抜け落ち、虚ろな闇に飲み込まれていくような──





 それから世界は、目まぐるしく移ろっていく。





 その翌日、ラミア・ヴェスペルは正式に聖殿と王城から“聖冠の神子”として発表された。まるでこの時を待ち構えていたかのように、滞りなく迅速に。


 騎士グレアムの復活は神子の偉業として新聞に踊り、王都中を飛び交った。一面には、レミジオや婚約者と抱き合い喜ぶグレアムの姿。

 まるでラミアが冥王の闇を払う光そのものだと言わんばかりに、物語は過剰に脚色されていく。


 整った可愛らしい顔立ち、屈託のない甘い笑顔、守ってあげたくなるような華奢な肩、鈴のなるような声、気取らない性格。

 構成するのはすべて、彼女を主人公たらしめるもの。

 まるで私が欲しかったものを具現化したようなその姿は、私利私欲の化け物である私が正体を疑っていいものじゃない。


 あれから一度だけ、グレアムとすれ違うことがあった。

 恐ろしくて顔を上げられず、逃げるように立ち去ったのだけれど。




「──これは何のつもりだ」


 エリマスの怪訝な顔にも、心は揺れない。


「ラミア様がお力に目覚められたことですし、私も満を持してお役御免です。これまで大変お世話になりました」


 私が提出したのは、いわゆる退職願だ。

 まずはエリマスの承認が必要だというので、丁寧に執務室まで持ってきたのだけれど。


「例の行動制約の契約もできれば解除をお願いしたく」

「勝手に決めるな」

「そういえばまだご婚約の方は正式に発表されていないそうですが、早くなさった方がいいですよ。殿下に先を越されるかも」


 黙って鋭く細められた目にも、何も感じない。

 全てシャットアウトしてから、随分心は穏やかになった。


「冥王の件はご懸念もおありでしょうが、きっとラミア様がなんとかしてくださるでしょう。あと一応エリマス様には私の力もかかったままですし」

「……拗ねて背を向ける子供の言い分にしか聞こえない」

「そう解釈頂いても構いません」


 拗ねている、それだけならどれだけよかっただろうか。

 単に私はお手上げなのだ。

 あの騎士グレアムの件も、──ラミアの件も。


「ここを出て行った後どうするつもりだ」

「どうでしょうね。フラウス村の復興とか、いえ、普通に実家の手伝いをしようかと」


 あとは月に三体ほど化け物を退治して、最低限の生活を維持するつもりだ。

 もうそれ以上は考えていない。


「ラミア様はとうに私の癒術を超えられたわけで、名実ともに聖冠の神子でしょう。確かに癒術師不足ですから、そういう形で私の雇用を継続したいというお気持ちは分からなくもないですが」

「殿下の護衛を減らしていい時期ではないことは承知の上か? 君が一番理解している認識だったが」

「エリマス様は勘違いされているようですが、」


 低く、そして感情は乗せずに。


「私にはもとより、王家への忠誠心も、人としての善性もございません。行動原理は全て、己の欲を満たすため」


──それこそ貴方が一番理解しているはずだと。


「……つい先日まで冥王を打倒すると言っていたのと同じ口だとは思えないな」


 エリマスの笑みが歪む。


はなから私が救いたいのは世界ではなく貴方です。そのためならば、という文脈のつもりでしたが」

「……で? そんな私が前線に立つことを知っておきながら、自分は隠居すると」


 なんとでも言え。


「そうですね。ですがエリマス様には……いえ、この国にはラミア様がいらっしゃる」


 日に日に膨らむ彼女への疑念は押し殺した。

 矛盾はねじ伏せ、見て見ぬふりをする。


「……君が出て行けば私がその正体を暴くと言ったら?」

「どうぞお好きになさってください。王城中の侍医が、エリマス様のお心が闇に蝕まれたと心配するでしょうが」


 エリマスがいくら高い地位にあるとは言え、妄言だと一蹴されるだろう。

 一度でも私を聖冠の神子だと認めた聖殿の判断を覆すことになる。

 私の不死を確かめるために、王城を去った私の胸を貫いてみる気概のある人間がこの王城にいれば、話は別だろうけれど。


「王城を去りたい理由は何だ。聖冠の神子が目覚めたことで君が貶められたか?」

「いえ。強いて申し上げるなら少々、役の割に無茶をしすぎたというか、疲れまして」

「なら君の気が済むまで休めばいい」

「かと言って護衛として所属している以上、有事の際には見て見ぬふりをするわけにもいかないでしょうし」

「気安く君が召喚されないように計らうことくらい可能だ」

「うーん……」


 やはりどこの組織も、人手不足と言うのは痛いのだろう。

 今の私は、自転車操業状態の職場で自分と同じスキルの転職者が入ってきたので辞めますといっている中堅社員のようなものだ。

 

「ここに残るのに見返りを望むなら、君と婚姻してもいい」

「どなたがですか?」

「私がだ」

「はは」


 冗談を言うようになったものだ──と、はたと我に返る。


 交渉はこのままでは平行線だ。この調子では王城を出られたとしても、行動制約の契約解除は受けられないだろう。

 猫の手でもプラスチックの盾でも、とにかく何かを手元に置いておきたいエリマスは、何がなんでも私という駒を残したいらしい。

 首を傾けると、こきりと嫌な音がした。


「そもそも君が本当に出ていきたいのなら、私に許しを乞う必要はないはずだが」


 それはきっと、その通りなのだろう。ひくりと口の端が引きつった。


「黙って出て行って良いと? それで罰せられないという確約があるならそうしますが」

「仮に罰せられたとしてそれはアルカヌム家だろう、私以外どうでもいいのなら実家のことも切り捨てればいい」


 なるほど、賢くていらっしゃる。


「ではせめて期限を設けてください。エリマス様がラミア様のお力をお認めになられたらですか? それとも冥王の脅威を回避できたらですか?」


 やはりエリマスに正体を明かしたのが間違いだった。逃げるための策が全て封じられている。

 いや、そもそも私がここに飛び込んできたこと自体間違いで──そんなことはとうに分かっている。


「なら、……君の傷が完全に癒えるまでだ」

「? ああ、落馬の時のですか」


 先日のような無茶をしなければ半年もあれば──そんな私の算用は、エリマスの言葉に遮られる。


「身体のこともあるが、君の心の傷が癒えるまでは私の監視下に置く」

「はい?」

「前にも言っただろう。君の能力は敵にするには最悪だと。その心のありようではいつ傾いてもおかしくない」


 つまりだ。

 私が闇堕ちして冥王側につくかもしれないから、目のつくところにいろということか。


 さすがは王家の血筋。とことん、勘が良いことだ。


「傷とやらが癒えたかどうかは、私からの自己申告制ですか?」

「こちらが判断する」

「横暴ですね……」


 肩を落とす。


(出ていくとしてもせめて、あのグレアムの件くらいは片付けてからにするか……)



 化け物はどこまでも欲深く、そして救われない。

 

 



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