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それから意識的にエリマスを避けるようになって、二週間近く。
元の世界ならクリスマスが近いだろうか。比較的温暖なグラナトゥム王国では、まだ初雪の気配すらない。
聖殿管轄となったラミアとは頻繁に会えないけれど、一度だけ彼女の癒術の現場に立ち会わせてもらった。
そのとき抱いた印象は、確かに私に比べて驚くほど効きが弱く、そして時間がかかるということ。さらに彼女自身への反動があまりにも大きいことだった。
王城にもお抱えの癒術師はいるけれど、ラミアは彼らに多少勝る程度で、決して圧倒的ではない。大腿骨を骨折した騎士の治療に二時間。治療を終えたラミアは、重い貧血のような症状でそのまま臥せってしまった。
『……君ならどれくらいで終わる?』
なるほど、エリマスのその表情を見たらラミアがあの感想を抱くのも頷ける。
一人相手でいいなら三十分もかからない──私がそう答えたときのエリマスの顔が、今も脳裏に焼きついている。
つまり私は根本的に聖冠の神子という存在の"設定"を見誤っていたのだ。
漫画では癒術のスピードは描写しきれず、時間経過もほとんど省略されていた。比較対象となる聖冠の神子が同時に存在しない以上、読者は普通の速度など知る由もない。
そしてラミアの能力が過去の神子と平均して同じであれば、わざわざ描かれる必要もなかった。
「ラミアと仲良くなられたようで何よりです」
ところで現在、私は王城近くの狩場でオルフェンの護衛をしている。
「いえ、そこまでは」
「恋敵を前にして貴女の表情が変わるところでも見られるかと思ったのに」
こんなに捻くれた王子が後継でこの国は本当に大丈夫だろうか。言葉を返しきれず、結果的に無視をしてしまう。
気にも留めていないらしいオルフェンは、馬上で軽く振り返った。
「癒術についてはどう思われましたか?」
「……確かに、不安定かと」
「ですよね。あれではとても聖冠の神子として表には出せません」
柔らかい声色なのに、響きは冷徹。
ラミアと手を取り合っていた原作の彼からは想像もつかない。
「それで言うと私の事も表には出されていませんよね」
「聖なる加護を行使した後の聖冠の神子など、貴女がただ反感を買うだけですよ」
冷ややかなやり取りだ。そう言いながら、オルフェンは静かに弓を引き──放った先で、獣の悲鳴が短く響いた。
「貴女が別格すぎる。すでに聖殿も王城も混乱していますよ」
図らずも私は『え、なんか私やっちゃいました?』をやらかしていたらしい。
「……恐れ多いことです」
「そんな貴女を心酔させる叔父上には、やはり神をも操る才がおありなのでしょう」
その言葉の奥に本心が覗く。
周囲の反対を押し切って狩りの場で私以外を一定の距離まで退かせたのは、この話をしたかったからなのだろう。
ご丁寧に護衛筆頭のエリマスを強引に用件をつけて王城に置いてきて、だ。不用心にも程がある。
あるいは、私を試しているのか。
「ノーナ・アルカヌム嬢」
ゆったりと馬を進めるオルフェンは穏やかな笑みを浮かべていた。
「貴女、私の妻になる気はありませんか」
「ご冗談を」
びっくりしすぎて馬から落ちるところだった。
間髪入れずに反射的に答えたけれど、その内容はまるきり不敬だ。慌てて取り繕ろうとして、けれどオルフェンは俯いて肩を揺らしている。
「ふ、普通、あり得ませんよ、王太子からの求婚を、そんな」
「違うんです私のような者がまさかそんな殿下の、いえ、まずは申し訳ございません……」
一通り笑い尽くしたオルフェンは目尻を拭いながら、毒気の抜けた表情を向けてきた。
「……私では、殿下のお力になれることは少ないかと」
「でしたらラミアとエリマスの婚約の件を白紙にしてくださいよ」
「それとこれとはお話が別と言いましょうか……」
どこか楽しそうなオルフェンの隣で、私はふと一つの懸念にたどり着く。
そもそも。
(……あれ?)
原作において、ラミアは母親の死をきっかけに聖冠の神子の力を得る。そしてオルフェンの危機をきっかけにさらに覚醒し、聖なる加護を行使するに至る。
だとして、もう一人の主人公であるオルフェンはどうだったか。
彼は一体いつ、どのような経緯で、自分の手で冥王を討たなければならないと気付いたのか。
(あの話の中では至極当然のことすぎた、)
作中はほとんどラミア視点で描かれる。彼女がオルフェンに出会った時、すでに彼はその使命を理解していた。
だから彼はラミアに協力を仰いだのだ。自分に協力してほしい、秩序を乱す悪者一行を退治し、そしていずれは理不尽な冥王をも打倒しなければならないと。
現実、すでに冥王の復活の兆しが見えている以上、人間側は危機的状況にあるはず。私なんかを護衛に連れて、こうやって狩りに勤しんでいる余裕などあるはずがない。
騎士団にティシポネの行方を追わせている場合ではない。
仮に私のことが気に入らなくとも、癒術に優れた便利な駒があるなら、オルフェンはとっとと冒険に出ていなければならないはずで。
「……私のような者がこんなことをお尋ねするのは、あまりに差し出がましいかもしれないのですが……」
言いかけた瞬間、背筋を鋭く這い上がる悪寒に思わず振り返った。
まるで視線そのものが形を持って背後から触れてきたような、ぞわりとした嫌な感覚。
温度のない巨大な舌で背中を舐められたような、吐き気を催す気持ち悪さ。
「殿下」
「? どうしました」
オルフェンは気づいていない。
「申し訳ございません。至急他の護衛の方々を──」
鈍い轟音。
声を上げるより早く、地面に突き刺さったそれは不自然なほどに鏃の長い弓矢だった。
黒い矢羽が反動で震え、乾いた土埃が霧のように跳ね上がる。
悲鳴を上げる暇もない。
障害物など何もない空から撃ち落とされた、その事実だけが遅れて脳に届く。
オルフェンの無事を確認するまで、一秒もなかった。
馬を走らせなければ。逃げなければ。声をかけなければ。
そう思うのに声が出ない。
視界の端で、オルフェンの横顔がスローモーションのように揺れる。
彼の視線がようやく、その異物に届き──先に悲鳴を上げたのはオルフェンの愛馬だった。
「オルフェンッ!!」
声をかけても間に合わない。
矢の衝撃に驚いた馬が高く前足を上げ、主を強かに地面へと振り落とす。
受け身を取ったように見えたが、落馬の瞬間に派手な音がした。骨折していてもおかしくない。
もし、彼が力に目覚めていなかったとしたら。
(勝てる要素は、一切ない……)
あのオルフェンがいなければ成り立たないのだから。
次の一手の方向が読めない。
離れていた他の護衛の馬が走ってくるのも、やけに遅く目に映る。
オルフェンをこちらの馬に引き上げる力はない。判断の時間もない。丸腰の王子を放って逃げるわけにもいかなかった。
舌打ちもしたくなる。
馬から飛び降り、オルフェンの元へ滑り込んだ。目は開いている。ただ唇が青く、息が浅い。覆いかぶさるようにその肩を抱いた刹那、また背後にぞわりと気配が過る。
──来る。
先方はご丁寧に、気配だけは明瞭だ。
まるで手も足も出ないこちらの絶望を嗤っているかのような余裕。
原作の貴方ならこんな相手、一話分も消費しなかっただろうに。
逃げようがない。
かといって──いや、違う。
私がここで、正体を明かしてしまえばいいだけじゃないの?
自分が正体を晒せば、この場でのオルフェンは助かるだろう。
でもその後は?
駄目だ考える時間がない、やるしかない、逃げる手段はない、間に合わない。
──本当に頭が真っ白になったのか、それとも視界がその明るさで光を奪われたのか、分からなかった。
逃避するように強く目を瞑ったと同時に、とてつもない光線が頬の横を掠めた。
金属同士がぶつかる轟音。
焦げるような臭い。
反射的に、目を開く。
「ご無事ですか、殿下!」
何事かと思えば、それはエリマスの愛剣が矢と衝突した音だった。
叩き砕かれた矢は四方に飛び散り、煙を上げている。聞きなれた声の先には、馬に乗って駆ける見慣れた姿。
今日はここにいないはずなのに。
「え?」
え?
「殿下をこちらに!」
「ノーナ様もお逃げください!」
「後方、直ちに退避を!」
駆け付けた護衛と騎士達にあれよあれよと馬上に担ぎ上げられ、私は呆然とその場に残るエリマスの背を──
「駄目です! 逃げて下さい!」
喉から割くように叫んだ。けれど振り向いてはくれない。
私は正義のヒーローじゃない。他のことなんてどうだっていい。
理不尽で狂った、意味の分からないこの世界で化け物に生まれ落ちて、逃げることも許されない身体。それでもどこかで正気を保てていたのは、薄れゆく記憶の中で鮮明に残る思い出があったから。
そもそも私はどうして聖冠の神子だなんて、自分から一番遠いものに成りすまそうとしたんだったか。
エリマスの右目を治すだけなら、誰にも知られずにやればよかったはずなのに。
ここに来て未だ強欲な私は結局のところ、ただ一目でいい、エリマスを見たかったんだろう。
言い訳をいくつもいくつも重ねて、ほんの少しでも良いから、生きている彼の傍にいたかった。
「あの矢って」
「間違いない、あの時と同じだ!」
「どこまで逃げたら良いんです!?」
護衛たちの声が、遠くで揺れる。
「下ろしてください」
「え?」
無我夢中で馬から飛び降りた瞬間、あり得ない場所から、あり得ない音がした。
落馬は致命傷になりえる。幸いなことに痛みはまだ私の脳に追いついてきていない。
(できれば、ラミアとエリマスの結婚式くらいは見ておきたかったな)
そうして空を見上げて、辞世の一句。
「死ね」
突如、エリマスの頭上に現れるのは──墨で描かれたような巨大な鋏。
口を開けた鯨のようにばくんと歯が開くと、錆びた金属が擦れるような嫌な音を立てて、勢いよく閉じる。
エリマスが私を振り返ったような気がしたけれど、分からない。
私の記憶に残っているのは、そこまでだった。




