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──危なかった。並みの人間ならうっかり恋に落ちていてもおかしくない。
あれから私は遠慮なくびーびー泣いて、落ち着いた頃にはいかにも高級そうなハンカチで顔を拭われた。その後一人で部屋に帰れますと言い張るのもとことん無視され、結局扉の前まで送られて。道中、まるでそれまでの会話の記憶を失ったかのように、エリマスはだらだらと王都の美味しい料理店を順に挙げていった。嗚咽の余韻でほとんどまともに返事はできない私に何も言わず。
絵にかいたような、立派な大人の気遣いだ。完敗だ。
私はもう二度とエリマスに逆らわないことをステュクス神に誓った。
しかし同時に我に返る。
いつの間にか私は打倒冥王を掲げていたけれど、当初の目的はそれではなかったはずだと。
私が護衛の任についた理由はたった二つ。
エリマスの防御力がどこまで増幅されているかの確認と、私が良いタイミングで退場するための機会を探ること。
前者については最早こじつけた言い訳だ。そして後者についてはもうタイミングどころの話ではない。ラミアは現れ、すでに物語は始まっている。
だとすれば今の私は、一体何のためにここにいるのか。
冥王がどうなろうが人類がどうなろうがオルフェンがどうなろうが、よくよく考えれば私には関係がない話で。
むしろこのままエリマスの傍にいれば、私は確実に狂う。
不死の化け物のくせに一丁前に、人間のエリマスに焦がれてしまうかもしれない。それだけはあり得ない。
(護衛を辞める? ラミアがあの状態で? いやでも私には関係ない、けどここまで乗りかかった舟で彼らを見捨てろと……?)
路線変更だ。
やはり冥王をさっさと倒すしかない。
世界を平和にすれば私は何の心配もなくこの世界から出ていける。
そうすればエリマスとラミアの恋も多少進展して、私の目的も達成される。私はただ、彼に幸せになってほしいだけなのだから。
「いや、どうやって……?」
とうとう『ペルセポネの冥戦』の始まりの季節は、目の前に。
翌朝。
必死に冷やした努力も空しく目を腫らした私は、殊勝なことにいじめられていたことがいかに辛かったかをレミジオに話し、全ての辻褄を合わせることには成功した。
おろおろと私を慰めようとしてくれるレミジオには申し訳ないけれど──前に立ち報告書を読み上げるエリマスはどこ吹く風で涼しい顔をしている。
あり得ない。
絶対に惹かれてはならない。
「──辺境伯領の件、例の赤い令嬢の仕業で間違いないらしい」
被害にあった夫人や侍女の証言を照合し、騎士団で編成された調査部隊からもその結論に至ったようだ。王城内は今朝からその話題で持ちきりだった。
「なんでも全員抵抗する間もなく血を吐いて倒れてたって」
「外傷はほとんどなかったんだと」
「一体何なんだ……」
「夫人たちが無事だったってことは、女は狙わないのか?」
(……やっぱりティシポネか)
一気に現実に引き戻され、頭が冷える。分かってはいたことだけれど、やはり彼女とは敵対しなければならないらしい。
「赤い令嬢の目撃情報は王都にも出ている。手の内が分からない以上、遭遇しても決して対応せず逃げるように」
ちら、とエリマスの視線がこちらに向けられたような気がして、思わず顔を逸らした。のだけれど。
「──で。あの赤い令嬢の正体は何だ」
しっかり本調子のエリマスに呼び出された私は今、一対一で詰められている。
「えっ」
「君があの晩餐会で出くわしておきながら切れなかった、そして立ち去った場には冥王の印が残っていた。つまりあれはただの異形ではなく神そのものか、あるいは神に力を与えられた何かだな?」
ご明察だ。
本当ならもっと早く尋問したかっただろうに、ティシポネが今回の件まで罪を犯していなかったことが彼を留めていたのだろう。
「君がレミジオを逃がしたのにも意味がある。違うか? あの時は適当に濁されたが、」
「……まず、……彼女の名前はティシポネです」
確かに彼女は一線を越えた。
ならばもう、仕方がない。
「ティシポネ……」
「元は人間ですが神に力を与えられ、いわばどちらにも属さない存在です。出くわしても、人間と見紛うかと」
「思った以上に詳しいな」
「……私も彼女も冥界に通じる同胞ですから。私も彼女に認知されていましたし」
す、とエリマスの目が細められる。何か言おうとして、けれど躊躇ったようだった。
「なら君含め、女は殺さないと言うのは確かか?」
「いいえ」
「? 知っているなら、」
「理由の善悪問わず、──人を殺めたことがある者は等しく彼女の報復の対象です」
「……報復?」
「彼女は無作為に命を奪うわけではありません」
生と死を司る神々に気に入られ、特別な力を与えられてしまった元人間。
経緯だけ見れば、皮肉にもそれは癒術の始まりにもよく似ている。
「元は人間ですから、思考回路もそこまで突飛ではありません。人を殺めたことがある者の中でも、特にその命を奪うことに……大義があると判断されれば、対象になるかと」
「大義……?」
「良くも悪くも、ロクでもない人間の犯罪者よりは理性的で、良心があるということです」
だからあの場でティシポネはレミジオを追わなかったし、私が意識を奪った男たちを放って立ち去ったのだ。
猟奇的ではない。
エリマスの視線は僅かに彷徨い、何か答えを探しているようだった。
「……君にも能力があるように、彼女にも特異な能力があるのか」
「ありますが、私も全てを知るわけでは」
そう、これもある程度だけだ。
実際、自分の能力ですらも作中に描かれなかった補足事項がいくつもあったほどだ。今回すでに彼女の動きは読めなくなっている。私の知識はあくまでほんの上澄みとしてとらえるべきだろう。
「特筆すべきは、先ほど申し上げた対象に該当した場合、かつ彼女の血に触れると死ぬということでしょうか」
「は?」
「ああ、いや、正確には血に触れたその者の命を奪おうと彼女が決めた瞬間ですが」
一撃必殺。エリマスの表情に、絶望が過る。
「それは、つまり」
「彼女に狙われたら、普通は勝ち目などありません」
罪を背負う者は、あまねく彼女の手中に入るのだから。
「今まで語らなかったことを責めて頂いても構いませんが、……知ったところで何の対策もできません。それに、何故知っているのかと問われた場合の答えを用意していなかったので」
事実が半分、嘘が半分だ。
私はどこかで彼女が、アレクトのように罪を犯さず、この先関わらないでいてくれるのではと、淡い期待を抱いていたのかもしれない。
この期に及んで愚かなことだ。自覚した自分に呆れてしまう。
「……いや、もし当時君にそれを説明されても、信じられなかった可能性の方が高い」
項垂れたエリマスは額に手を当てる。
普通は不死だと言われた方が信じられないだろうけれど、確かに彼は一度私が生き返るのを見ている。今回は更に私の巨大鋏を見たことが裏打ちになったのだろう。
「彼女の弱点は」
「……相手が眠っているか、意識のないうちは手が出せないということくらいでしょうか」
「…………、君」
そして何かに気付いたように、エリマスはぎろりと顔を上げた。
「まだ何か隠しているな」
「え? いや、聞かれたことには全て答えて、」
「やっぱりあの場で衛兵まで全員気を失っていたのは君の仕業だろう」
隠していたわけではない。忘れていたのだ、あのあとに色々ありすぎて。
「あの時の足の怪我はおかしいと思っていたんだ、今の話を聞けば尚更。そこまで強力な能力を持つ異形がわざわざ君にあんな素人じみた傷を負わせるわけない。君がティシポネの能力を知っていたならあの場で彼らを巻き込まないように、」
「話します話します話します」
読み上げツールがごとく無感情な声に、慌てて私は白旗を上げる。
「細かい仕組みはさっぱり分からないんですが、私はその、己の流れた血の量に応じて相手の意識を奪えます。というかこれは別に攻撃用というより、おそらく癒術の一貫というか、痛みの緩和のための能力というか」
「……」
「ですがその、人数だとか相手の強さによっては継続できる時間にも結構ムラがあったり、なので試したことはないですが、多分エリマス様やレミジオ様には効かない可能性があって」
「……他には」
「他? いえ、多分言い漏れていたのはこれくらいかと……?」
「なるほど分かった。急を要しない限りそれは絶対に使うな」
「ええええ……」
どん、と壁に背中を預けてもたれかかったエリマスは深い溜息と共に天井を仰ぎ、しばらく無言で眉間を揉んでいた。
この力については作中でどう描写されていたかさえ記憶がないほどだ。私も自分で説明ができるようになるまで随分時間がかかったのだから。
「あとこの前言っていた、私との会話は外に聞こえないだろうというのは」
「防音……というか、私に限らず、神から力を付与された者は意識すれば自分との一対一の会話であれば第三者の耳に入らないようにできますね」
三人で会話したらどうなるのかについては試したことがない。『ペルセポネの冥戦』でも、そこは簡単にしか説明がなかった。
そもそも私はエリマス推しであって、中ボス程度の私やティシポネについては漫画に描かれていることは覚えていても、それ以上の考察やらは深追いしていない。
「あの、それよりもですね」
「それよりも?」
エリマスの低い声に怯みそうになりながら、しかし私は握った拳に力を籠める。
「仮にエリマス様がお強くて、私の力が付加されていることを鑑みても、今ティシポネと対峙した場合勝てる可能性は──ほとんどありません」
「……」
感情的に言い返されなかったことにまず胸を撫でおろす。彼自身もそれは理解しているのだろう。
「一方で、すでに起きた辺境伯領とスパルトイ子爵領の件はむしろ不自然です。彼らならこうしている間にいくらでもこちらを蹂躙できるのに、この二件だけに留めている」
この世界は、原作からは大きく逸れている。
変わったことと、変えられなかったことはそれぞれ切り分けて考えなければならない。
「となると──すでに冥王は復活しているものの、何らかの理由で人間界に自由に干渉できない、あるいはしないようにしている。そしてその手駒たちも同様だとするなら」
普通に考えれば、悠長にしている暇はない。
「そう、つまり出てこない今のうちに冥王を止めるしかないんですよね」
「は?」
「え?」
セレストブルーと交差した視線。
しかしその表情は、予想外に困惑したもので。
「止める……と、言ったか?」
「え、お、おかしいですか」
「いや、心持ちとしてはおかしくはないが、君がそう言うとは思わなかった」
ぐるぐると思考を巡らせ、そして確かに気づく。
今私が立っているこの世界で、エリマスたちはあくまで『冥王が襲ってきたらどうやって対抗するか』までしか考えていない。
当然だ。
『ペルセポネの冥戦』で冥王を倒そうと立ち上がるのは、オルフェンなのだから。
「ともかくですね」
ステュクス神ですら冥王を封印するに留めたのに、人間ごときが倒せるなどという発想に至る方が不自然かもしれない。
「短期決戦と考えて、私にしかできない案があります」
「君にしかできない……?」
「ただ、エリマス様にもリスクがあることではあるのですが」
「それは問題ない」
話せ、と促され、私はごくりと息を呑む。
「私が冥界に行き、冥王を止めます」
「…………もう一度」
「ですから私が冥界に行き、冥王を」
「落ち着け」
落ち着いている。昨晩ほとんど寝ずに考えた末の最適解なのだから。
「確かに君が特別な立ち位置で異形の類からも認知され一目を置かれていることは分かった。ただ冥王を止めるというのは、」
「しかしやってみないことには」
「そもそも。冥界に行くというのは何だ? 隣の国に行く感覚で言われても」
「そう、そこです」
エリマスの引いた目にもいよいよ慣れてきた。
「以前のお話の通り、私は糸績みの魔女で、この身に宿命を背負っています」
言いながら思わず胸を張る。
「私が条件を満たして不死を終えるたび、この魂は冥界の川で洗われもう一度人間界に戻される──つまり私には冥界に行く手段があります」
「……」
「冥界の川には渡し守カロンがいらっしゃるはずなので、そこで全力で説得すれば冥王か、あるいは最悪ペルセポネ様にお会いできるかも。そこはちょっと作戦を考えますが」
「……」
「となると私が一旦名実ともに死ぬ必要があるのですが、ご安心を。その条件というのを以前は濁しましたが──」
「ノーナ・アルカヌム」
「はい?」
「私が悪かった。今日から一週間ほど休みを取れ」
「え?」




