15
それからめでたく同僚となったレミジオ・ガレネの居心地の良さたるや。
家格は同じ伯爵家、年齢は二十九歳、そして思考回路はごく常人。
当然公爵閣下であり護衛の長であるエリマスの方が地位は上だけれど、実年齢ではレミジオが三歳年上。彼らが互いに気の置けない相手であることは分かっていた。
これまでエリマスから直接私に飛んできていた話も、その間にレミジオを立てることができる。逆もまた然りで、私もエリマスに話しかけなくても、レミジオを通じればよりコミュニケーションはよりスムーズで。
更に迂闊に話しかけてくるオルフェンを自然にブロックできる。
「レミジオさーん」
仰々しくガレネ卿、と呼んでいた日が懐かしい。廊下で遠目に見かけたレミジオに手を振ると、にこやかに返事が返ってくる。
「あれ? 今日午後休じゃなかった?」
「それが急遽聖殿に呼ばれまして……」
レミジオもまた私をノーナ様などと呼ぶことも、敬語で話すこともなくなった。
「ちなみに今日って何時に上がられます?」
「どうだろう。何もなければ十七時には出られるかな」
「もしご予定がなければ王都の文具屋に行きたいんですけど、お時間ないですか」
「ああ、もちろん。その時間なら夕飯も外で食べようか」
「いいですね。この前ヘメラさんが美味しいって言ってた肉料理の専門店が──」
束の間の平和、一筋の光。
ここに来てようやく彼が人気投票八位だった理由を思い知っている。
数か月の間、心身ともにあちこち痛い思いをした私のほんの僅かな癒しの時間を許してほしい。
──しかし私は忘れていたのだ。
どれだけファンタジー世界だろうが何だろうが、結局は生きた人間が営む共同空間であるということを。
冬が終わり春の兆しが訪れる麗らかな早朝。
朝食を取り終え、職場へ向かうべく城内の外廊下を歩いていた私の頭上に降り注いだのは眠気覚ましに良い、冷水の束だった。
「え?」
空を見上げる。いい天気だ。
半径一メートル以内限定の局所的な大雨か、とボケられるほど能天気ではない。
強いていうなら、数階上の窓が不自然に開いているように見える。
全身ずぶ濡れ。髪先からぽたぽたと水が落ちる。しかし今から戻って湯浴みをして着替える時間はない。
びっくりした。ちょっと前の少女漫画でしか見たことがないタイプの古典的な嫌がらせだ。こんなファンタジー世界にも存在したとは──感心が先に来る。
とはいえ相手の性別も分からない。何せ王城内ではそれなりに特殊な立ち位置だ、どの方面から嫌われてもおかしくない。
通りかかった侍女はぎょっとした顔をし、乾いた布をいくつか貸してくれた。最低限頭だけ拭いて先を急ぐ。まだ時間には早いはず。とはいえスマホのような気軽な連絡手段がないのはやはり痛い。一旦集合場所で誰かに声をかけて、それから着替えに退席しよう。
身に沁みついていた日系企業社員としての習慣は、どうやらこの世界では多少馴染まないようで。
「……何がどうしてそうなった」
「間違って井戸に落ちまして」
そしてこんな時に限って、エリマスが先にいたりする。最悪だ。
「間違って? 井戸に?」
「ということで一度部屋に戻って着替えたく、しばらくお時間を頂けないでしょうか。ご迷惑をおかけします」
怪訝な顔をしたくなる気持ちは分かる。しかし説明をするのも面倒で、機械的に頭を下げて踵を返すと、強い力で手首を掴まれた。
「……誰にやられた?」
「寝ぼけた己に、でしょうか」
「冗談を言っている場合か」
「私も疲れているんですよ。転んだりすることくらい」
「井戸に落ちたくせに怪我ひとつなければ足元もほとんど濡れていないな。それも君の能力か?」
「……」
さすが、目の付け所まで一流か。うっかり言葉を失う。
「少々自分の視野が狭くなっていたのが原因だとすれば、同じ話かと」
「濁すな」
笑ってはいただけないらしい。エリマスの瞳は鋭く光っていた。
管理職というのは部下の些細な変化にも気を配らなければならない、大変な立ち位置だ。
「公爵閣下にもご経験くらいあるのでは。出る杭は打たれるものです」
よもや自分が出る杭だとは到底思っていないけれど。無礼を承知で手を振り払うと、それ以上は追ってこなかった。
(だとして、一体私のどの行動の何が誰の逆鱗に触れたんだ?)
王城内の侍女とはそれなりにうまくやっている方だと思う。癒術師とも侍医たちとも意思疎通はできている。
エリマスともオルフェンとも距離を取っているつもりだ。ならば、聖冠の神子などと名乗ってポッと出の伯爵令嬢ごときが偉そうにしているように見られたか。
下駄を履かされて出世コースに乗っているわけでもない、誰かに媚びを売っているつもりも──と、ふと思い当たったのは。
レミジオと仲良くしすぎたからか?
確かに出世株であの年にしては珍しい独身貴族だ。エリマスやオルフェンには手が届かなくとも、ひっそりと憧れるお嬢様が城内にいてもおかしくはない。あのラミアだって、エリマスより好みだと言っていたほどだ。
「年を取るとそういうのも鈍感になるな……」
あちこちから滴る水で通る道に跡をつけながら、小走りで部屋に向かった。
それからというもの、冥王よりも百倍ほど可愛らしい敵は随分几帳面に私のあとを追いかけ回していたようで。
水が降ってくる、土が降ってくる、仕事用の外履きが消える、護衛の詰め所に置いてあった制服が何故か墨染めされているなど、あり得ないほど稚拙な嫌がらせをほぼ連日食らっていた。
やられるのはいい。この程度でめそめそ泣くほど子供じゃない。
ただ時期を選んでほしい、こちらも暇ではない。そして毎回周囲に被害を隠す労力が途方もない。
とにかく窓の下を歩かないことに徹して一週間。
しかし、やはりこの男の目は欺けなかったらしい。
「──いつまで付き合うつもりだ」
朝日が昇るより前に詰め所に寄ったのに、彼はいた。悲鳴を上げそうになったのを堪えただけ褒めてほしい。
「え、エリマス様……」
「相手の目星は」
「それはその、」
「……どうせ探してもいないだろ」
おっしゃる通り。
いつかは飽きるだろうと放っておいたのだ。こんなことにつき合っている暇はない。
「別に危害を加えられたわけではないので」
「業務に支障が出ている時点で危害だ」
確かに墨染めの制服は廃棄になった。経費の観点でもよろしくはない。
「ここに出入りしても怪しまれない職務に就いているどなたかだろうな、とは思いますが」
「鼠がいるのを分かっていて駆除をしないのは職務怠慢では?」
「鼠……」
それはそうだ。
「今日中に捕まえろ」
「えっ」
「捕まえるまで君を出入り禁止にする」
「……承知しました」
正しく等しく容赦のないことだ。
万一同情して慰められそうになったらお断りしなければ、などと思っていた己のなんと傲慢なことか。
──と、さすがに今日の今日で捕まえるなんて無理筋だろうと構えていたのだけれど。
仕事終わり、ここ数日避けていた、水をかけやすい窓の下をとぼとぼ歩いていた時。
まさかこんな据え膳に乗っかるほど相手も愚かではないだろうと思っていたのは、どうやら深読みのしすぎだったらしい。
硝子が割れる派手な音が頭上に響く。と同時に甲高い悲鳴が聞こえたような気がした。
何事かと見上げる前に誰かに抱えられ、豪快に地面に滑り込んだ。
「え?」
色気のない間抜けな声が出る。
状況が分からず顔を上げると、私を抱えたまま深い溜息を吐いているレミジオがいた。
「あーあー、あの人ほんと容赦ないんだから……」
「えっ、あの、一体何が?」
◆ ◆ ◆
つまるところ、犯人は侍女と男性使用人数名だった。確かに護衛の詰め所の掃除で見かけたことがある顔だった。
しかし犯人を前にしても私は怒る気にならなかった。
すでにその顔には"制裁"のあとがしっかりと残っていたからだ。むしろ気の毒になるほどに。
「──ということで全員即日解雇の上地下牢行きだ。明日以降は安心して職務に励むように」
どうやらあの帰り道、私はエリマスとレミジオに張られていたらしい。
そして飛んで火にいる夏の虫のごとく、今度は私にムカデの束をぶっかけようとしていたところ、彼らは容赦なくエリマスに襲われたというわけだ。
あの窓が割れた音は外からエリマスが何かをぶん投げた音で、手段を選ばない彼はその場で全員捕縛したと。
忘れていた。護衛筆頭の実力者であることを。
それらの諸々の始末の後、エリマスの執務室を恐る恐る訪ね、今に至る。彼の筆は忙しそうに書類の上を滑り続けていた。
「まずは心からお礼を申し上げるんですが、その、彼らの動機とかは」
「取るに足らない。君が気に掛ける必要もない」
「しかし私が自覚なく彼らを傷つけたのだとしたらまた同じようなことが……」
「ない。今回は良い牽制になっただろう」
未曽有の事態に加えて王子の護衛もある中で、こんなどうでもいいことに随分手間をかけさせてしまった。
罪悪感が胸に重く沈む。こんなことならもう少し早く自分で対応しておくべきだった。後悔先立たずとはこのことだ。
どこかその声に苛立ちや棘があるのを察して、諸悪の根源はさっさと退散すべきだろうと後ずさる。
「……承知しました。この度は誠に申し訳ございませんでした」
対応が遅れたのは間違いなく私の怠慢だ。素直に謝罪し頭を下げ、背を向けて扉に向かおうとして──「君は、」低い声が、追ってくる。
「? はい」
振り返る。けれどエリマスは書類に向き合ったまま顔を上げない。
「……一応忠告しておく。ガレネ伯爵家はこの国でも有数の名家で、貴族の中でも指折りの歴史が長い家柄だ」
「はい?」
「君の生まれに罪はないが、アルカヌム伯爵家の養女という立場ではおそらく認められない。どうしてもというなら──」
「え、ガレネ伯爵家が何ですか? すみません全く話が見えておらず」
レミジオの実家が何だというのか。唖然として、しかし頭をフル回転させる。
私もそこまで鈍くはない。沈黙の三秒の間に辿り着いた答えは──
「……もしや、私がレミジオさんとどうにかなろうとしているとお思いで?」
思っていたよりも低い声が出た。
「確かに騎士団から護衛に移られてから大変よくして頂いていますが、あり得ません。一体どこからそんな勘違いが」
「仕事終わりにわざわざ王都で食事に行く仲だと」
「仲って、いや、そんな勘違いをされていることを知ったらレミジオさんが泡吹いて倒れますよ」
高貴なエリマス・メレアグロス公爵は私の恋路の心配までしてくれていたらしい。頭を抱えたくもなる。
「仮にそうだとしてエリマス様に気にかけて頂く必要は一切ございません。公私の分別はついているつもりです。業務に影響を及ぼすこともございませんので、何卒ご安心ください」
そうは言いつつもレミジオは異性だ。第三者からこう見られてしまうのであれば、距離感は考え直さなければならないだろう。
せっかく気の置けない友人ができたと思ったのに。
「お忙しいところ些末なことでお心を煩わせたようで、重ねてお詫び申し上げます」
平常心のつもりだったのに、大人げなく私の声には棘が滲んでいた。
はっと我に返り、顔から血の気が引く。
相手は恩人であり、この国の現王の弟であり、公爵だ。
逃げるように二歩後ずさる。
しかしエリマスが手を止めて立ち上がった瞬間から、まるで凍り付いたように足が動かない。
さすがに立場を弁えていなかった。今の振る舞いも含め、何もかも私が良くなかった。
俯いた顔が上げられない。たった数歩で目の前に立ったエリマスとの距離が、あまりに近くて遠い。
「公爵、その、申し訳ございません、今回の件で私も少し動揺していて──」
「これまでの何がそんなに君の自尊心を傷つけてきた」
先にその場にしゃがみこんだのはエリマスだった。そしてその手に引かれ、私も間抜けに膝をつく。
「不死であることか? 自分の命の価値が希薄になったか。それよりももっと根深い何かがあるように思うが」
今までの冷たく詰めるような声は、まるで子供に語り掛けるような温度に変わっていた。
「何を、」
「私には熱烈な愛を向けて語っておきながら、そのくせ自分には何も向けてくれるなと徹底的に拒絶する。自分の傷にも痛みにも無頓着で、全て死ねば解決すると思い込んでいる」
セレストブルーに覗き込まれて、息ができなくなる。
「君の心はどこにあるんだ」
「……心、と、おっしゃられましても」
ばくばくと心臓がけたたましく音を立てる。
心とは脳にあるものか、そんな議論をどこかで目にしたことがある。
「私は、……人間ではありませんから。それこそまともな心があったなら、今この場にはいませんよ」
笑おうとして、けれど頬が引きつった。
「不死の魔女は人間に理不尽な悪意を向けられても何も感じないどころか、むしろ自分に非があると思ったと」
「……何をおっしゃられたいんですか。いじめられて悲しいですと私が泣けばご納得いただけましたか」
長い睫毛が頬に影を落としている。ああ、その美しさには寸分の狂いもない。
「あの程度、本当になんとも思っていませんでしたから。些末な問題です。結果的に皆様の手を煩わせたことは反省していますが、ご心配頂くほどのことでは」
「そう思うのは君だからだとして、他の者が同じ目に遭った時はその我慢を強いるか?」
「それとこれとは、」
「心がないふりをするのは良いが──」
その時ぷつりと、胸の奥の何かが切れた音がした。
「死ぬまで何度も首を切られたことも化け物に足から食われたことも生きたまま火にくべられたこともないくせにッ!」
振るいあげた手は、なんとか自分の意志で止めた。行き場を失った腕が宙をぐらりと彷徨い、脱力する。
顔は、とても上げられなかった。
「心がない? そんなものがあったら、正気でいられるはずがないでしょう……」
情けなく震える声は床に落ちる。
十年だ。この世界が、作られたものであると気付くまでに十年。
自分が何者か分からずに彷徨った十年、壊れそうになりながら呻き続けた十年。
狂っていて何が悪い。痛くないふりをして、自分の命の価値が薄れて何がおかしい。
「そうか」
伸びてきた指先を払おうとして、けれどその手を掴まれて、強く引かれた。
そのまままるで幼い子供をあやすように頭ごと上半身を抱きすくめられると、全身が強張った。
エリマスは何も言わず、ただ力が籠められる。息ができないほど苦しいのは、その圧迫感のせいか、それとも。
「……怖かったな」
そんな陳腐な言葉で片付けられるようなことではなかったのに。
言い返そうとして、けれど言葉に詰まった。同情も憐憫も求めていないのに、何も悲しくなんてないのに。
引きつるような情けない嗚咽が、喉の奥から零れた。
生理的に浮き上がる雫を拭う術もなく、硬い肩に顔を押し付けられる。鼻が潰れて痛いのに、声が出ない。
とん、とん、と大きな手の平に背中を叩かれる。
一体何歳だと思っているんだと笑い飛ばしたいのに、そんな力はどこにも残っていなかった。
(……最悪だ)
これも業だと言うのなら、私は一体どんな罪を犯したというのだろうか。
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