第30話 愛心 弐
頭に流れ込んできたのは、古い、幸せな記憶。
『ねんねこや、いくさねとおく、かかはここに、そばにいる』
満開の桜の木の下で、女が大きな腹を抱えて歌っている。
『ねえねえ、お腹の子が生まれたら、何と名を付けましょうか』
これからの希望を思う、満ち足りた声。
『この子にはね、人と神との、架け橋になってほしいのです。私の愛する、桜郷の人々と私の愛する、貴方様の、ね』
夢見る瞳をして、女は告げる。
『さみしがりやの貴方様が、どうか』
——どうか、さみしい思いをしませんように。
*
「そうだったのか……」
綸は桜の幹に手を添え、口にした。
「どうしたのですか、綸。早く、禍津桜神を、斬ってください」
さくらの焦ったような声が、脳内に響く。その声に、綸は首を横に振ってみせた。
「違う。禍津桜神は、この地の人のことも、霊部のことも……恨んではいなかったんだ……」
赤黒く染まった幹を、静かに撫でながら。
「禍津桜神……いや、彼女は、お前を一人にしたくなかったんだ。子を失い、彼女を失い、神様という存在が忘れ去られ……お前が一人になることを、苦しく思っていたんだ。その強い思いが、呪いとなってしまったんだ。彼女は、さくら、お前のことを……」
綸が、白羽を思う気持ち。それよりも、ずっとずっと、重く。
「心から、愛していたんだ……」
するり、と、手から刀を握っていた感触が消えた。
横を見ると、小さな男の子の姿のさくらが、じっと桜の木を見つめている。
「……馬鹿ですね、貴女は」
ぽつりと、さくらが呟く。
「私のことなんか、心配しなくていいのに。私は、神様なのですよ。人とは違うんです。寂しいだとか、苦しいだとか、そんなことは感じないのです」
「……俺は、そうは思わんぞ?」
綸が声を上げると、さくらはこちらを見て、きょとんとする。
「俺は、白羽に会うまではな、ずっと、自分は、自分一人の力だけで生きてきたと思っていた。勉強だって、一人で頑張ってきたし、苦しいことも、誰にも言わずに乗り越えてきた。だがな、白羽と出会って、初めて自分の弱さも、認められるようになったんだ。俺も、ずっと、一人で寂しかった。だから、神様だって、寂しいと思っていい。完璧なものなんて、どこにもないんだ。もっと、誰かを頼ったりしていいんだ。例えば、えーっと、子どもらしく、俺に我儘を言ってみる……とか?」
格好つけてはみたが、やはり、気の利いたことが言えない。
気まずそうな顔をする綸をしばらく凝視した後、さくらはくすくすと笑い出した。
「ふふふ……そう、ですね。お兄さんのその、不器用な優しさに、霊部の子も救われたのでしょうね」
さくらは一歩二歩、前へと進み——桜の幹に、両手を回した。
「ありがとう。私はもう、大丈夫ですよ」
頬を寄せ、静かに告げる。
「貴女を、愛してます」
瞬間——桜の幹が、淡く光り輝く。赤く染まっていた花びらが、みるみるうちに薄桃色へと変化していく。
粉雪のように、花びらが舞う。
血染めの桜は、美しく力強い、本来の姿を顕現した。
「これが……本当の、実りの秋に咲く、桜の木、か」
「ええ。これで……禍津桜神……呪いは、祓えました」
桜の木を見上げながら、さくらが続ける。
「これで、霊部の子も……もう、生贄を捧げる必要もありません」
「霊部……? そうだ! 白羽!」
綸は白羽の元へと向かう。抱き起すと、白羽は、ううん、と声を上げ、目を開いた。
「あれ、綸……何で、こんな所にいるの?」
「白羽! よかった! 無事か? 気分は悪くないか?」
「うん……大丈夫。あれ……」
白羽が、自らのはだけた胸元を見る。以前、そこにあった桜紋様の痣が、消えてなくなっていた。
「噓……綸、これ……」
「ああ、そうだ。呪いはなくなった。お前は自由なんだ」
「本当に? 僕、生きてもいいの? 綸の傍に……いていいの?」
「ああ! もちろんだ!」
「綸!」
「白羽!」
思い切り抱きついてきた白羽を受け止めきれずに、そのまま二人で地面へと転がった。
身体中が痛かったが、心は晴れやかだった。
描いていた未来とはまるで違う、滅茶苦茶な現実だ。
この先、何を成せるのか、自分が何をしたいのかは、まだ解らない。
けれども、この瞬間。生き方だけは、決まった気がした。
俺は、君と一緒に、生きていく。




