亡命プログラム:二人だけの聖域と国家の猟犬
「……なんだよ、ここ。ログアウトし忘れて天国に迷い込んだか?」
指定された座標へログインした瞬間、俺の視界は「白」から「蒼」へ塗り替えられた。
そこは雲の上を漂う巨大な浮遊島。現実なら一等地の一軒家が建つほどの維持費がかかる『プライベート・エリア』だ。
床は水晶でできていて歩くたびに澄んだ電子音が鳴る。空気まで高級そうに見えるのが腹立つ。
『驚いた? ここは私の別荘よ。
——“通常の監査クローラー”程度なら、入り込めない閉域設定にしてあるわ』
振り返るとそこにいたのは白銀の鎧でも、華美なドレスでもない。
大学時代の、あの見慣れた——そして俺をゴミを見るような目で見ていた——制服姿のカレンだった。
「……趣味が悪いぞ、お嬢様。卒業式の日に、俺の奨学金申請書を『効率の悪い紙クズ』って笑った時の格好じゃないか」
『あら、よく覚えていたわね』
カレンは笑わない。笑う代わりに、目を伏せる。
その仕草が、妙に人間くさい。
『……あれは、あなたをこの世界に繋ぎ止めるための“教育”だったと言ったら、信じるかしら?』
「信じるわけねぇだろ。俺はあの日、社会にドロップアウトしたんだぞ」
言い返したはずなのに、胸の奥がチクリと痛む。
怒りはある。けど、それだけじゃない。
カレンが歩み寄ってくる。
このエリア限定の設定なのか、彼女の「距離感」そのものが現実みたいに近い。冷たいのに、どこか寂しい香りがする。——嗅覚デバイスの匂いは、いつもより静かだった。
『佐藤さん……いえ、ツカサ』
その呼び方で、背筋が勝手に伸びる。
『「亡霊の認識」の同期率を上げるわ。ここは非公開のテスト閉域。——上限設定を“研究用”に緩められる』
「研究用って言うな。実験台にしか聞こえねぇ」
『合ってるわ』
即答がひどい。
『……触れて。手よ。あなたの入力と、私の解析サーバーを“同期”させるの。あなたのノイズを、あなた自身の目で扱えるようにする』
「……は? どこにだよ」
『手。あなたの手が一番嘘をつかないから』
俺はためらい、そして彼女の細い指を握った。
冷たい。なのに、握った瞬間だけ熱い気がする。脳が勝手に変な補正をかけている。
——視界が跳ねた。
【スキル起動:亡霊の認識】
状態: テスト閉域(ZENON-PRIVATE)/上限緩和モード
予測候補表示: 増幅中
推定精度: 85%(※環境依存)
心拍数: 145bpm(警告)
代償: 過負荷により、現実で「鼻血/動悸/眩暈」のリスク
「……ッ!」
胸が、内側から殴られたみたいにうるさい。
耳の奥で、心臓がバスドラムを叩いてる。
そして——視えた。
ノイズだらけの空間の向こうに、九条の姿が浮かぶ。
彼は泣いていた。いや、泣いて“いたはずのデータ”が、AIの最適解によって削除され続けている。
涙の軌跡が、途中で途切れる。
感情が、途中で消える。
救いを求める動きが、“不要”として切り捨てられる。
「……九条……」
喉が詰まった。怒りが、熱を持って腹の底に溜まっていく。
『視えるでしょう?』
カレンの声が、今度は少しだけ震えている。
『ゼノン社は九条くんを「完成されたAIの部品」にするつもりよ。特例試験であなたが勝てば——彼は“学習が終わった部品”として廃棄される』
「……勝ったら救えるんじゃねぇのかよ」
『いいえ』
否定が残酷すぎて、笑いが出そうになる。
『あなたが負ければ、彼はずっとあの地獄のなかで踊らされ続ける。勝っても負けても地獄。だから——』
カレンが俺の手を強く握り返す。
その瞳には、今まで見せたことのない激しい情念が宿っていた。エリートの仮面が割れて、下から生身が覗いている。
『ルールを壊すのよ』
「……どうやって」
『配信中、視聴者が熱狂し、オーディエンス・ブーストが最大になった瞬間。システムは“見せ場”を作ろうとして処理を増やす。——その瞬間だけ、S-GHOSTの演算に“物理的な過負荷”がかかる』
カレンは、掌の中に小さな黒いものを出した。
チップじゃない。現実のUSBでもない。
ゲーム内のアイテム——黒い「パッチ・シール」。公式のテスト環境でだけ扱える、修正適用用の仮想媒体だ。
『これを、彼のコアに叩き込んで』
「……何だよそれ」
『九条くんの意識を、AIのリンクから切り離すための“切断パッチ”。成功すれば、彼はAIから解放される』
カレンは息を吸って、吐いた。
『ただし、あなたの端末に“避難”させる。あなたのPCに、亡霊として亡命させるのよ』
「……俺のPCに? 何で俺だ」
『あなたのノイズが必要だから。九条くんの意識が“最適化”で削除されない場所が必要なの。あなたの中には、最適化できない無駄がある。——それが救命具になる』
褒めてるのか、けなしてるのか分からない。
でも、なぜかそれが一番信じられた。
「……成功したら?」
『九条くんは救われる。——失敗したら、あなたは「国家資格ハッキング」の重罪人として終わる。運営と政府とスポンサー、全部を敵に回す』
「……最高だな。家賃補助を求めて戦ってたはずが、いつの間にか国家転覆の共犯者か」
乾いた笑いが漏れた。
心臓がうるさい。手が熱い。代償のせいか、それとも——。
『私を選びなさい、ツカサ』
カレンの声が、初めて“命令”じゃなく“懇願”に近い。
『私と一緒に、このクソゲーの運営を絶望させてやりましょう』
カレンの顔が近づく。
唇が触れるかと思った、その時——
エリア全体に、赤いアラートが鳴り響いた。
『警告:外部からの強制スキャンを検知』
『権限:GOV-OVERRIDE』
『——厚生労働省・査察部、緊急介入プログラム【MASTIFF】が隔壁へ侵入中』
「……チッ、あの査察官の野郎。別荘まで嗅ぎつけてきやがったか!」
『言ったでしょう。ここは“通常の監査”なら入れない。でも、国家権限のオーバーライドは別よ』
カレンの手が離れる。
代わりに、俺の手の中に“黒いパッチ・シール”が残った。
『逃げなさい、ツカサ! ログアウトして!』
「パッチは!?」
『あなたの端末に移送した。——暗号化して、セキュア領域に封入したわ。外からは見えない。でもあなたが捕まれば、こじ開けられる』
つまり——持ったまま逃げろ、ってことだ。
カレンが俺を突き飛ばす。
蒼い空が、ガラスみたいにひび割れていく。隔壁の向こうから、獣みたいなスキャンが迫ってくる。
『ツカサ、絶対に……死なないで』
その言葉だけが、妙に現実味を持って耳に刺さった。
俺の意識は、蒼い浮遊島から強制的に引き剥がされる。
——ログアウト。
視界が暗転する寸前、最後に見えたのは、赤い文字だった。
【MASTIFF:追跡対象/TSUKASA】
【理由:未承認パッチ保持の疑い】
「……一蓮托生、かよ」
笑うしかなかった。
この国は、ゲームよりよっぽどクソゲーだ。




