11 時が来るまで
「あれっ? ここどこだろう」
棘のある麗美の言葉に胸が苦しくなり、居た堪れず彼の部屋を出て来てしまった私は、ふと我に返って辺りを見回した。
通りの様子も周囲の建物も、どこを見ても来る時に見掛けた記憶がない。
何も考えず、逃げるようにただ駅への道を急いで来たつもりだったのだけれど、どうやら道を間違えてしまったらしい。
前世からずっとそうだったとは言え、私のこの方向音痴には全くもって困りものだ。
仕方なく、立ち止まってスマホを取り出した。地図アプリを開いて現在地と最寄り駅の位置関係を見ると、私は敦史の部屋のあるマンションを挟んで、まさかの駅とは全く逆方向の場所に立っているようだった。
(はあぁ、もう嫌んなっちゃう…)
一瞬絶望的な気持ちになったが気を取り直し、地図アプリを開いたまま再び駅の方へと歩き出した。
☆☆☆☆☆☆
誰も居なくなった部屋で椅子に凭れ、敦史は目の前のテーブルに置かれたままの空の器を見つめていた。
なぜ自分はせっかく心配して来てくれた麗美に対して、あんな酷いことを言ってしまったのだろう。先程の自分の言動を思い出し、自己嫌悪に陥ってしまった。
取り立てて麗美のことが嫌いだというわけではない。けれど、さっきの彼女の言葉が、どこまで本気なのかは知らないが、自分にしてみれば、彼女は十年の間同じ家で兄妹のように育ってきた、いとこの幼なじみ。ただそれだけ、それ以上の感情はない。
あの時、永戸愛奈の前で、自分に対して麗美がとった馴れ馴れしい態度や、愛奈に対する悪意のある言葉に、つい向きになってしまたことは否めない。
けれど、ではなぜ自分は愛奈のことをそんなに気にするのだろうか。どことなく、その雰囲気が死んだ母に似ているからか?
言うまでもなく、記憶の中の若く美しい、優しかった母の姿は、今でもあの時のまま、すぐに有り有りと目の前に呼び起こすことが出来る。
が、永戸愛奈と亡くなった母とでは、顔も背格好も全く似ていない。それなのに、どうして自分はこんなにも彼女に惹かれるのだろう。
そんなことを取り留めもなく考えていると、ふとテーブルの隅に置かれたままの一枚のプリントが目に入った。
その時、見舞いの他に、愛奈が今日ここへ来たもう一つの理由を思い出した。
(そうだ。永戸さん、この遠足の班行動の計画書を取りに来たんだっけ)
予想外の麗美の来訪で、すっかりそのことを忘れてしまっていた。
愛奈が帰った後、怒った麗美もすぐにここを出て行ってしまった。目の前の壁掛け時計を見上げると、あれからまだ十分も経っていない。
(走ればまだ、追いつけるかもしれない)
敦史はテーブルの上のプリントを引っ掴むと、着替えもせずジャージ姿のまま外へ飛び出して行った。
☆☆☆☆☆☆
駅に向う大通りを跨いだ歩道橋の袂に隠れ、よれよれの背広を着た中年の男が、スマホを片手に向こう側を歩く、一人の少女の姿を見つめていた。
「おい君、こんな所で何をしているのかね?」
不意に背後から声を掛けられ、警察官の職務質問と勘違いした男は、おどおどした様子で振り返った。
「ああいや、私は別に…」
するとそこには、予想に反し、警察官ではなく、見るからに異様な格好をした黒ずくめの男が立っていた。
「貴様、そんなにあの娘のことが気になるのか?」
そう言って口辺に笑みを浮かべたその男は、仕立ての良い黒い背広を着て、マントのような薄手の黒いコートを羽織っていた。艶のある黒髪の頭の左右には、小さな瘤のような巻髪。
どこから見ても異様なその姿にも関わらず、しかし、なぜだか通りを行く人々の目に留まることはないようだ。
「お、お前は…」
彼の姿を見た中年の男は、突然のことに一瞬たじろぎ、言葉に詰まったようだった。が、しかしすぐに落ち着きを取り戻したようで、逆にじっと相手の目を見返した。
「未練だな、いろいろな意味で。いや、むしろ憐れと言うべきか。これだから人間という奴は…」
黒ずくめの男は、一旦視線を逸らし空を見上げた。
「わかっている。お前なんぞに言われなくても、そんなことは。今更どうにもならないことくらいは…」
「ふっ、そうか。ならいい。だが、軽率な行動は控えてもらわないとな。時が来るまでは」
「わかっている…」
そう言って、再び通りの向こう側に戻した男の視線の先に、先程の少女の姿は既になく、いつの間にか見えなくなってしまっていた。
☆☆☆☆☆☆
地図アプリの指示によると、私がここから駅へ向かうには、もう一度敦史の住むマンションの前を通るしかなかった。
(なんだかなぁ…)
再び元の場所まで戻って来て、マンションの前の歩道を歩きながら、私は彼の部屋の辺りをチラリと横目で見上げて通り過ぎようとした。
と、その時、不意に背後から声を掛けられた。
「永戸さん!」
驚いて声のした方を振り返ると、ジャージ姿のままの敦史がそこに立っていた。
(あっくん…!)
目の前を通り過ぎる私を見つけ、エントランスからすぐに走って来たようで、両肩が上下して、少し息が荒い。
「よかった、まだこんな所にいたんだ…」
駆け寄って来た敦史が言った。額に少し汗が浮かんでいる。
「う、うん…」
(それが、そのですね…)
どうにも気まずい私は、視線を逸らし思わず横を向いた。
「でも、藤井くんこそどうして…」
「これっ!」
敦史が手にした一枚の紙を差し出した。
「あっ! そっか。私、これを取りに来たんだった」
受け取った遠足当日の班行動の計画書を見ながら言った。
「ごめんなさい。それで追いかけて来てくれたんだ。私、何やってるんだろう」
「よかった、間に合って。 ーーでも、どうしてまだここに…」
(どうしよう、あんなふうにして出て来ちゃったのに、道に迷ってまたここに戻って来ました、とは流石に言いづらいなぁ…)
私が何と言おうかと躊躇していると、不意に目の前にいた敦史が、私に被さるように迫って来た。
「えっ⁉︎」
(だ、ダメだよ、あっくん‼︎ )
(こんなとこ誰かに、麗美さんにでも見られたりしたら。ーーそれに私たちは…)
「……ん? あれっ? 藤井くん⁉︎」
倒れ掛かって来た敦史を抱き止めて、目の前にある彼の顔を見ると、明らかにさっきより仄かにではあるが顔が紅い。咄嗟に彼の額に掌を当てた。
「⁉︎」
(待って、熱い‼︎)
「ごめん、力が抜けて、目が回ってちゃって。なんかまた熱が上がってきたみたいだ…」
そう言って、苦しそうにふうっ、と息を吐き、無理に私から自分を引き離すように、重たげに身体を反らした。
「藤井くん! 藤井くん!」
「…………」
顔を顰めたまま上を向いて返事がない。
「大丈夫、藤井くん。しっかりして!」
私が近づいて彼を見上げた時、敦史は脱力したようにゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。
「ちょっと待ってて、戻って麗美さん呼んでくるから!」
私が急いで敦史の部屋へ戻ろうとした時、急に後ろから腕を掴まれた。
「待って。いないよ、あいつ。さっき帰ったから」
「えっ‼︎」
「大丈夫、大したことない…。すぐそこだし、一人で、戻れるからから…」
そう言った敦史は、言葉とは裏腹にそのままその場にしゃがみ込んだままだ。
(どうしよう…。このままここに置いて行けない)
「藤井くん、乗って! 部屋までおぶって行くから」
私は屈んで彼に背中を向けた。
「そんな、無理だよ。永戸さんが俺を背負うなんて…」
背後から戸惑う敦史の声が小さく聞こえる。
(そんなことない、火事場の母の馬鹿力、舐めないでよね! 母は我が子のためなら何だって出来るんだから‼︎)
身を屈め、腕を取って無理矢理彼を背中に乗せ、両足に力を込めて立ちあがろうとした。
瞬間、ピキッ、という音が、腰の辺りで聞こえた、・・・ような気がした。実際には音はしなかったのだが。
「うっつ‼︎」
青ざめ、思わず顔を顰めた。ダメだ、びくともしない…。
(ヤバい! ・・・無理。ギックリ腰になりそう…)
「ごめん。やっぱ無理みたい…」
(あっくん、君、ホントに大きくなったのね……)
今回もお読みいただきありがとうございます。
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第1章は次回が最終回です。手直しに少し時間が掛かりそうですので来週はお休みして、5月30日(日)に投稿予定です。




