第29話 愛心 壱
目の前には、禍々しく変形した、木の根が蠢いている。
綸は白羽を抱きしめ、血の色をした桜の木——禍津桜神と対峙する。
——スルナ! ヒトリニスルナ!
辺りに、耳を塞ぎたくなるような呪いの声が反響する。
「うぎゃあああああ! 助けてくれ! 助けてくれえええ!」
神主は叫び声を上げながら、その場から走り去る。禍津桜神は神主には毛ほども関心を持っていないのか、追撃することはなかった。
「この……白羽は何があっても渡さないからな……」
綸は神主が投げ捨てた鋤を手に取り、顔の前で構えてみせる。
勉強ばかりだった綸には、当然ながら、武道の心得はない。『呪いの神』相手に、あまりにも頼りない姿だ。
だが、他に何も思いつかない。無理でも何でもいいから、白羽を守らなくては。
——アアアアアアアアア!
轟音と共に、白羽を捕らえようと、根が伸びてくる。
「くそっ! どっかいけ! こっちにくるな!」
綸は鋤を振り回して、木の根を払う。
抵抗できたのは数秒で、次の瞬間には綸の腕に根が巻き付いていた。
カラン、と、手から鋤が落ちる。
「離せ! 呪いだか何だか知らないが、調子に乗るな!」
気持ちだけは負けまいと、大声を出して藻掻く。
しかし、木の根は白羽の身体にぐるりと巻き付き、綸から白羽を引き剥がし、幹の方へと引き寄せようとする。
「ふざけるな! 俺の白羽だ! 返せ!」
腕に巻き付いている根を引きちぎり、白羽を捕らえている根にしがみつく。
ずるずると引きずられる身体。力を込めても、白羽を引き戻せない。
だが、諦めてなるものか。
全身全霊の力を込めて、根を引っ張り続ける。
このまま、白羽を取り込まれてたまるものか。白羽を奪われてたまるものか。
綸はいつも何処かで、本気になることを恐れていた。本気になって、何も得られなかったら、自分が壊れてしまうような気がしていたから。けれど、白羽に出会って、初めて好きな人ができて、自分以外のものを信じられるようになったのだ。
——俺はもう一人じゃない! だから負けない!
息を大きく吸い込み、そして口を開く。
「見ているんだろう! 見ているなら力を貸してくれ!」
祈る思いで、腹から声を出す。
「さくら!」
叫ぶが早いか——綸の横を、強い風が通り過ぎる。
すると、綸や白羽に巻き付いていた太い根が、ぷつりと切れる。綸は白羽を抱えたまま、後ろに倒れ込んだ。
「……どうして、さくらがいると思ったんですか? お兄さん」
眼前に、赤毛の子どもの顔が逆さまに現れる。
倒れる綸の顔を覗き込む幼子を見て、綸は不敵に笑ってみせた。
「さくらは、初めて会った時も、俺を助けてくれたからな。きっと、また助けてくれるんじゃないかと思ったんだ」
「さくらが助けに来なかったら、お兄さん、どうするつもりだったんですか?」
「そうだな……あまり考えてなかった。さくらはきっと、禍津桜神の傍にいると思ってたから」
「どうしてですか?」
「だって、さくらは、今でも、彼女を心配してるだろう?」
さくらは黙って、綸の顔を見つめている。綸は上体を起こし、さくらに向き直る。
「赤い髪で、おはぎと人が大好きな、桜郷の『本物』の土地神様。お前がそうなんだろう? さくら……」
一呼吸つき、意を決して——告げる。
「お前の本当の名は、さくら……桜之御中主神……」
「!!」
瞬間——さくらの身体が、眩い光に包まれた。あまりの光の強さに、綸は目を伏せる。
次にさくらの姿を見て、思わず言葉を失った。
齢五、六ぐらいだったさくらの姿が、成長していた。背丈は綸と変わらないぐらいに伸び、凛とした瞳が黄玉のように光る。変わらず美しい赤い髪に、藍色の着物姿。腰には宝刀を差していて、一昔前の、侍のような印象を受けた。
「さ……さくら……お前、急に色男になったな……?」
驚きすぎて、そのままの感想しか言えなかった。恐らく、これが本来のさくらの姿なのだろう。
「貴方が、私の本当の名を呼んでくれた。それは『言霊』となって、私に力を与えました。今なら……禍津桜神を、倒せるかもしれません」
さくらは言葉遣いまで大人になっていて、まるで別人のようだった。
「下がっていてください。霊部の子を……離してはなりませんよ」
「……ああ!」
言われた通り、白羽を抱え、後ろに退く。
さくらは腰の刀をすらりと抜き、禍津桜神に向かって構える。
禍津桜神は唸りを上げ、地面からいくつもの根を生やしてさくらに狙いを定める。
綸は息を呑み、さくらと禍津桜神を交互に見つめる。白銀の刀身がギラリと光ったかと思うと、さくらの姿がこつぜんと消える。
刹那——さくらは禍津桜神の幹の前まで迫り、刀で太い幹を斬り付けた。
しかし、刃が通らない。桜の幹はわずかに傷ついただけで、まだ呪いはそこにある。
次々とさくらに襲いかかる攻撃。それをひらひらと躱しつつ、斬り伏せていくさくら。
強く、そして美しい。
だが、僅かに押されている。このままでは、さくらは力負けしてしまうかもしれない。
「さくらが戦ってくれてるんだ! 俺も、何かしなくては……!」
焦る綸の目前で、さくらが地面を蹴り、木の幹から距離を取る。
だが、さくらの立っていたすぐ後ろに根が生え、それがさくらの足を絡め捕る。
「さくら!」
綸は白羽を地に横たえ、鋤を持ってさくらの元へと駆ける。さくらに巻き付いている根に向かって鋤を振り下ろし、ぶつりと両断する。
「駄目です、危険です。霊部の子と一緒にいてください」
禍津桜神から目を逸らさずに、さくらは言う。だが、そんなさくらの姿を見て、綸は違和感を覚える。
「さくら……お前、さっきより、縮んでないか?」
自分と同じぐらいの青年の姿となったはずのさくらが、自分より小さくなっている。今は丁度、澪と黒音ぐらいの年齢といったところか。
「困ったものです。先程、お兄さんから頂いた力が、もう弱まってきているのです。短期決戦を仕掛けたつもりだったのですが……不覚です」
そうしている間も、禍津桜神の攻撃は止まない。木の根を地面から生やし、四方八方からさくらに迫っていく。
——オマエハ、邪魔ダ!
ひと際太い根が、綸の目の前まで迫る。
頭ではまずい、と思ったが、身体が動かない。
「お兄さん!」
さくらが綸と木の根の間に割って入る。
刀で受けるが、衝撃が殺しきれず、綸とさくらは後方に吹き飛ばされた。
「さくら! 大丈夫か! さくら!」
「……さくらは、大丈夫です」
膝をつくさくら。傷はないようだが、どんどん子どもへと戻っていっている。禍津桜神の勢いは衰えることなく、根を大蛇のようにくねらせ、狂ったように暴れている。
「何か……何かないのか? さくら。もう一度、名前を呼べばいいのか?」
「駄目です。一度受け取った言霊は、そう何度も効果を発揮しません」
「俺は……さくらに、何ができるだろうか? 何でもいい。俺にできることがあるなら何でもやろう。死ぬのは……困るが、少しぐらい寿命が縮まっても、この際、文句は言わないぞ!」
「そうは言われましてもね……」
さくらは考えるように、眉間に皺を寄せる。
綸も混乱する頭でどうにかしようと考えるが、そうそう妙案など浮かばない。
「ああ、こんなことならば、もっと、攻撃に使えるような陰陽術を至さんから教わっておくんだった! いや、そんなものあるのか解らんが……」
ぽつりと、吐いた弱音だった。
だが、それを聞いたさくらの目の色が変わった。
「お兄さん、陰陽師なんでしたっけ?」
「え? ああ、一応……簡単な式神とか、霊査ができる程度だが……」
「……それなら、もしかしたら、何とかなるかもしれません」
「えっ? 何をする気だ? さくら」
さくらは静かに立ち上がると、手にした刀を綸へと差し出す。
「この刀で、さくらを刺してください」
急に告げられた物騒な物言いに、綸は慄いた。
「なっ、何でだ!? そんなことしたらさくらが死んじゃうだろう!? いや……神様だから死なないのか?」
あたふたする綸を無視し、さくらは綸の右手に刀を握らせる。
「これには、意味があります。今、さくら自身の霊力は、もう尽きようとしています。ですが、お兄さん。お兄さんは陰陽師としてはまだ半人前ですが、霊力の素質だけでいったら、中々のものです。だから、お兄さんの霊力をもって、さくらを使役するのです。そのために、お兄さんには今ここで、さくらを「調伏」してもらいます。さくらは、さくらに打ち勝ったお兄さんの、式神となるのです」
「さくらが……俺の、式神に?」
「そうです。ほら! 早く!」
禍津桜神の叫声が、辺りに響き渡る。
迷っている暇は——ない。
「くそっ! やるしかない! さくら……行くぞ!」
初めて握る刀の重さと恐ろしさに、背中に冷や汗が伝う。
己の心臓の音が、ドクドクと聞こえてくる。
息を深く吸い、刀を構える。
「はああああああっ!」
掛け声と共に、さくらの小さな身体に刃を突き立てた。
次の瞬間——さくらの身体は光へと変化し、綸の持っている刀へと集まっていく。
刀身は黄金に輝き、六尺ほどの大剣になった。
「な、なんだこれは!?」
驚愕する綸の頭の中に、さくらの声が直接響いてくる。
「さくらは、お兄さんの式神になりました。今は刀の形となって、お兄さんの手に握られています。さあ、反撃してください!」
「反撃っていっても……俺は、刀なんて使ったことはないが!?」
とりあえず、刀を両手で持ち、構えてみる。だが、本当にこれでいいのだろうか。持ち方すら知らないのだが。
迷う綸に構うことなく、禍津桜神の根が目の前まで伸びてくる。
「ええい! ままよ!」
綸は目を瞑ったまま、剣を大きく振り抜く。
すると、木の根は綺麗に真っ二つに裂け、地面へと落ちる。先程まではすぐに再生して襲いかかってきたのだが、切断面は黒くなり、ボロボロと崩れていった。
「す、すごいぞ、さくら! これが、お前の力なのか?」
「はい、お兄さんと、さくらの力です。これなら、禍津桜神の呪いを、斬ることができます!」
的確に攻撃を避け、次々と生えてくる根を切り落としていく。
まるで自分の身体じゃないみたいだった。恐らく、さくらが綸の身体が動くのを補佐してくれているのだろう。なんとも不思議な感覚に、綸は苦笑した。
やがて、根の攻撃が止んだ。血色の桜の木の幹が、無防備な状態になる。
「トドメです! 桜の幹を、ぶった切ってください!」
「……ぶった切る? あの木は、さくらの力の源でもあるのだろう? 切ってしまって平気なのか?」
「……構わないでください! さあ!」
綸は木の幹へと駆け寄る。目の前に立ち、光る刀を構える。
木の幹からは、ドロドロと赤黒い血のようなものが流れ出ていた。
それが何だが——綸には、禍津桜神が、泣いているように見えた。




