第3話 邂逅 参
次の日の朝。綸は夜遅くまで起きていたので少しだけ寝坊して、朝食をとった後、大学へ向かおうとしていた。
玄関口の鏡の前で、身だしなみの確認をしようとして、ふと気が付く。
「鏡が……割れているな」
昨日までは何ともなかったのだが、鏡の左端の方から、亀裂が入っている。不思議そうに鏡を見る綸に、玄関口を掃除していた管理人が声を掛けてくる。
「ああ、それねえ。今朝見たら割れていたんだよ。何かをぶつけたとかいう訳じゃあないんだけどねえ。何だか不吉よねえ」
「そう……ですか。新しいのに変えなくてはいけませんね。では、行ってきます」
特別気にすることなく、綸は寄宿舎を出る。
今日も変わらず、紅葉が美しい。空気も澄んでいる。綸は昨日のことなどすっかり忘れ、清々しい気持ちで歩みを進めていく。
すると、目の前。植木の中から黒い影が飛び出してくる。
「うわっ!」
思わず声を上げる。黒い影に目をやると、それは一匹の黒猫だった。
黒猫はこちらをじっと見つめ、にゃあ、と鳴いて再び植木の中へと姿を消す。朝から黒猫に出くわすなんて、何となく不吉な気がしてしまう。
——いや、そんなものに負けてどうする。俺は天下の帝大生。迷信なんてものは信じないぞ。
気を取り直して、綸は大学までの道のりを歩いていく。
瞬間——右足に違和感を覚える。
「あ……鼻緒が切れている……」
大学に入学するとき買ったのだから、まだ新しいはずなのに。
何だかツイていない。とりあえず応急処置をして、そのまま大学へと向かう。
割れた鏡、黒猫、切れた鼻緒——。
何だろう。何だか物凄い嫌な予感がする。
——気にするな。先程も言い聞かせたではないか。俺は迷信なんてものは信じない。
とにかく、一限目の講義に遅刻してはいけない。
ざらりとした不安感を胸にしまい込み、綸は大学まで急いだのだった。
*
その後も、今日の綸はとことん運に見放されていた。
ぼうっとしている時に限って当てられるし、落とした鉛筆を踏まれて駄目にしてしまったし、鞄の持ち手を引っ掛けて破ってしまったし——。
こんな不運が重なることなんてあるのだろうかと、綸は何だか怖くなる。何かに呪われているのだろうかと、くだらないことをどうしても考えてしまう。
もう、今日は早く帰ろう。幸い、今日の授業は午前中で終わりだ。帰りに弁当でも買っていって、今日は外に出ないようにしよう。
「……待て。財布がないぞ……」
綸は顔を青くする。仕送り前でそんなに金は入ってなかったとはいえ、あと数日分の生活費が入っていた財布だ。財布がないと飯にありつけない。あと数日、水だけを飲んで過ごせというのだろうか。
正直、いつから無くなっていたのかも解らない。とりあえず鞄の中をくまなく探してみる。だが、出てこない。講義室を探してみたが、何処にもない。
通学路で落としたのだろうか。とりあえず大学を出て、朝通った道を探し回る。
ない。ない。何処にもない。
よくよく考えたら、昨日の夜から財布を見ていない気がする。もしかすると、昨日の夜。遊郭から馬場を担いで帰った時に落としたのかもしれない。
綸は駄目元で、遊郭までの道のりを歩いていく。
——やはり、何処にも落ちていない。もう、誰かに拾われてしまったのだろうか……?
すると、途方に暮れる綸の目の前に、ひらり、と、紙吹雪のようなものが舞い降りてくる。
思わず手に取ると、それは花びらだった。
「花びら? 桜……か?」
今の季節は秋だ。桜が咲いている訳がない。だが、手にした花びらは、桜の花びらのように見えた。
この花は、何処から飛んできたのだろうか。
顔を上げて辺りを見回すと、昨日の遊郭を少し行ったところに、緑に囲まれた、大きな神社があるのが目に入る。
引き寄せられるように、綸は神社の鳥居へと近づく。鳥居の近くには立派な石碑があって、そこに『櫻神社』と彫られていた。
「櫻神社……こんなところに、神社なんてあったんだな……」
何となしに鳥居をくぐり、境内へと入っていく。
境内はがらんとしており、人の気配は全くない。参道を進むと拝殿が見えてきて、拝殿の近くには絵馬が掛けられている。一角には立派な御神木が立っているが、当然のごとく桜の花は咲いていない。
綸は神仏を信じていない。初詣にも行かないような人種だ。だが、今日のあまりの自分の不運に、少しだけ神仏に祈ってみたくなっていた。
拝殿に近付き、そして気付く。
「あ……お賽銭。ないんだった……」
お参りを諦め、近くの段差に腰を下ろす。下を向き、溜息をついた、その刹那——。
「お参り、しないんですか?」
突然声を掛けられ、ドキリとする。
顔を上げると、目の前。年の頃五、六ぐらいの男の子がこちらを見ていた。
着ているのは、赤い着物。まん丸の頭に、赤い髪。異人の子なのだろうか。色素の薄い、ぱっちりお目目でこちらをじっと見つめている。
「あ……えっと……お参り、しようと思ったんだけど。お金を持っていなくてだな……」
子どもに伝わるように、できるだけはっきり、ゆっくりとした口調で言う。
「お菓子は持ってますか?」
「え? お菓子? 持ってないな……」
「お金もなくて、お菓子もないのにここに来たんですか?」
「そ、そうだな……?」
「ちっ、シケてますねえ」
男の子は残念そうな顔をして、吐き捨てるように口にする。
——何なんだ。この子どもは。
周りに親と思われる人物もいない。神社で一人、遊んでいたのだろうか。
すると、男の子は突拍子もないことを言い出す。
「あなた、呪われてますね」
心臓が、ドクンと跳ねる。
「呪い……? 呪いって、何を言ってるんだ?」
「あなた、呪われているのです。覚えがありませんか? 身の回りに不幸が起きてはいませんか?」
淡々と語る男の子。こちらを見つめる瞳が爛々と輝く。
その視線が、まるで妖怪か何かのように感じられて——綸の鼓動はどんどん速くなっていく。
「君は、何を言っているんだ……?」
「だから、あなた、呪われているんですって」
男の子はふう、と息を吐き、続ける。
「このままだと、あなた、死ぬかもしれませんよ」
「し……死ぬ!?」
そんなのデタラメに決まっている。この男の子は適当なことを言って、綸をからかっているだけだろう。
しかし、何故だろう。ものすごい不安になってくる。
「ど、どうしたらいいんだ?」
「何がですか?」
「どうしたら、俺は死なずに済むんだ?」
「そうですね……『呪い返し』をすればいいのです」
「呪い返し………?」
困惑する綸の顔を見て、男の子はふふん、と笑う。そして、木の棒で地面になにやらごちゃごちゃと書き始める。
しかしくま つるせみの いともれとおる ありしふゑ つみひとの のろいとく
「……何の呪文だ?」
「呪い返しの秘言です。あなたの呪いはそんなに凄いものじゃないので、これで祓えます。さあ、読んでください」
これは——この子なりの、遊びなのだろうか。それにしては手が込んでいるようだが。
この世に呪いなんてものがあるなんて信じられない。科学の発展したこの時代に、そんな非科学的なものがあってたまるかってんだ。
だが、ここで『馬鹿げている』と、この子の好意を蹴飛ばすのは、大人として良くないだろう。
「しかしくま、つるせみの、いともれとおる、ありしふゑ、つみひとの、のろいとく……?」
静かに、男の子の書いた秘言とやらを読み上げる。
「……これでいいのか?」
「はい、これで大丈夫です。呪いは、相手に返りました」
「そ、そうなのか……」
「では、用が済んだなら帰ってください。今度来るときは、お菓子を持ってきてくださいね」
「え、ええ……」
男の子に背をぐいぐいと押され、鳥居の方へと促される。
「君、名前は何ていうんだ?」
「……『さくら』です」
「さくら、親切にしてくれてありがとう。今度、お礼をさせてくれ」
「はい」
さくらの手が、己の背から離れる。
振り返り、綸は驚愕する。
先程までそこにいたはずのさくらの姿が、何処にもないのだ。
「さくら……? さくら?」
綸は辺りを見回す。だが、どこにも子どもの姿はない。紅葉した木々が佇むだけで、辺りは閑散としていた。
「……帰ろう」
急に消えたさくらのことは気になったが、どうしようもない。
もしかしたら、白昼夢を見ていたのかもしれない。そのぐらい、さくらとの初めてのやりとりは、ふわっとしたものだった。
そして、綸は思い知る。
呪いというものの、恐ろしさを。
それに手を出してしまった、自分の愚かさを。




