3 復学と不穏な気配と
少しずつ物語が動き始めます。
始業式の朝、一週間ほど前から私の父になった人は、朝食の席で急に私を学校まで送って行くと言い出した。
「そんな、大丈夫だよ、一人で行ける。子供じゃないんだから」
「だけどなぁ、そう言うけどお前。意識が戻ってからまだ一週間しか経っていなんだぞ。もしまた何かあったら…」
真面目な顔で、父はコーヒーカップを持ったままの右手を軽く挙げて言った。
「何かって?」
制服姿の私は、マグカップを両手で捧げ持って口元にあて、怪訝な顔で上目遣いに父を見返した。
「何かって…、そりゃ外に出ればいろいろと危ない事がだな・・・」
大した考えもなしにそう言ってしまった自分の言葉を、慌てて取り繕うように父が言う。
「お父さん、そんなこと言っていたら私、一生家から出られないじゃない」
「それは・・・」
自分の親切を否定する、しかし至極もっともな娘の言葉に、やや淋しげに口ごもった父の表情を見て、この人ちょっとカワイイかも、と思わず笑ってしまいそうになった。
以前の私、永戸愛奈という少女はきっと、生まれて来た時からずっと、今目の前に居るこの二人の愛情をたっぷりと受けて育ってきたのだろう。私の心奥に残る彼女の記憶がふと蘇ってきて、確かにそのことを物語る。
「愛奈、お父さんあなたのことがとても心配なのよ、少し前にあんな事故があったばかりだし・・・」
少々過保護な父の態度に、困ったような笑顔で、母が父にコーヒーのサーバーを手渡しながら言う。
「そりゃ、わかるけどさ・・・。でも、もう大丈夫だよ」
――あんな事故…。
その時のことを今までにも何度か思い出そうとした。けれど、その度にかつての愛奈の記憶は、何だかそこだけ靄でも掛かったように、ぼんやりとぼやけてよく思い出せなかった。
気になって、大体のあらましは母から聞いたのだけれど、本当のところ、それは一体どのような事故だったのだろう。
「まっ、お前がそう言うなら、無理に一緒について行ったりはしないけどな。――コーヒーおかわり、飲むか?」
「うん」
大人しく頷いた私に、父は優しい笑顔で、手にしたコーヒーサーバーからマグカップにコーヒーを注いでくれた。
☆☆☆☆☆☆☆☆
今の私の心の奥底にある、かつての愛奈の記憶によると、永戸愛奈が通う高校は、共学の私立の中高一貫校だった。
地方の公立の進学校から上京し、都内の大学へと進学したかつての私、中井和泉とは明らかに周囲の友人たちの質も、家庭生活の水準もまるで違っていた。
(なんだかお金持ちのご子息、ご令嬢が多いみたいね)
高校へは最寄りの駅から電車を乗り継いで五十分弱。都内在住の高校生としてはごく平均的な通学時間だろうか。
来たことはないはずなのに、既視感のある乗り換えのターミナル駅で別の私鉄に乗り換える。
(たまに聞くデジャヴって、もしかしてこんな感じなのかなぁ)
電車を降りて階段を上り、ラッシュアワーと言うにはまだ早いせいか、それほど混み合ってはいない通路を少し歩く。
そのまま乗り換えのホームへの階段の前まで来た時、背後に嫌な気配を感じた瞬間に強く背中を押された。いや、押されたというより突き飛ばされたという方が的確だろうか。
瞬間的に身体が2、3メートル飛ぶように宙を浮き、一旦足が階段についたものの、バランスを崩し、そのまま頭から階段を転がり落ちそうになった。
(ヤバい! 私、また死んじやうの?)
そう思ったら、恐くてなって目を瞑った。
次の瞬間、やや強い衝撃と共に、包み込むように何かが私を受け止めた。恐る恐る目を開ける。
ゆっくりと顔を上げると、駅の階段の狭い踊り場で、若い男の人が驚いたように私のことを見下ろしていた。
(・・・って誰? どうしてこうなってんの?)
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
「危ないですよ、あんまり急ぐと」そう言うと、その人の表情が、言葉とともに少し和らいだ。
ふと気が付くと、私はその人の胸に抱かれた格好になっている。
(えっ! 何? ヤダ!)
「ごめんなさい。ありがとうございます」
そう言うと、恥ずかしくなってすぐに彼から身を離した。
「びっくりした。空から女の子が降ってくるって、本当にあるんだな」
そう言って冗談っぽく笑った。その笑顔が、何だかとても爽やかに見えた。
「でも、君って…」
上り電車がホームに入って来ると、今まで何事かとこちらを見ていた人たちも、皆慌てたように階段を下りて行った。
「あっ! あれに乗らないと・・・。じゃぁ」
軽く頭を下げながら微笑むと、左肩にスクールバッグを掛け直し、その人も階段を駆け降りて行く。
その場に一人取り残された格好の私は、呆然とその背中を見送った。
(なんか、カッコいい・・・)
いえいえ、勘違いだ! そんなことあるはずがない。外見はともかく、私の中身の半分は三十路のほぼオバサン。いくらイケメンとは言え、十代の男子高校生に時めくなんて、そんなとこと有り得ない。
でも…。残り半分の私は、女子高生なのよね…。
(危ないところを助けてもらったからかな。まだドキドキしているし、吊り橋効果? みたいな)
(・・・あれ? でも今の人。あの制服、私と同じ学校の・・・)
とは言えそれは、正確にはかつての愛奈の記憶なのだが。あの人、もしかして同じ学校の生徒なのかもしれない。
そんなことに気を取られ、その時の私は、たった今誰かに背中を押され、もしかしたら自分が殺されかけたのかもしれない、などという不穏な考えはどこかにいってしまっていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆
その男はクラシカルな、それでいて古びているわけではいない、パリッとした黒い背広を着て、同じくマントのような薄手の黒いコートを羽織っていた。
学園へと続く大通りを、登校する生徒たちの波に逆らって歩いている。しかしそれでいて、生徒たちの行く手を塞いだり、ぶつかったりすることは決してない。
歳の頃は五十前半といったところ。黒髪の頭に小さな瘤のような巻き髪が左右にある。鼻の下には口髭を蓄え、白いシャツに蝶ネクタイ。
それは人目を惹くのに十分な出で立ちであるはずなのに、なぜだか擦れ違う生徒たちの中に、彼を気に留める様子の者は誰一人いない。本来そういった異物には、とりわけ敏感な年頃の彼らの目に、その男はまるで全く映っていないかのようである。
「ふん、あれか」
男はつぶやくと、少し前から歩いて来た一人の女子生徒に目を遣った。そうして擦れ違いざまにそのまま踵を返すと、その女子生徒の後を追うように歩き出した。
しかしその時、驚いたことに、男の姿は全くの別人に変わっていた。歳は二十ほども若返って、三十代前半くらいになり、グレーのスリーピース姿に、黒のシャツ。グレーのネクタイ。特徴的な口髭は消え、短かめの髪も綺麗に整えられている。
「先生、おはようございます!」
若返ったその男を見た生徒たちは、今度は口々に挨拶の言葉を口にして、足早に追い越して行った。
「ああ、おはよう」
笑顔で頷きそう答えると、男はそのままゆっくりと校門を通り過ぎて行く。まるで今さっきすれ違った彼女、永戸愛奈の跡を追うかのように。
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